浅井 久政(あざい ひさまさ、淺井 久政)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北近江の戦国大名・浅井氏2代目当主。大永6年(1526年)、浅井亮政の長子(庶長子の説あり)として誕生。生母は側室・馨庵(近江尼子氏の出。出雲尼子氏はその庶家にあたる)とされる。なお生母について諸説あり、『六角佐々木氏系図略』「浅井過去帳」によれば、六角宗能(親泰)側室・浅井千代鶴とされており、尼子氏は養母とされる。妻は近江豪族・井口経元の娘で久政側室の小野殿(阿古御料人)。天文11年(1542年)、父・亮政が死去したため跡を継いだが、勇猛な父とは対照的に武勇に冴えなかった、とされる。亮政は正室との間に生まれた娘である海津殿(久政の異母姉)の婿であった田屋明政(田屋氏は浅井氏庶家)に家督を譲ることを望んでいたとも伝わる。このため、義兄・明政は久政の家督相続を承服せず反乱を起こしており、久政の家督相続は家中に少なからぬ禍根を残す結果となった。その後、久政が当主となってからの浅井家は次第に六角氏の攻勢に押されてついにその配下となってしまった。嫡男に六角義賢の一字「賢」の字を偏諱として受けさせ、賢政(のちの長政)と名乗らせ、さらに賢政の妻に六角氏家臣の平井定武の娘を娶らせるなど、六角氏に対しては徹底した従属的姿勢をとった。このような久政の弱腰の外交政策に、家臣たちの多くが不満をもつようになったとされる。永禄3年(1560年)に嫡男の賢政が野良田の戦いで六角義賢に大勝したことで浅井氏が六角氏から独立すると、久政は家臣たちにより家督を長政に譲ることを迫られ、いわば強制的に隠居させられることとなった。久政は一時は竹生島に幽閉され、賢政は正妻であった平井定武の娘を六角氏に返し、「賢政」の名も新九郎に戻した。しかしこのクーデター的家督移譲には史料的に不明瞭なところが多く、久政は隠居してもなおも発言力を持ちつづけており、父以来の朝倉氏との友好関係に固執し、新興勢力の織田氏との同盟関係の構築には終始反対しつづけたとされる。久政が家中に発言力を持った状態で、織田氏と朝倉氏は対立を深めた。両家と同盟関係にあった浅井家はどちらにつくかの決断を迫られたが、久政は強硬に朝倉方につくべきであると主張し、長政が折れる形で義兄でもある信長に反旗を翻すが、数年間の抵抗の末、浅井・朝倉連合は織田氏に敗北する。天正元年(1573年)、織田軍は一乗谷陥落後、打って返して浅井氏の本城である小谷城を攻撃した。頑強に持ちこたえた小谷城であったが、京極丸を木下秀吉隊に落とされたことにより、久政の籠る小丸は長政の本丸と分断された。木下勢はそのまま小丸を攻撃。最期を悟った久政は井口越前守・脇坂久右衛門らを呼び、切腹するため敵勢を食い止めるように言い渡した(のち討ち死)。久政は一族の浅井福寿庵(浅井惟安)、舞楽師の森本鶴松大夫と共に盃を傾けた後に切腹した。これを福寿庵が介錯し、次に福寿庵を鶴松大夫が介錯した。鶴松大夫は「主君と同じ座敷では恐れ多い」と言って庭で切腹し、それを見届けた脇坂久右衛門もすばやく腹を切ったと伝わる。『浅井三代記』において暗愚とされている久政も、現在再評価が行われている。浅井・朝倉同盟は久政の父・亮政の代に存在した。亮政は、かつての主家である北近江守護・京極氏の本家筋である南近江守護・六角氏と対立していた際に、朝倉氏との同盟を築き上げた。当時の六角氏は名君六角定頼を筆頭に日の出の勢いであり、亮政は美濃国や越前国へ幾度も逃亡するなどその優劣の差はその才をもってしても補うことはできなかった。一方、当時の朝倉氏も全盛期であった。その朝倉氏にしても、隣接する加賀や領内の一向一揆問題を抱えており、大勢力である六角氏との直接対立は望むことではない。緩衝地帯として、北近江を手中に収める浅井氏との同盟は理に適ったものあった。両者の利が一致して、朝倉・浅井同盟は築かれたのであろう。ただし、これが同盟であったか否かについては異議がある。その後、久政の代になり六角氏に従属するが、朝倉孝景・朝倉宗滴が死去した朝倉氏はかつての勢いを失い、同盟の意味が薄まっていったこともあり、久政は六角氏へ乗り換えたのだろうと思われる。これは、この頃の浅井氏は復権をもくろむ京極氏らのにたびたび攻撃されていたこともあり、六角氏に臣従して庇護を受けることで、他の勢力を牽制し侵攻を食い止められた。またその際、京極氏に対し優位な立場にて和睦、あくまで京極氏を立てた上での形である。これにより久政は領国経営に専念することができ、事実その間に久政は政治の安定化(後述)や先代の亮政が武力によって傘下に収めた土豪たちの掌握に努め、浅井氏を国人一揆の合議による政治から戦国大名へと押し上げる基礎を築きあげることに成功した。また六角氏より先進技術を取り入れる事ができたとされる。さらに、六角氏の勢力内といっても、久政は未だ国人連合にとどまる江北の領主であり、後ろ盾の六角氏を手に力を手に入れた。このことからすると、久政は彼自身としての外交構想を持ち、弱腰と見られがちな従属という形も領国を守る手であり、外交の分野において一定の成功を収めたと思われる。内政面でも久政は業績を挙げた。まず、治水や灌漑事業がある。湖北の村々の河川用水の使用区域の対立を調停するため、法令や文書を発給し、それを阻害すると思われる豪族に対して圧力をかけている。例としてこんな話がある。 当時小谷麓の村々で深刻な水不足があった。その辺りの用水の源である高時川の水流を握るのは、力を持つ豪族の井口氏であった。 久政は村民の願いによって井口氏へ圧力をかけたが、井口氏は大量の貢物という難題をふっかけ、あきらめさせようとした。しかし中野(現東浅井郡)の土豪がこれを引き受けたため、井口氏も渋々承諾したという(この間に中野の土豪の娘が人柱となって水を得たという逸話もある。また貢物の中に餅千駄とあったため、彼らの業績をたたえて餅ノ井と名づけられた)。用水路を確保した久政は灌漑事業を拡大したが、用水をめぐって村同士の争いが発生した。この調停のため、用水口の統一や水量や村による優先順位の指定などをしている(なお、この時の取り決めは江戸から現代にかけてまで守られている)。また、小谷城山上に六坊(寺の集住)を建設を行ったり、寺社衆に対して所領の安堵や税政策の強化などを打ち出した(同寺文書)。さらには小谷城の増築、土塁の建設も行っている。さらに天文22年(1553年)には、父・亮政の徳政を発展させ、二十三箇条による法制度の導入を行った。年貢を納め時を待っての貸方の利益の保護を、父の制度を進めて一部改革を行った(菅浦文書)。こうした事業に努めることができたのは、六角氏の存在である。当時の六角氏は内政面において先進的な政策を行っていた(楽市楽座、文書発給の幕府寄りの形から独自な裁定など)。これらを吸収し、花押も六角氏に似せた形を取って京極氏ら旧勢力からの脱却を目指して政治を領内にて行うことにより浅井氏のその後の戦国大名への基盤を作ることができた。この他に、後世の悪評にもつながるが、積極的に能などの文化を推進し(久政には森本鶴太夫というお抱えの舞楽師がいた)、鷹狩や連歌を嗜んだ。
出典:wikipedia
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