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青梅街道

青梅街道(おうめかいどう)は、東京都新宿区から東京都青梅市を経由し、山梨県甲府市に至る道路である。青梅市街には旧道が残り(東青梅三丁目交差点 - 青梅市民会館前交差点)「旧青梅街道」と呼ばれている。また、青梅街道の北側にはバイパス道路として新青梅街道が設置されている。起点の新宿大ガード西交差点では、靖国通り(都道302号)より片側3車線の道路として直進で接続し、中野坂上交差点まで西北西に進んだ後、緩やかに真西へ向きを変える。高円寺陸橋交差点で環七通りの高架と直角に交差し、ここから片側2車線となるが、その後は阿佐ヶ谷付近で北西に向きを変え、環八通りのアンダーパスと交差する四面道交差点ではX字状に交わる。その後は緩やかなカーブが連続する。更に進み、西武新宿線と交差した直後の田無一丁目交差点では左折方向が青梅街道となる。直進するとここを起点として所沢街道となり、すぐ北西の北原交差点で新青梅街道と交わる。田無一丁目交差点より先は片側1車線となり、田無の市街地を抜けると再び真西へ直進する。東大和市駅東隣の青梅橋交差点からは北北西へ進み、更に西武拝島線をくぐってすぐの南街四丁目交差点では真北へ向かうハーモニーロードに対して左折分岐となり、先の奈良橋庚申塚交差点で新青梅街道を横切り、青梅街道が新青梅街道より北側となる。その後、奈良橋交差点で左折し、カーブが連続する区間となる。武蔵村山市内で大きく左にカーブし南南西へ進路を変更するが、青梅街道はその後の大曲り交差点で右折となり、再び西北西へ進路を取る。瑞穂町の瑞穂松原交差点は青梅街道と新青梅街道の分岐となっており、終点側からは直進が新青梅街道となっている。青梅市街地を通過した後は多摩川沿いに屈曲が連続する区間となり、奥多摩湖の先で山梨県に入る。歴史的には、青梅街道の起点は現在の新宿三丁目交差点付近であり、この地点は甲州街道との分岐点であったことから「新宿追分(しんじゅくおいわけ)」と呼ばれていた。また、現在の起点より100mほど南、思い出横丁の入り口付近には、本来の青梅街道が現在の角筈ガード付近を通っていた事を示す碑が設置されている。1603年(慶長8年)、江戸城築城のために、青梅の成木村で採れる石灰を運搬する道路として、大久保長安の指揮の下に整備された。当時の名称は成木街道であった。しかし、江戸時代中頃には絵図や紀行文などに「青梅街道」の記述が見られる。内藤新宿で甲州街道から分かれ、青梅、大菩薩峠を経由し、甲府の東にある酒折村(現:甲府市酒折)で甲州街道と再び合流する。このため、「甲州裏街道」とも呼ばれた。道程で甲州街道より二里短く関所が無いため、庶民の旅客にも多く利用された。但し、塩山近くに萩原口留番所があり小規模な関所が実質存在した。番所の跡と近くに番所の門を復元した温泉保養施設(大菩薩の湯)がある。また、大菩薩峠登山口バス停にある番屋茶屋はもともと萩原口留番所近くの茶屋だったことから由来し、バス路線開設で現在地に移転したものである。1869年(明治2年)、新宿と田無間に乗合馬車が開通。青梅街道は多摩地区と都心を繋ぐ生活道路としても定着していく。1878年(明治11年)には、最大の難所であった大菩薩峠を迂回するルートとして柳沢峠が開削され、大菩薩峠を通るルートから変更された。1921年(大正10年)には、新宿・荻窪間に路面電車(西武軌道)も開通。この電車は後に都電杉並線(都電14系統)となったが、青梅街道の地下に営団地下鉄荻窪線(現:東京地下鉄丸ノ内線)が1962年1月23日に荻窪駅まで開通したことに伴い1963年(昭和38年)に廃止された。2009年(平成21年)4月、東大和市の西武拝島線東大和市駅北側で、道路整備事業により、新青梅街道に至る新たな道路が本道に対し斜めに接続され、信号付き交差点が新設された(南街四丁目交差点)。これに伴い本道経路が変更され、当該箇所において屈曲することとなった。1962年(昭和37年)4月25日、東京都通称道路名設定公告。整理番号17。都県境は、東京都西多摩郡奥多摩町 - 山梨県北都留郡丹波山村(鴨沢橋)にある。

出典:wikipedia

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