カールハインツ・シュトックハウゼン(Karlheinz Stockhausen、1928年8月22日 - 2007年12月5日)は、ドイツの現代音楽の作曲家。ケルン郊外の村で生まれる。父親は大学の講師でピアノを弾き、母親は裕福な農家の出身であった。母親は、カールハインツが4歳のときに精神を病んで入院したが、後にナチス政権の優生学に基づき安楽死させられ、父親は第二次世界大戦末期の1945年に東部戦線に出征し、行方不明のまま戻ることはなかった。6歳時よりピアノを習っていたカールハインツは、1947年、ケルン音楽大学のピアノ科に入学、スイスの作曲家フランク・マルタンに理論を師事する。在学前と在学中はジャズ等のピアニストとして生計を立てていたが、同時にケルン大学にも籍を置き哲学などの思索にふけった。この大学の音楽学学科には晩年になっても定期的に訪れ、特別講義を担当していた。音楽大学音楽教育科を卒業した1952年頃ころから作曲家になる決心をしたと本人はSWRのインタビューで語っている。1952年、フランスに移り、パリ国立高等音楽院に入学、オリヴィエ・メシアンの分析クラス、ダリウス・ミヨーの作曲クラスにて学んだ(卒業はしていない)。「群の音楽」や「モメント形式」などの新しい概念を次々と考案し、また、世界で初めての電子音楽を作曲。「少年の歌」や「グルッペン」、「コンタクテ」、「モメンテ」などの代表作を作曲して、第二次世界大戦後の前衛音楽の時代において、フランスのピエール・ブーレーズ、イタリアのルイジ・ノーノらと共にミュージック・セリエルの主導的な役割を担った。60年代後半以降は確定的な記譜法を離れ、自身の過去作品を出発点としてそれを次々と変容してゆく「プロツェッシオーン」や短波ラジオが受信した音形を変容してゆく「クルツヴェレン」などを作曲。更には、演奏の方向性がテキストの形で提示された「直観音楽」を提唱する。アロイス・コンタルスキーやヨハネス・フリッチェらの演奏家とアンサンブルを結成し、これらの音楽を演奏した。70年代には「フォルメル技法」を掲げて再び確定的な記譜法に回帰。1977年から2003年まで、7つのオペラから構成される長大な連作「光(LICHT)」の創作に携わり、最終作である「日曜日」の第3場面「光‐絵」が、2005年の自身の28年ぶりの来日の際に東京の夏音楽祭にて演奏された。2004年以降は、一日の24時間を音楽で表現する24の連作「クラング」を作曲していたが、あと一歩で全曲の完成は叶わなかった。1961年、ケルン郊外の村、に土地を購入し、自身の要望どおりの家を4年ほどかけて建て、以後はその家で過ごした。また、「シュトックハウゼン出版社」を設立し、自作のCDや楽譜などを体系的に出版する。1998年からは毎年キュルテンで「シュトックハウゼン講習会」を開催、後進の指導に熱心に取り組んだ。2007年、キュルテンの自宅にて、12月5日に亡くなった。典型的なセリエリズムに基づく「点の音楽」から「群の音楽」、「モメント形式」、そしてメロディー的な要素とセリエリズムの統合を図った「フォルメル技法」へと作曲技法を発展させていった。また、世界で最初の電子音楽を作曲し、生演奏を電気的に変調させるライヴ・エレクトロニクス作品も手掛けた。不確定性や多義性を伴った形式を試行していた時期もある。無伴奏合唱のための「ドリスのための合唱」(1950年)や声と室内オーケストラのための「3つの歌曲」(1950年)など、伝統的で新古典主義的な作風から出発するが、の勧めでダルムシュタット夏季現代音楽講習会に参加した際にオリヴィエ・メシアンの「音価と強度のモード」を聴き、衝撃を受ける。この作品を数百回も繰り返し聴いた(P・グリフィス、1983年)ことが契機となり、シュトックハウゼンはセリエリストとしての第一歩を踏み出した。さらにカレル・フイヴァールツの「二台のピアノのためのソナタ」をフイヴァールツと初演して影響を受け、オーボエ、バスクラリネット、ピアノと打楽器のための「クロイツシュピール」(1951年)において、トータル・セリエリズムを採用する。渡仏後はメシアンの下で学び、さらにピエール・ブーレーズとの手紙のやり取りを通じて、セリエルな作曲法への習熟をより深めていく。ダルムシュタット講習会では20代で既に講師を務め、日々ブーレーズやルイージ・ノーノと熱い議論を戦わせていた。これまでの作品には分数番号が用いられた「未熟な」作品だったが、作品番号第1番が与えられた10楽器のための「コントラ・プンクテ」(1952年-1953年)を経て、「ピアノ曲I〜IV」(1952年)では「群作法」を試みる。これは、個々の点ではなくそれらの集合体であるより上位の概念「群」にセリーを適用する作曲法である。また、続くピアノ曲集「ピアノ曲V~X」(1954年-1955年)では、これまでに無かった新しい記譜法の模索が行われている(「ピアノ曲VI」及び「ピアノ曲X」)。フランスからケルンに帰ると西ドイツ放送が新設した電子音楽用のスタジオで働き始め、世界で最初の電子音楽である「習作I」(1953年)及び「習作II」(1954年)を作曲。続いて、「少年の歌」(1955年-1956年)や電子音楽とピアノと打楽器のための「コンタクテ」(1958年-1960年)などが作曲された。「少年の歌」は、『旧約聖書』の「ダニエル書」から採られたテキストを歌う子供の声の録音と電子音楽が組み合わされた作品で、「コンタクテ(接触)」は電子音楽と生の演奏がタイトルの通り「接触」し、共演する。音響の空間配置も意図的に音楽構造に取り入れる「空間音楽」の概念もすでにこの時期には打ち出されていた。ブーレーズとの書簡からは、この時期既に不確定性の作曲を模索していたことが明らかとなっている。「コンタクテ」や「カレ」などの作品で試みられたモメント形式が、ソプラノ独唱、4群の合唱と13楽器のための「モメンテ」(1962年-1964年/1969年)において集大成される。「モメンテ」は「Kモメント」、「Dモメント」、「Mモメント」という3種のモメント群のさまざまな組み合わせからなり、各モメントをどう組み合わせるかは、一定の法則によりつつ演奏者の裁量に委ねられている。テキストは『旧約聖書』の「雅歌」や2番目の妻となるマリー・バウアーマイスターからの手紙、ウィリアム・ブレイクの詩などから採られている。この時期には電子音楽の経験を発展させ、リング変調、フィルター、ディレイなどを生演奏に施して音響を変調させるライヴ・エレクトロニクスの手法も積極的に試みられた。6人の奏者のための「ミクロフォニーI」(1964年)は、タムタムをさまざまな方法で演奏し、それらの音をマイクロフォンや電気フィルターを通して変形する。オーケストラ、4つの正弦波ジェネレーターと4つのリング変調器のための「ミクストゥール」(1964)は、オーケストラの音色にリング変調が施され、生の音と混合される。そのほか、「プロツェッシオーン」や「クルツヴェレン」、「7つの日より」など、この時期に作曲された多くの作品は、生の音を電気的に変調することが前提となっている。1966年には来日し、NHK電子音楽スタジオにて旋律楽器とフィードバックのための「ソロ」(1965年-1966年)と電子音楽「テレムジーク」(1966年)が作曲された。「ソロ」は独奏者(楽器は任意)の演奏をフィードバックを駆使して変形する作品だが、作曲当初は技術的な制約によりリアルタイムでの処理が出来ず、独奏者と録音テープの共演という形で演奏された。「テレムジーク」は日本の雅楽(越天楽)をはじめアマゾン、バリ島、ヴェトナム、スペイン、ハンガリー、南サハラ、中国など、世界各国の民族音楽が素材となっている。それらは「相互変調」と呼ばれる手法で変形され、電子音楽の網の目の中に組み込まれる。「テレムジーク」の手法を発展させた2時間近くに及ぶ電子音楽「ヒュムネン」(1966年-1967年)では、音響素材として世界各国の国歌、短波ラジオの音、その他さまざまな音響が取り上げられている。「テレムジーク」や「ヒュムネン」に見られる、世界中の多様な音楽や音響を取り込み統合しようとする傾向を、彼自身は「世界音楽」という言葉で表現しており、同時期の多くの作品にもそうした考え方が反映されている。6人の歌手のための「シュティムング」(1968年)は、低い変ロ音の倍音のみを基本構造として全曲が構成される。この作品はホラチウ・ラドゥレスクをはじめ、多くの作曲家の作曲・音色観に強烈な影響を与えた。。この時期には不確定性が導入された作品が多く作曲されている。「モメンテ」や「ミクストゥール」、オーケストラのための「ストップ」(1965)などの作品は、楽曲形式や音楽の細部など様々なレベルにおいて不確定・多義的な要素が楽曲に取り入れられている。この時期には他に、弟子たちとともに創作した集団作品「アンサンブル」(1967年)と「家のための音楽」(1968年)がある。この時期、シュトックハウゼンは確定的に記譜された作曲法へ回帰する。「モメンテ」のヨーロッパ・ヴァージョンは、完全に記譜されたイントロが書き加えられた。旋律でありながらセリーとしても機能する「フォルメル」と呼ばれる短い素材から作品全体の時間構造、音程構造などを組織的に導き出す「フォルメル技法」と呼ばれる作曲技法を開発し、2人のピアニストのための「マントラ」(1970年)において初めて採用された。「マントラ」は演奏時間70分近くの作品だが、全体の構造は全て冒頭で演奏される1分程度のフォルメルによって決定されている。「フォルメル技法」によって、ダンサーとオーケストラのための「祈り」(1973年-1974年)、クラリネットのための「ハルレキン」(1975年)、オーケストラのための「記念年」(1977年)、クラリネットのための「友情を込めて」(1977年)などの作品が作曲された。70年代の流行となる「反復」素材も、これまで以上に積極的に導入されることが多くなり、必然的に演奏時間の長大化へつながった。オーケストラとテープのための「トランス」(1971年)、2人の歌手のための「私は空を散歩する」(1972年)、コーラスオペラ「息吹が生を与える」(1974年/1977年)などの作品には演劇的・視覚的な要素が採り入れられているが、「祈り」においてはジェスチャーと音楽のセリエルな融合が果たされている。この作品ではダンサーの手の高さが音高に、手の広げ方がリズムに、手の前後の位置がダイナミクスにそれぞれ関連付けられており、ダンサーのジェスチャーとオーケストラの音楽が相関関係にあるように作曲されている。また、「ハルレキン」においてクラリネット奏者は40分以上もの間、楽器を演奏しつつ楽譜に正確に記譜された様々な動作を演じなければならない。こうした方向性は「光」においてさらに発展していく。この時期から「音が最初から最後まで流れ続ける」というラ・モンテ・ヤングに代表されるアメリカ実験音楽の影響が、顕著になる。ただし、ケージ派が用いる完全な沈黙や、ノーノ派の聴こえにくい極度の微細なPPには、後年あまり興味を示さなかったようである。この時期以降も、不確定性、多義性を伴った作曲法が完全に捨て去られた訳ではない。例えば「ティアクライス」(1974年/1975年)は、演奏者が記譜されたメロディーをもとに自分自身の演奏用ヴァージョンを作ることを求めている(なお、この作品は本来オルゴールのための作品である)。作曲者自身も様々な楽器編成のために数多くのヴァージョンを作っている。また、電子音楽とトランペット、ソプラノ、バスクラリネット、バスのための「シリウス」(1975年-1977年)は、「ティアクライス」のメロディーが全体の構造の基礎(フォルメル)となっている。1977年に作曲され、日本で初演された雅楽の楽器と4人のダンサーのための「歴年」(1977年)を契機として、1週間の7つの曜日をタイトルとした7つのオペラから構成される「光 - 一週間の七つの日」(1977年-2003年)の作曲が作曲される。以後、「木曜日」(1978年-1980年)、「土曜日」(1981年-1983年)、「月曜日」(1984年-1988年)、「火曜日」(1977年/1988年-1991年)、「金曜日」(1991年-1994年)、「水曜日」(1995年-1997年)、「日曜日」(1998年-2003年)と作曲が進められ、2003年の「光‐絵」(「日曜日」第3場面)の完成をもって全曲が完結した。オペラの各場面は独立した上演も可能である。総演奏時間約28時間のこの大作のすべての構成・楽想などは、3人の主人公ミヒャエル・エーファ・ルツィファーを示す1分ほどの3声の「スーペルフォルメル」から導き出されており、スーペルフォルメルの各小節がオペラの各作品に対応している。例えば「月曜日」は第1~第3小節、「火曜日」は第4~第5小節に基づく。各場面の演奏時間や中心音も、このスーペルフォルメルによって決定されている。25年間のちょうど半分ころになると、シュトックハウゼンはドイツの楽壇の中で問題視されていた「筋書きのないオペラ」という流行に敏感に反応するようになり、脚本を徐々に断片化させていった。そのため、火曜日を完成させた後の「光」の展開は以前とはかなり異なり、象徴的な単語の羅列に音楽家が反応する瞬間が増え始めた。主役は歌手ではなく演奏家(サンティー・フー)、演奏家がヘリコプターに乗りながら演奏する(ヘリコプター弦楽四重奏曲)、二つのホールを衛星中継で結ぶ(ホッホ・ツァイテン)、演奏家が水を飲む(リヒター・ヴァッサー)、被り物をする演奏家(ミヒャエリオン)、5オクターブを要求される改造フリューゲルホーン(ピエタ)などが話題になった。また、演奏家は指示された困難な演技や振り付けを伴いながら、すべての局面でクリックトラックを丸暗記しなければならない。「光」の作曲に伴い、本編からのさまざまな派生作品も作曲された。それらはオペラの各場面を独立して演奏できるよう編曲したものや、スーパーフォルメルを素材に新たに作曲されたものなどである。例えば一連の「ピアノ曲」はXII-XIVこそアコースティックピアノ+αのための作品だったが、XV-XIXの「ピアノ曲」は、アコースティックピアノではなくシンセサイザーのために書かれている。微分音による疑似グリッサンドのみで全曲が構成された「クスィ」(1986年)、同じく微分音が多用されたバセットホルンとアルトフルートのため「スーカト」(1989年)、声と和声楽器のための「7つの日の歌」(1986)、合唱のための「連祷1997」(1997年)、ロータリー管楽五重奏曲(1997年)などである。「光」の作曲に専念する傍ら、旧作の不確定な部分を確定した新ヴァージョンをいくつか作曲している。「ルフラン」の新ヴァージョン「3×ルフラン2000」(2000年)、「ストップ」の新ヴァージョン「ストップ・アンド・スタート」(2001年)、「ミクストゥール」の新ヴァージョン「ミクストゥール2003」(2003年)がこれに当たる。また、初期のオーケストラ曲で40年以上に渡って改訂を繰り返してきた「プンクテ」(1952年/1962年)の決定稿も、1993年に完成された。「光」を2003年に完成させたシュトックハウゼンは、2004年から2008年の没年まで、1日の24時間を音楽化しようとする24作品からなる連作「クラング - 1日の24時間」(2004年-2007年)の作曲に専念した。1970年代以来のフォルメル技法に代わり、2オクターヴの24音からなるセリーがこの連作の基礎となっている。オペラ劇場で演奏されることを前提として作曲された「光」に対して、「クラング」はそのような制約を一切設けずに作曲されているため、基本的に演劇的な演出はなされていない。ただし、1人の打楽器奏者と少女のための4時間目「天国への扉」(2005年)では、例外的に演劇性が採り入れられている。この作品は特製のドアを打楽器奏者が叩き続ける作品である。このほか、2人のハープ奏者のための2時間目「喜び」(2005年)や24のピアノ音楽集である3時間目「自然な演奏時間(自然の持続時間と訳されることがあるが、ドイツ語でDAUERは総演奏時間のことを指す)」(2005年/2006年)など、それまでのシュトックハウゼンの作風からはかなり離れた伝統的で室内楽風な編成のものも含まれている。オルガン(またはシンセサイザー)とソプラノ独唱、テノール独唱のための1時間目「昇天」(2004年/2005年)では、30分以上にわたるほとんど全ての部分で、鍵盤楽器奏者は左手と右手が全く異なるテンポでの演奏を求められる。8チャンネルの電子音楽、13時間目「宇宙の脈動」(2006年/2007年)は、24の電子音のパルスがテンポと空間移動の変化を複雑に繰り返しながら積み重なっていく。この連作はフルートと電子音楽のための21時間目「楽園」(2007年)まで完成されたが、作曲者の逝去により全曲の完成は叶わなかった。このほか、「ティアクライス」のオーケストラ版も、作曲者の死により「蟹座」と「獅子座」のオーケストレーションが未完に終わった。1950年代から60年代にかけてのシュトックハウゼンの作品は、ピエール・ブーレーズやブルーノ・マデルナ、ハンス・ロスバウトといった指揮者によって指揮され、自身もオーケストラを伴う「ヒュムネン」や「祈り」を指揮している。そのほか、アルフォンス・コンタルスキー、アロイス・コンタルスキー、マリー・フランソワーズ・ビュケ、ディヴィッド・チューダー、マルセル・メルセニエといったピアニスト、打楽器奏者のクリストフ・カスケルらの演奏家が、シュトックハウゼンの作品に関った。1960年代にシュトックハウゼンが結成したアンサンブルには、ピアノのアロイス・コンタルスキーやヴィオラのヨハネス・フリッチェ、そのほか、ハラルド・ボイエやロルフ・ゲールハール、アルフレート・アーリングスといった演奏者が参加している。彼らによって「プロツェッシオーン」や「クルツヴェレン」、ソリストを伴う「ヒュムネン」、「7つの日より」などが演奏された。エトヴェシュ・ペーテルも、エレクトロコードの演奏でこの時期の作品に参加している。エトヴェシュは後に指揮者として「祈り」や「プンクテ」など、シュトックハウゼンのオーケストラ作品を指揮している。また、この時期には即興能力の高いミヒャエル・フェッターのような演奏家とのかかわりも増え始める。「7つの日より」のレコーディングには、ヴィンコ・グロボカールやミシェル・ポルタル、ヘルベルト・ヘンクが参加している。短波ラジオを伴う独奏者のための「シュピラール」の世界初演は、ハインツ・ホリガーのオーボエによって行われた。マルチナ・アロヨに至っては現代音楽の演奏家ではなく、オペラやリートの世界の声楽家であったが、スカウトされモメンテを歌った。のちにモメンテの歌い手はグロリア・デヴィに変更したが、彼女もアフリカの女をうたうオペラ歌手だった。1970年代以降、特に「光」以降の作品は、クラリネット奏者のスザンヌ・スティーブンス、フルート奏者のカティンカ・パスフェーア、長男でトランペット奏者の、次男でシンセサイザー奏者のや娘のピアニスト、マイエラ・シュトックハウゼンらの協力のもと作曲が進められた。「光」のすべてのクラリネット・パートやフルート・パートは、スザンヌ・スティーブンスやカティンカ・パスフェーアによる演奏を念頭に作曲されている。マルクスは「木曜日」、「土曜日」、「火曜日」のトランペット・パートを、ジーモンは「月曜日」や「火曜日」、「金曜日」のシンセサイザー・パートや電子音楽を、マイエラは「土曜日」第1幕「ルツィファーの夢」のピアノ・パート(これを独立して演奏する作品が「ピアノ曲XIII」である)を演奏している。子供たちが父のもとを独立した後は、マルコ・ブラウがトランペットの、アントニオ・ペレス・アベリャンがシンセサイザーの演奏を担った。鍵盤楽器の演奏には、ガウデアムス現代音楽演奏コンクールでシュトックハウゼンのピアノ曲Xを暗譜で演奏したことからシュトックハウゼンのスカウトを受けたハラルド・ボイエー、シュトックハウゼンの直弟子としてアシスタントでもあったロジャー・スモーリー、アンサンブル・アンテルコンテンポランの主席ピアニストであったピエール=ローラン・エマール、アコースティックピアノのための作品全集を世界で最初に完成させたヘルベルト・ヴァンバッハ、同じくアコースティックピアノのための作品全集をシュトックハウゼンの強い要望にて完成させたエレン・コルヴァー、シュトックハウゼン演奏コンクールの受賞者フランク・グートシュミット、ベンヤミン・コブラーらが参加している。シューラ・チェルカスキーは活動の晩期にピアノ曲IXを演奏しており、NHK-FMでもその模様は放映された。マルカンドレ・アムランもカナダで行われたシュトックハウゼン連続ピアノ曲コンサートの際にピアノ曲VII,VIII,IXを担当し、IXは現在も単独で手がけられている。イアン・ペイスはシュトックハウゼンのピアノ曲I-XIの全曲演奏を手がけたピアニストである。マーク・ポントゥスもピアノ曲I-XIの全曲をレパートリーに入れている。このほか、アメリカの電気パーカッション奏者のマイケル・マニオンやトロンボーンのマイケル・スボヴォータも、一時的ながらシュトックハウゼンと一緒に仕事をしていたことがある。また、マウリツィオ・ポリーニは1970年代から初期のピアノ曲を手がけ、自身が審査員を務める「ウンベルト・ミケーリ記念ピアノ演奏コンクール」のために「ピアノ曲XVI」を委嘱した。そのほか、アルディッティ弦楽四重奏団やASKOアンサンブル、ムジークファブリークといった楽団がシュトックハウゼンの作品を演奏している。シュトックハウゼンはほとんどの作品で暗譜演奏を要求し、結果として演奏者は時には何年にもわたる練習を強いられることとなる。また、ほとんどの作品において音をマイクを使って増幅することが指定されており、演奏される音響は「サウンド・プロジェクショニスト」と呼ばれる音響技師によって管理され、音色と音量のバランスが整えられる。また、自らの出版社「シュトックハウゼン出版社」から自身の監修によるCD作品集を出版し、自作の正統な解釈、演奏法を録音の形で残そうと努めていた。作品の録音にも細心の注意を払い、例えばアコースティック・ピアノのための「ピアノ曲」を全曲収録した全集CD56では、1番低い鍵盤の音は最も左、1番高い鍵盤の音は最も右に割り振られ、聴く者があたかもピアノの前に座っているかのような感覚を呼び起こすミキシングが施されている。シュトックハウゼンは7年おきに、自身の音楽論「Texte zur Musik」をDuMont社から出版していた。1990年代以降はシュトックハウゼン出版社に移行したが、音楽について書くという行為は、没年の11月までやめなかった。2014年に全17巻の音楽論が完結し、公式サイトから入手が可能となっている。なお、第一巻のみ日本語訳が出版されている。CD出版は非常に入念であり、生前に完璧なクオリティを満たさない演奏は一切CD化しなかった。没後はファンの要望に折れる形で、要求の多かった音源は多少の傷があっても出版されている。典型例がモメンテ・ドナウエッシンゲンヴァージョンの完全版とミヒャエリオンである。日本語訳を行った清水穣はExMusica上の書評で、「なぜモメンテの楽譜だけが一向に出版されないか、多分それが失敗作であることを、彼がどこかで分かっているからである」と述べたが、彼の予想は外れ、オリジナルヴァージョンとヨーロッパヴァージョンが別々に丁重な装丁で生前に出版された。シュトックハウゼンは1953年からダルムシュタット夏季現代音楽講習会で講演していたが、1957年になって初めて作曲の講師として招聘される。彼のもとで多くの作曲家が学んだ(後述)。1963年にはケルン現代音楽講習(後のケルン現代音楽研究所)を創設する。また、彼はペンシルベニア大学とカリフォルニア大学デービス校の作曲科の客員教授を務めていたこともある。「光」の作曲開始以後は、作曲に専念するためすべての教職を辞したが、1998年以降は居を構えていたキュルテンにて「シュトックハウゼン講習会」を開催し、自作の演奏に携わる演奏家の指導に当たった。シュトックハウゼンの指導を受けた作曲家は数多くいる。著名なところでは、ジルベール・アミ、クラレンス・バーロウ、コーネリアス・カーデュー、クリストフ・デルツ、ジャン=クロード・エロワ、エトヴェシュ・ペーテル、ロルフ・ゲールハール、ジェラール・グリゼー、ヨーク・ヘラー、ニコラウス・A・フーバー、ヘルムート・ラッヘンマン、ルカ・ロンバルディ、ジョン・マクガイヤー、トマス・マルコ、ポール・メファノ、デアリ・ジョン・ミゼル、エマヌエル・ヌネス、ホルヘ・ペイシンホ、ロベルト・HP・プラッツ、ホラチウ・ラドゥレスク、ヴォルフガング・リーム、篠原眞、ロジャー・スモーリー、クロード・ヴィヴィエ、ラ・モンテ・ヤング、ハンス・ツェンダー、ウーリッヒ・ズーセらの名前が挙げられる。また、カンの中心メンバーであるホルガー・シューカイと)も、シュトックハウゼンの教えを受けている。彼の指導方法は、ロベルト・HP・プラッツの来日時の発言を主に参照するならば「彼は、自作の手伝いを徹底してやらせました。できないと、やめさす。そういう人です」ということである。篠原の「日本の電子音楽増補改訂版」に掲載されたインタビューにも、同種の発言がある。「シュトックハウゼン講習会」では、自身の作品や音楽語法を詳細に講義し、また、作曲者自身やかつて演奏に関った人々による監修のもとにシュトックハウゼン作品のコンサートも行われ、作品の正統的な演奏解釈を後世の演奏家に伝えることに努めた。この講習会からは、作品のこれからの演奏を担う演奏家が何名も育った。例えば打楽器のスチュアート・ゲルバーやクラリネットのミケレ・マレッリはこの講習会の受講生として研鑽を積み、作品のレコーディングや「クラング」のいくつかの作品の初演に参加している。この講習会で学んだ日本人演奏家には、バリトン歌手の松平敬、ソプラノ歌手の工藤あかね、ピアノの保都玲子らがいる。なお、シュトックハウゼン没後も、この講習会は継続されている。シュトックハウゼンは敬虔なカトリック信者であり、初期から晩年に至る多くの作品には、彼の信仰心が反映されている。「少年の歌」は『旧約聖書』をテキストとし、「グルッペン」のスコアの末尾には「DEO GRATIAS(神に感謝)」と書き込まれている。「日曜日」第3場面「光‐絵」のテキストは神のさまざまな創造物を称える内容である。「クラング」の2時間目「喜び」のテキストは、聖歌「来たり給え、創造主なる聖霊よ」から採られている。また彼は2005年に来日した際の講義において「私のすべての作品は、神を讃えるために作曲されている」と発言している。ピエール・ブーレーズはル・モンド紙上でシュトックハウゼンについて「とてもユートピア的であると同時にとても実際的な人間であり、きわめて大胆なプロジェクトを現実化できる人間」「新しいものの発見者であったが、それと同じくらい音楽を書く術を心得た人間でもあった」と評している。シュトックハウゼンを「傲慢」、「エゴイスト」、「誇大妄想」と断じる論評もある。その一方で、来日時の気さくな姿やファンのサインに快く応じる姿、講習会の参加者からの質問(偏見や誤解に基づく攻撃的な質問も多かったらしい)に丁寧かつ真摯に答える姿なども伝えられている。また、指揮者のインゴ・メッツマッハーは、苦悩していた時期にシュトックハウゼンに激励されたエピソードに触れ、彼について「ほんとうに心が広く、他人に援助を惜しまず、常に物事をポジティブに考える人」と述べている。『シュトックハウゼン音楽論集』の訳者である清水穣は、『音楽の友』2008年2月号所収の追悼文「NACH・KLANG―シュトックハウゼン追悼」において、「なるほど彼は天然傲慢で超自己中だった。しかし嘘のない人だった。彼には音楽しか存在せず、音楽しか考えられない(以下略)」と述べている。しかし、清水の発言を含めたこれらはシュトックハウゼンの作品を「好意的」に見つめた「聴衆」への態度である。日本においては、アシスタントを務めていた篠原眞を通じた紹介などにより、シュトックハウゼンの作品や音楽理論が受容されてきた。シュトックハウゼンも1966年1月20日〜4月30日にかけて来日し、東京、鎌倉、京都、奈良、大阪などの都市を訪れ、3月21日には東京で「テレムジーク」を初演している。この作品にはシュトックハウゼン自身が採集した雅楽や東大寺のお水取りの音などが用いられている。1970年の大阪万博の際には、ドイツ館にて「シュピラール」などの作品が繰り返し演奏された。また、国立劇場からの委嘱で作曲され、1977年に東京で初演された現代雅楽作品「歴年」は、連作オペラ「光」の最初の作品となった。この作品は「火曜日」の第1幕である。しかしながら、「シリウス」や「歴年」が音楽評論家にバッシングされたのを契機として、彼の作品や音楽理論の受容が停滞するようになる。こうして、作品が実際に聴かれることがほとんどないまま、直観音楽以降のシュトックハウゼンの創作を否定的に評価する論調が支配的になっていった。現在でもこうした評価は根強く残っているが、キュルテンで開催されている「シュトックハウゼン講習会」には日本人の演奏家も参加しており(「教育」の項を参照)、彼らによって70年代以降の作品も徐々に日本に紹介されつつある。2008年11月には、東京大学においてシュトックハウゼンに関するシンポジウムおよびワークショップ「シュトックハウゼン再考」が開催された。シュトックハウゼンのピアノ作品は、日本では中村和枝、松山元、向井山朋子、大井浩明、矢沢朋子、近藤伸子、宇野正志らによって演奏されている。松山元は、アロイス・コンタルスキーからシュトックハウゼン解釈を教わった最初期の日本人ピアニストである。近藤伸子は、学位論文がシュトックハウゼンのピアノ曲についてのものである。大井浩明は2011年7月、晩年のピアノ独奏曲「自然な演奏時間」全曲の日本初演を行った。また、松平頼暁のピアノ独奏曲「24のエッセーズ」(2000年-2009年)の第23曲「Legend」は、シュトックハウゼンの「ピアノ曲」I~XVIIからコードが引用されている。"詳しくは、を参照のこと" 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出典:wikipedia
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