ブラジルの歴史(ブラジルのれきし)は、約8000年ほど前、最初のアメリカ大陸先住民の移住者が現在のブラジルに定住した頃にさかのぼる。文書記録を伴う歴史は1500年のポルトガル人の来航をもって始まる。以後の歴史はポルトガル領(1500年-1815年)及びポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国(1815年-1822年)時代、ポルトガルのブラガンサ王室皇太子を皇帝に推戴して独立した帝政時代(1822年-1889年)、帝政を打倒した共和政時代(1889年-現在)に大別される。1532年、とに初めて恒久的な入植地が築かれた。16世紀から18世紀にかけてブラジルはポルトガルの植民地であり、「発見」初期にはブラジルの木、のちには沿岸部のプランテーションでのサトウキビの生産や、内陸部での黄金採掘が主な産業であった。この時期に沿岸部のインディオはほぼ絶滅し、労働力として大量の奴隷がアフリカから連行された。1822年9月7日にブラジルはポルトガルからの独立を宣言し、立憲君主制を取るブラジル帝国が成立した。ポルトガル王室に連なるこの国家は、軍事クーデターにより1889年11月15日に共和制に移行し、1891年に共和国憲法を発布した。以後ブラジルは現在に至るまで法律上は民主主義国家であるが、三度にわたる独裁政治政権を経験している。現在のブラジルの地に人間が居住したのは、アジアからベーリング海峡を渡った人々が、紀元前8000年頃に現在のブラジルに到達したのが最古のものであると確認されている。1492年のクリストヴァン・コロンボのアメリカ大陸到達以前(先コロンブス期)において、現在のブラジルに相当する地域には、遠く離れたタワンティンスーユ(インカ帝国)の権威は及ばず、この地には原始的な農耕を営む・グアラニー族・アラワク族系の、後にヨーロッパ人によって「インディオ」(インド人)と名づけられる人々が暮らしていた。一般に、先住民(現在生きている先住民含む)は、原始共同体のもとで生活していた。ポルトガル人到来直前の時点でこうした先住民の人口は、沿岸部だけで100万人から200万人と推定されている。1500年4月22日、インド洋に向かっていたポルトガルのペドロ・アルヴァレス・カブラルの船団は、未知の陸地に漂着し、これを「ヴェラ・クルス島」と名付けた。カブラルが上陸したのは現在のバイーア南部のポルト・セグーロだとされている。「サルとオウム」しかいなかったこの地は、トルデシリャス条約に基づいてポルトガルに帰属することとされたものの、その後暫くは開発が進むことはなかった。1503年にヨーロッパで需要のあった赤い染料「」を抽出できるパウ・ブラジル ( - 和名: ブラジルボク/ブラジル木)が王室専売とされ、新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)の()に専売権が与えられた。ポルトガル人は沿岸部に商館を建設し、1504年には貴金属を求めて、初の内陸部への「奥地探検」(エントラーダ)を行った。ブラジルには既に「インディオ」と呼ばれることになる多くの人々(先住民)が居住しており、現在ブラジル人であるとされるこれらの人々の歴史はポルトガル人の到来以前から始まっていたが、ブラジルの歴史はポルトガル人の到来によって大きく変わった。歴史上はじめて「ブラジル人」と呼ばれることになったのは、このパウ・ブラジルの貿易に関わる商人達だったのである。このように、当初ポルトガル人はインディオとのパウ・ブラジル貿易のみを行っていたため、入植も交易拠点となるフェイトリアの建設が主だったが、16世紀前半には早くも沿岸部のパウ・ブラジルが枯渇した。パウ・ブラジルの枯渇後、ポルトガル人はパウ・ブラジルの伐採から貴金属の採掘にブラジル植民地の目的を変え、1532年には南西のパラグアイや西のペルー方面に存在すると考えられた鉱山を探すために、ブラジルで初めてとの二つの町が建設された。1494年6月7日に締結されたトルデシリャス条約によるスペインとポルトガルによる新世界の分割を認めない立場から、フランス人がブラジルに侵入してくると、1534年にポルトガル王ジョアン3世はブラジルに()を導入し、15の世襲制カピタニア(に統治される行政区画)に分割された。カピタニア制の下でセズマリア(開発地)の集中から(大私有地)が生まれたが、民間人に開発を任せるカピタニア制は2つのカピタニアを除いて失敗に終わり、1549年に総督制が導入された。1549年に、ヴァロワ朝フランス王国の侵入に対処するためにポルトガル王室はバイーアのサルヴァドールに総督府を置き、初代総督にはが任命された。これにより、ブラジルの開発は第三段階に入った。しかしフランス人の侵入は止まらず、1556年にフランスの新教徒ユグノー達が現在のグアナバラ湾周辺にを建設した。フランス人は定着を望んだが、フランス本国の内乱(ユグノー戦争)もあってポルトガル人とインディオの同盟に敗れ、1567年に南極フランスはポルトガル領に編入された。その後もフランス人は1612年にマラニョンにサン・ルイスを建設してを築いたが、赤道フランスも3年でポルトガルに編入された。パウ・ブラジルの枯渇後に商品として注目されたのは、鉱物の他には砂糖だった。1516年にマデイラ諸島からペルナンブーコに移植されたサトウキビ栽培は、1533年に初の(、サトウキビ農園と製糖工場を併せたもの)が建設されたことを境に、エンジェニョでの黒人とインディオを利用した奴隷労働により北東部で栄え、一気に主要産業となっていった。こうした奴隷はアフリカからの黒人奴隷の連行と、インディオを捕獲することで賄われたが、次第にインディオの数が足りなくなると、エントラーダ(遠征隊)は奥地に遠征し、奴隷狩りを行うようになった。イエズス会の修道士はアメリカ大陸でのカトリックの布教を、特に現在のパラグアイ、アルゼンチン北東部、ボリビア東部、ウルグアイ、ブラジル南部に居住するグアラニー族に対して行ったが、1560年に創設された()に居住するのエントラーダ(奥地探検隊)であるバンデイランテスは好んでイエズス会の布教村を襲い、多くのトゥピ・グアラニー系インディオを奴隷として売却した。バンデイランテスの活動地はパラグアイにまで及んだ。また、砂糖プランテーションの労働力がインディオの奴隷だけでは足りなくなると、ポルトガル人は既に15世紀からマデイラ諸島で行っていたように、西アフリカのセネガンビア(現在のセネガルとガンビア)や黄金海岸(現在のガーナ)や奴隷海岸(現在のベナンとナイジェリア)、及びアフリカ中部のコンゴ、アンゴラ、更には東アフリカのモサンビークから、マンディンゴ人、ハウサ人、、ヨルバ人、フォン人、コンゴ人、キンブンド人、オヴィンブンド人など、多種多様なアフリカの人々を奴隷としてブラジルに連行した。また、こうして渡来したポルトガル人の多くはインディオや黒人と性交渉を持ち、ムラート(、 - 奴隷とも)と呼ばれる多くの混血者が生まれることになった。こうしてブラジルは他のポルトガル領の植民地であるゴアやマカオとは異なった商品作物の生産を軸とする開発型植民地となった。しかし、植民地であるが故に本国と競合する産品の生産や、自律的な工業化は許されず、重商主義的な本国経済を補完するための極めて歪なモノカルチャー経済が成立することになった。さらに、ブラジルやポルトガルの商人は奴隷貿易で莫大な利益を上げていたが、このようにして成立した経済構造においてその富はブラジルには還流されなかった。こうして植民地期のブラジル経済はポルトガルへの従属経済となり、これ以降19世紀末までブラジルの経済は外国市場と結びついた奴隷制プランテーション農業に規定されることになった。この時期にはエンジェニョと農村が発展し、都市の開発はイスパノアメリカ植民地に比べると遅れたが、わずかな都市にはポルトガルからの新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)が多く住み着いた。17世紀前半にはサトウキビ農園は現在のパライーバ州からセルジペ州までの沿岸地帯一帯に拡大し、このエンジョニョを基盤とする経済構造は、イスパノアメリカ諸国の文化が都市的であることに比べて、ブラジルの文化が農村的であることに大きな影響を与えている。サトウキビ産業と共に牧畜も開始された。北部、中央部の牧民は()と呼ばれたが、現在のリオ・グランデ・ド・スル州のような最南部の牧民はスペイン、ラ・プラタ地域の影響を受け、ガウーショ()と呼ばれるようになった。1580年にスペイン・ハプスブルク朝のフェリペ2世の王冠の下でポルトガルがスペインと合同した頃、スペインからの独立を巡って戦いを続けていたネーデルラントのユトレヒト同盟が1581年にネーデルラント連邦共和国として独立を宣言し、この対立の構図を引き継いでオランダ人が新たにハプスブルク帝国領となったブラジルに侵入した。1609年にスペイン・オランダ両国間に12年間の休戦条約が結ばれたものの、条約が失効した後の1621年にオランダ人はアフリカと南北アメリカ大陸の貿易、征服を行うことを目的としたオランダ西インド会社を設立した。1624年には()率いるオランダ西インド会社軍が北東部のサルヴァドールを占領した()。多くがカトリック教徒だったブラジル人はプロテスタントのオランダ人の支配を受け入れずにゲリラ的な抵抗を続け、一度はオランダ人をサルヴァドールから追いやったものの、1630年には西インド会社の攻撃によってオリンダとレシーフェが占領され、(1630年-1654年)が形成された。オランダ西インド会社の活動は南米のみに限定されず、カリブ海でスペイン船に対する攻撃を加え続けた後、1631年には会社によって北米にニュー・アムステルダムが建設された。オランダ人の支配は1637年から1644年にかけて着任した総督ヨハン・マウリッツ・ファン・ナッサウ伯の時代に、ブラジルの大土地所有者がオランダを支持したがために安定した。1640年にポルトガルがスペインから再独立すると、ジョアン4世はオランダ本国と和平協定を結んだが、オランダ西インド会社はブラジルから撤退しなかった。ブラジル人もイエズス会のの指導の下にオランダへの抵抗を続けた。こうした中でオランダへの抵抗を続けるブラジル人のためにジョアン4世は1646年にブラジルをブラジル公国に昇格し、以後ポルトガル王太子はブラジル公()を名乗ることになった。最終的にオランダ人がブラジル人に敗れて撤退したのはポルトガルが再び独立してから14年経った1654年になってからだった。1661年にが結ばれ、オランダは400万クルザードの賠償金と引き換えに、ポルトガルの(現アンゴラ)領有を認めると共にオランダ領ブラジルをポルトガルに割譲した。。ポルトガル人によって、主にからブラジルへ、多くの黒人が奴隷として連行されていたが、奴隷達はただ服従して過ごしたわけではなかった。奴隷達の抵抗は宗教儀式や自殺、堕胎、不服従などの形で絶え間なく続けられた。より直接的な形として脱走や反乱も行われ、16世紀から17世紀にかけてはマルーン(逃亡黒人奴隷)とインディオの共存する(逃亡奴隷集落)が内陸部の奥地に多数生まれた。キロンボはアンゴラ・ジャンガ(「小アンゴラ」の意)とも呼ばれていたが、逃亡奴隷によって建設されたこの国家は幾つかの面で当時のアフリカの王国と酷似していた。その中でもアラゴアスの山中に位置し、二万の人口を擁した最大のは黒人だけでなく、白人やインディオを含む全ての人種を受け入れて発展し、プランテーション農業のために沿岸部では省みられなかった食糧生産が奨励され、ブラジルで最も生産物の多様性が確保された地域となり、ポルトガル人の集落との交易も行われた。指導者のパルマーレスのズンビは幾度も再征服を試みたバンデイランテスの攻撃を退けた。1695年のでは、率いるパウリスタを中心とした8,000人のポルトガル軍の総力を挙げた攻撃により、キロンボ・ドス・パルマーレスは征服され滅亡した。キロンボ・ドス・パルマーレスの滅亡とともに自由な黒人の支配する空間はブラジルから失われたが、キロンボ・ドス・パルマーレスとズンビは現在もアフリカ系ブラジル人の誇りとなっている。サンパウロから出発したパウリスタのエントラーダ、つまりバンデイランテスはこのように、インディオを奴隷化し、黒人奴隷のキロンボを征服していったが、それと同時にパウリスタはその事業の過程でブラジルを探検、開拓した。クリチバやパラナグア、ノッサ・セニョーラ・ド・デステーロ(現在のフロリアノーポリス)といった都市はバンデイランテスの探検によって建設されたものである。1750年にブラジルがトルデシリャス条約で定められたスペインとの国境を越えてアマゾン地域の領有を認められたのは、この探検隊によるアマゾン地帯の征服の既成事実化によるものだった。ブラジルの領土拡張を試みたポルトガルは、密貿易による南のブエノスアイレス市場への参入を望んだために1680年にトルデシリャス条約の境界線を越えてラ・プラタ川河口にコロニア・ド・サクラメントを建設し、このコロニア建設がきっかけとなって、ブエノスアイレスのスペイン植民地政府との長い戦いが始まった。紆余曲折を経てコロニアはブラジルとラ・プラタ地域の間の密輸の拠点として栄え、最終的に1750年のによってコロニアはスペインに割譲されたが、代替としてポルトガルはバンデイランテスの探検によってなされた実効支配の既成事実に基づいてアマゾン川奥地の国境を大幅に西進させた。文化面では、「発見」後インディオの文化が駆逐された後、ポルトガル人による支配の下に、インディオや、連行されたアフリカ人を交えて成立したブラジル植民地では、彼等の文化と支配者であるポルトガル人の文化が融合し、独自の文化が育まれることになった。コロンブス交換によってヨーロッパからブラジルには家畜、植物、疫病に加えてキリスト教カトリック、西洋哲学、法制度、建築、そしてヨーロッパ人そのものが持ち込まれ、アフリカからブラジルにはアフリカ伝統宗教、イスラーム教、太鼓、音楽、舞踊、食文化などがもたらされ、特に南東部ではキンブンド語、北東部ではヨルバ語からもたらされたアフリカの言語の語彙や発音は、後のブラジルポルトガル語の成立に影響を与えた。ブラジルからアフリカにはマニオクなどの作物がもたらされた。インディオの文化も作物の利用や食文化などでブラジル文化に大きな影響を与えた。文学においては、「発見」以前から存在していたインディオの口承文芸を除いた文字によるブラジルの文学は、ブラジル文学の祖とみなされるペロ・ヴァス・デ・カミーニャが、ブラジルの「発見」をポルトガルに報告した『カミーニャの書簡』によって始まったとされるが、この時期は記録文学の域を超える発達を見せなかったといえる。16世紀の文学においてはジョゼ・デ・アンシエッタやマヌエル・ダ・ノブレガ、『ブラジル文学史』のネルソン・ヴェルネッキ・ソドレーなどイエズス会士の活躍が特徴となった。17世紀に入ると文学にもバロック様式がもたらされ、イエズス会士で詩人でもあったアントニオ・ヴィエイラや、「地獄の口」と綽名された舌鋒でブラジル社会を批判した詩人グレゴリオ・デ・マトス・ゲーラ、『パルナソス山の音楽』のマヌエル・ボテーリョ・デ・オリヴェイラが活動した。この時期のブラジルの文化は、特に知識人のものにおいてはヨーロッパ人の方法でなされたものであり、18世紀後半までブラジル人による自律的な国民文化は生まれなかった。言語においては、インディオの諸語は征服された後も完全にはポルトガル語には取って代わられず、トゥピ系の言語を基盤にポルトガル語が融合したリングア・ジェラールが共通語として18世紀半ばまで用いられることになった。生活面においては「発見」後、ポルトガル人とインディオ、黒人は混血を繰り返し、マメルーコやムラート、カフーゾなどの混血者層が誕生し、現在まで続く混血社会ブラジルの基礎が完成した。植民地時代を通して都市は貧弱だったため、後にジルベルト・フレイレが著したように、農村部で相互に独立した社会となった「大邸宅と奴隷小屋」が植民地時代初期のブラジルの基礎的な社会空間となった。そこではイベリア半島と同様に家父長による専制的な家族支配が続き、特に女子は12歳から14歳までが結婚適齢期とみなされ、女性は結婚後も自由な外出を制限されるなど厳しい統制が続いた。家父長は女奴隷との性的交渉を妻に憚ることなく行い、多くの混血の私生児が生まれた。ブラジルにおいては人種間の対立は、支配層をも含めた白人がアフリカ伝来の宗教や料理、音楽、舞踊を好んで受け入れたこともあり、緩和される傾向にあったが、白人優位の人種主義は存在し、総じて被支配者となった有色人や女性の生活は貧しく、特に有色人には厳しい奴隷労働が課さることになった。この状態から発したブラジル社会における有色人や女性の地位の低さは現在にまで続く問題となってブラジル社会に爪痕を残している。17世紀後半までに砂糖の価格は下落し、鉱業開発に迫られたポルトガル政府は、ブラジルのイギリスへの従属によって生じた負債をブラジルからの収奪によって補うために、またイスパノアメリカのポトシ鉱山の衰退を好機と捉え、鉱物資源、特に黄金の探査を始めた。1693年から1695年にかけてサンパウロから探検を行っていたバンデイランテスがミナス・ジェライスで金鉱脈を発見すると、ゴールド・ラッシュが起こり、既に開発されていた北東部からも多くの人々が移住して金採掘に当たった。これによりブラジルの重要性は増し、1720年には総督の呼称が副王となった。さらに1729年にはミナス・ジェライスのセロ・ド・フリオ地方でダイヤモンドが発見された。この金とダイヤモンドの発見により南部の開発が進み、ブラジルの中心が北から南に移動した。1711年に建設されたヴィラ・リカ・デ・オウロ・プレットは「黄金のポトシ」と呼ばれてミナス・ジェライスの中心となり、独自のバロック文化が栄えた。一方でこのゴールド・ラッシュにより、多数の労働力が必要とされたためにブラジルのインディオは奴隷化されて酷使され、それでも労働力が足りなかったために多くの黒人奴隷がアフリカから連行され、悲惨な生活が続いた。18世紀中には一攫千金を求めて約30万人のポルトガル人がブラジルに移住した。ミナスで黄金が発見されたことは、それまで孤立しまとまりを持たなかったブラジル国内に、ミナスを中心として国内各地を結ぶ原初的な市場を形成することを助け、後にブラジルが一体性を持ったまとまりとなることを可能にした。ブラジル経済の中心地となったミナスでは企業家によって繊維産業が発達するなど産業が発達し、弱体ながらそれまで存在しなかった中間層が生まれ、無政府状態に近い状態でありながらも反面実力本位の社会が形成された。ミナスの黒人も奴隷として従属していただけではなく、解放を勝ち取ったシッカ・ダ・シルヴァやシッコ・レイのような伝説的な人物も現れた。こうした中で、1703年にイギリスとポルトガルの間に結ばれたメシュエン条約により、イギリス市場にポルトガルのワインを輸出する権利と引き換えに、ポルトガル本国市場にイギリス製の綿織物が独占的に流入し、ポルトガル本国でのマニュファクチュアが壊滅した。ポルトガルの手工業壊滅は結果的にブラジルのマニュファクチュアまでもを締め付け、ポルトガル本国に輸出されたミナスの黄金はそのままイギリスに流出することになった。こうして流出した金がイギリスの資本の本源的蓄積過程の強化の一環を担い、イギリス産業革命を強化した要因の一つとなった。その後啓蒙専制主義的改革を行ったポンバル侯が失脚し、反動的なマリア1世が即位すると、それまで小規模ながら栄えていた造船などのブラジルの工業は1785年に発布された植民地での工業の禁止を命じる勅令によって、小規模な製鉄業や織物工業のような例外を残して壊滅した。1707年にブラジルの異端審問所による新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)への迫害が始まった。1710年にペルナンブーコで()が勃発した。1750年にジョゼ1世によって任命されたポンバル侯の重商主義改革により、インディオの奴隷化禁止、世襲制カピタニアと1774年のマラニョン総督領の廃止、人頭税の廃止、財政改革、イエズス会の追放とポルトガル語普及運動、1772年のコインブラ大学の改革などとともに、ブラジル経済の重心の北から南への移動を反映し、1763年にブラジルの首都はサルヴァドールからミナス・ジェライスの外港だったリオデジャネイロに移動した。また、1750年にフランス領ギアナからコーヒーがもたらされた。ポンバル侯は砂糖やタバコなどの伝統産業と共にコーヒーや綿花などの商品作物の栽培に力を入れ、ブラジルの農業はゴールド・ラッシュ以来の衰退から立ち直ることになり、さらには綿織物や製鉄業など一部の工業も成長した。しかし、イエズス会追放によって、それまでイエズス会士に担われていた初等教育が崩壊し、改革の時代にブラジルの教育は衰退することになった。一方南部では、18世紀を通してブエノスアイレスを拠点とするスペイン勢力との抗争が続いた。1756年に始まったと7年戦争により、はまもなく破棄されるが、その後スペインの勢力は現在のブラジル南部、サンタ・カタリーナ州のサンタ・カタリーナ島にまで拡大したため、1777年のサン・イルデフォンソ条約によってポルトガルはサンタ・カタリーナ島以南からのスペインの撤退と引き換えに、コロニアを含むバンダ・オリエンタル全域の領有の承認を認めることになった。その後、植民地人達はポンバル侯の改革による本国からの統制強化への反発と、アメリカ合衆国の独立やフランス革命、ハイチ革命に影響を受け、次第にブラジルの独立と共和制導入を考えるようになっていった。1789年にはブラジル初の独立運動となった「」が密告によって発覚し、1792年に首謀者の一人だった()が処刑された。1798年にはフランス領サン=ドマング(現在のハイチ)での黒人暴動(ハイチ革命)の噂に影響を受け、サルヴァドールでムラートの大工、石工、仕立屋達による「」( - 「仕立屋の陰謀」とも)が勃発し、共和制の樹立や奴隷制の廃止を訴えたものの、政府軍によって鎮圧され、首謀者はアフリカに追放された。これらの独立運動の意義は決して小さくはなかったものの、ブラジルがイスパノアメリカ植民地やフランス領サン=ドマングに比べて、大学等の高等学問機関が存在しないことに象徴されるように、ルソー等の自由主義思想(啓蒙思想)を摂取するための知的環境が整っていなかったために、この時期の独立運動は一部の知識人や愛国者による「陰謀」にとどまり、大衆的な「革命」となる基盤を持たなかった。このことはハイチやイスパノアメリカ諸国と、ブラジルの独立の形態の大きな差となって表れることになった。文化面では、植民地時代後期にはヨーロッパの啓蒙主義の流れがブラジルに伝播した。啓蒙主義的な観点からアカデミアが発達し、詩の分野においてクラウディオ・マノエル・ダ・コスタや『ディルセウのマリリア』を著したトマス・アントニオ・ゴンザーガのような詩人を生み出した。しかし、この時期のブラジル文学もまだポルトガルの亜流であることを越えることはできず、さらに、詩以外の文学の発達もなかった。一方、啓蒙主義から距離を置いた民衆文化においては、オウロ・プレットのミナス・バロック様式の教会建築や彫刻にその名を残したムラートのアレイジャジーニョや、ナポリのオペラからモジーニャと呼ばれる俗謡を確立したドミンゴス・カルダス・バルボーザなどが活動した。教育においては、ポンバル侯によって公教育を代替していたイエズス会が追放されたため、ブラジルの教育は一時衰退した。言語においては、「発見」後から17世紀を通して共通語として用いられていたリングア・ジェラールは、ゴールド・ラッシュによるポルトガル人の大量移民と、1758年にポンバル侯によって発令されたリングア・ジェラールの使用を禁止する勅令によって衰退し、リングア・ジェラールの衰退によってポルトガル語の普及が進んだ。1807年にフランス帝国の皇帝ナポレオン・ボナパルトによる大陸封鎖令にポルトガルが反抗したことをきっかけに、ジュノー元帥に率いられたフランス軍がポルトガルに侵攻した。リスボン陥落の二日前にイギリス海軍に護衛されてマリア1世をはじめとするポルトガル宮廷の15,000人が脱出し、リオデジャネイロに辿りついた。「ブラジル第二の発見」と呼ばれるこの出来事の影響は大きく、ポルトガル王室がブラジルにたどり着くと直ちにイギリスとポルトガル亡命王室との間で自由貿易協定が結ばれ、ブラジル国内でイギリス人は領事裁判権を含む特権的な立場を認められた。ジョアン6世は綿工業の振興を支援したが成果は上がらず、ブラジル市場のイギリスへの開放が進むに連れて競争力のあるイギリス製品にブラジル市場は席巻され、植民地時代以来の綿工業や製鉄産業は壊滅し、イギリスへの経済的従属がこの時期に完成した。また、インディオとの戦争も再開された。王室の移転により、1815年にポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国の首都と定められたリオデジャネイロは急速に開発が進み、劇場、宮廷、学校、図書館などが整備され、この頃ようやくブラジル初の新聞が創刊された。カピタニア制も正式に廃止され、カピタニアの代わりに新たに県(provincia)が置かれた。しかし、ポルトガル人とブラジル人の人種的、政治的な対立が深まり、また共和制を求めるブラジル人も多かったため、次第に両者の関係は険悪なものとなっていった。王室は外国人の移住と入植を奨励した。1818年にスイス人移民が導入され、更にイギリス市場向けの茶の生産を狙ってポルトガル領マカオから中国人移民が共にリオデジャネイロ県に導入された。スイス人入植地も茶の生産も失敗に終わったものの、これらの移民は後の移民国ブラジルを象徴する、最初の近代的な移民となった。また、この茶の栽培経験は後にコーヒーの栽培に生かされることになった。1816年にマリア1世が死去すると、ジョアン6世が連合王国の王位に就いた。外交面ではジョアン6世はイギリスと同盟してフランスに宣戦布告し、仏領ギアナを占領した。さらには植民地時代の政策を延長してラ・プラタ川方面への侵攻を図り、旧リオ・デ・ラ・プラタ副王領を二分した連邦同盟のカウディージョ、を破ってバンダ・オリエンタルを1821年7月にシスプラチナ州としてブラジルに編入した。ジョアン6世は即位に際してポルトガルとブラジルを対等の王国と定め、この措置には多くのブラジル人が納得したものの、相次ぐ増税や旱魃などのブラジル社会の不安定な様子を反映して、次第に自由主義的な立場から共和制を望むブラジル人の数は増加していった。1817年3月6日にレシーフェで聖職者の反乱が起き、自由と平等を旨とする共和国の樹立が宣言され、アメリカ合衆国、イギリス、リオ・デ・ラ・プラタ連合州(アルゼンチン)に使節が派遣されたが、これは75日後に鎮圧された。この事件はペルナンブーコ革命と呼ばれており、特に奴隷制の存在を前提とした自由主義革命であるという重大な限界はあったものの、後の革命運動の模範となる一つのあり方を提示した。1820年にポルトガルのポルトで自由主義革命(ポルトガル1820年自由主義革命)が勃発し、ジョアン6世が革命委員会の要求によって新憲法を承認し、ポルトガルに帰国すると、王子のペドロが連合王国の摂政としてブラジルに残された。しかし、1821年に開催されたポルトガル議会において、対等な立場であるはずのポルトガル代表の議員が130人だったのに対し、ブラジル代表の議員は72人に過ぎず、さらにポルトガル政府はブラジルを再び植民地にすべく、摂政王子ペドロの帰国を要求した。しかし、ポルトガルのポルトにおける自由主義革命にブラジル残留ポルトガル軍は影響を受けており、穏健派のジョゼー・ボニファシオ、急進派のシプリアーノ・バラタ、ゴンサルヴェス・レドをはじめとするブラジル人は1822年1月に王子のペドロに独立を勧めた。1822年9月7日、ペドロはサンパウロのイピランガ川のほとりで「独立か死か」との、いわゆる「イピランガの叫び」()を発し、ブラジルの独立が宣言された。ペドロはリオでブラジル皇帝ペドロ1世として即位し、ブラジル帝国が建国され、ハプスブルク家の黄色とブラガンサ家の緑のリボンで町は満ち溢れた。ポルトガル軍は残留したものの、ホセ・デ・サン=マルティンに仕えてペルー解放に同行した元英王立海軍の軍人、トマス・コクレーン卿の活躍もあり、マラニョンのポルトガル軍は排除された。こうしてブラジルの独立が達成されることとなった。文化面では、ポルトガル宮廷のブラジル到来と共に、ブラジルにもポルトガルのエリート層が愛好していたイギリスやフランスの文化があふれるようになった。特に1816年に招聘されたジョアヒン・レブルトン、グランジャン・ド・モンティニ、ジャン・バティスト・ドブレらからなるフランスの文化使節団はブラジルの芸術に大きな影響を与えた。教育面では、植民地防衛のために、高等教育を受けた人材を養成する必要に迫られ、陸軍士官学校(1808)、医学学校(1808)、海軍士官学校(1810)などの専門学校が設立された。博物館や図書館(1810)、植物園(1810)なども整備された。しかし、帝政期と同様に高等教育に偏重した教育政策を採りながらも、総合大学の設立はブラガンサ家の治世中には最後までなされなかった。ブラジルの独立はイスパノアメリカ諸国の独立と比べると大きな混乱や政治的な対立を伴わずに達成され、植民地時代にブラジルを包括する原初的な国内市場が成立していたことと、ポルトガル王室のブラガンサ家が帝位に就いたために、イスパノアメリカ諸国のような分裂状態には陥らなかった。しかし、このことはイスパノアメリカ諸国が解放者シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティン、ミゲル・イダルゴらによって16年間続けられた独立闘争により、曲がりなりとも本国出身者から政治権力を奪取したのとは対照的に、ブラジルにおいては植民地時代の権力構造と大地主の支配がそのまま継続したことにも繋がった。既に1808年のリオデジャネイロ遷都と共にイギリス資本に国内市場が解放され、イギリスから莫大な投資が流入し、イギリスへの経済的従属が始まった。独立前夜のブラジルの人口は約380万人で、うち白人が約104万人、約276万人が有色人(パルド、黒人、インディオ)であったが、独立後ペドロ1世は380万の人口のうち、約7割を占める有色人や、植民地生まれの白人を遠ざけ、ブラジル党よりもポルトガル党を優先してポルトガル人を重用する姿勢を採ったため、次第にブラジル人とペドロ1世の関係は険悪なものになっていった。ペドロ1世は1824年に親ポルトガル派(ポルトガル再併合派)の意向が強く出た欽定憲法を公布したが、この欽定憲法に対する民衆の反発は特に北東部で強く、この年にはペルナンブーコ県のレシーフェで共和制が宣言され、「」が起きた。ペルナンブーコに加え、マラニョン、バイーア、アラゴアス、パライーバ、リオ・グランデ・ド・ノルテ、セアラーがこのに参加し、アメリカ合衆国をモデルにした代議制の共和制国家の樹立が目指されたが、ペドロ1世はイギリスからの数百万ポンドの借款と傭兵の導入によって同年11月にこの反乱を鎮圧した。1824年憲法はこの先多くの共和制を求める反乱者の挑戦に遭ったが、1889年まで生き延びる長命な憲法となった。独立後の外交面では、独立に際して君主制が樹立されたため、ヨーロッパにおいて絶対主義の維持を図る神聖同盟の一員となった 。この傾向は独立以前のジョアン6世の治世中にペドロ王太子の后としてウィーン体制の中心だったオーストリア帝国のハプスブルク家からマリア・レオポルディナ・デ・アウストリアを皇室に迎えていたことによって強まった。そのため、周辺のコロンビアなどからは警戒感を持って見られた。ブラジルの独立にはイギリスが強く影響を及ぼしていたが、ブラジルを最初に承認した国はアメリカ合衆国であり、1825年にイギリスの仲介で旧宗主国のポルトガルが独立を承認した。ポルトガルに続き、翌1826年にイギリスが独立を承認した。さらにこの頃、独立直前の1821年に旧リオ・デ・ラ・プラタ副王領を二分した連邦同盟のが失脚してから大混乱に陥ったリオ・デ・ラ・プラタ連合州に侵攻し、ブラジルが併合したシスプラチナ(東方州)の解放を求める声がリオ・デ・ラ・プラタ連合州内で強まった。1825年末にアルティーガスの副官だった将軍率いる33人の東方人が祖国に潜入してブラジルからの独立戦争と連合州との合邦を求め、連合州は内乱を終結させてこれを支援した。このため、激怒したペドロ1世は連合州に宣戦布告し、シスプラチナ戦争が勃発したが、アルヘンティーナ(戦争中にリオ・デ・ラ・プラタから改名)軍は()で勝利すると、以降は優れた戦術でブラジル軍を破り続け、最終的には1828年にアルゼンチンの勢力が伸張することを恐れたイギリスの仲介によりモンテビデオ条約が結ばれ、イギリスの意向によって東方州(シスプラチナ)が緩衝地帯のウルグアイ東方共和国として独立することが認められた。シスプラチナ戦争後、勅選議員を多く含む上院が皇帝派となり、少数の共和主義者を含む下院が政府に批判的となった。下院はシスプラチナ戦争の戦費支出に反対し、ウルグアイの独立をペドロの失政とみなした。政府に対する不満は全国的に広がり、とくにミナス・ジェライス県で反対が強く、ペドロは次第にポルトガル人の代表とみなされるようになった。そして1831年のペドロ1世の内閣改造に対して不満が爆発し、1831年4月5日、宮廷前に群衆が集まり暴動になった。ペドロ1世は7日に退位宣言を行い、5歳の皇子ペドロ2世を後継者に指名して、ポルトガルへ退去した。教育面では、1827年にサンパウロとオリンダ(後にレシーフェに移転)に法科大学が設立され、ブラジル出身の官僚や法律家を育てるのに寄与した。ペドロ1世の失脚後、皇帝は18歳以上ではなかったため、1824年憲法の規定にしたがって、上下両院総会が3人の摂政からなる摂政府によって政府を運営することを決定した。摂政には憲法起草者のホセ・カルメイロ・デ・カンポス、上院議員ニコラス・ペレイラ・デ・ヴェルゲイロ、フランシスコ・デ・リマ・エ・シルヴァ将軍が選出され、しばらく皇帝不在のまま摂政による統治が行われた。このため1831年から1840年までを摂政期と呼ぶ。摂政期は共和制を求める反乱が各地で相次ぎ、既存の陸軍さえ中央政府にとっては信用できなくなった。そのため法務大臣ディエゴ・アントニオ・フェイジョーは1831年8月に「国民軍」(民兵隊)を創設した。国民軍の隊長(コロネル=大佐)には、各農村の既存のボスが任命され、民兵として農村の人間を動員する権利が与えられた。この国民軍はコロネルの私兵形成にとって有利に働くことになり、現在までブラジルの農村部で(農村のボスによる支配)が続く直接の要因となっている。北東部では1835年にはパラー県での率いるが勃発し、1835年にはイスラーム教国家を樹立しようとした黒人によるナゴの反乱()が、1837年には共和制を求めたが、1838年にはが勃発したが、いずれも連邦軍により大弾圧された。一方、南部では1835年に最南部のリオ・グランデ・ド・スル県で(、 - 「ファロウピーリャの反乱」とも)が勃発した。アルゼンチンやウルグアイからパンパが続くこの地域では牧畜経済が発達し、そのために前述の両国のようなガウーショ(ガウチョ)と呼ばれる人々が牧畜を担うようになっていたが、牧場主とガウーショの武力の連合はブラジル帝国軍を脅かした。1836年にはの樹立が宣言され、イタリア人革命家のジュゼッペ・ガリバルディもが反乱軍側に参加した。1839年には反乱が波及したサンタ・カタリーナ県での樹立が宣言された。しかし、南部の牧場主はブラジル帝国からの独立ではなく、あくまでも自治の拡大を望んでいたのであったがために、ペドロ2世の即位後の1845年に恩赦と減税と引き換えに講和が結ばれ、この反乱は終結した。地方の反乱に対し、中央もまとまった政策はとれず、ペドロ1世帰還派の回帰派、自由主義穏健派、自由主義急進派の三勢力が争いを繰り広げた。1834年にポルトガルでペドロ1世が死去したのち回帰派は自由主義派に合流し、1835年に進歩党と回帰党が設立され、両党とその対立は後の自由党と保守党による二大政党制の原型となった。このように各地で反乱が相次いだ結果、混乱を収めるために皇太子が皇帝として即位することが解決策として持ち出された。1840年7月23日にクーデターが勃発し、ペドロ皇太子の成人式が超法規的措置によって行われると、ペドロ皇太子はペドロ2世としてブラジル皇帝に即位した。教育面では、エリート層の中等教育を担うコレジオ・ドン・ペドロ・セグンド(1837)が設立されたが、モデル校となったこの学校の成立は、中等教育を高等教育のための予備校としてしまう副作用をももたらした。ペドロ2世の即位後、内政においては進歩党と回帰党が再編され、自由党と保守党の二大政党制が確立した。1844年にはペドロ2世の調整権によって自由党に政権を担当させ、ヨーロッパで1848年革命が始まるとその影響を恐れて同年に保守党に政権をさせたように、この時期は皇帝の調整権によって両政党に内閣が交代した。この措置を不満に思った自由党により、ペルナンブーコのレシーフェで1848年11月からヨーロッパの社会主義思想の影響を受けた( - 「プライエイラの反乱」とも)が勃発したが、1850年にこの反乱が鎮圧されると、第二帝政の政治的安定が訪れることになった。ペドロ2世時代の外交は、基本的にイギリス資本への従属(これは当時ごく僅かな例外を除いてラテンアメリカ全土に共通していた)と、領土拡張政策、そしてアルゼンチンの強国化の阻止によって特徴付けられていた。イギリスとの関係は1840年代には奴隷貿易の問題により大きく悪化したが、1845年のアバディーン法制定により1850年に奴隷貿易が廃止されると改善に向かった。奴隷制は1860年代に北米の南北戦争の影響を受けて大きく動揺するものの、基本的には帝政の支持基盤となっていた大地主は奴隷制の存続を望み、この問題はブラジルの大きな政治的課題となった。領土拡張の当初の目標はかつてシスプラチナ県として領有していたウルグアイであり、これは大戦争をはじめとするウルグアイの内乱において、イギリス、フランスと敵対して貿易を保護し、大アルゼンチン(パラグアイ、ウルグアイとの合邦)の実現を図るフアン・マヌエル・デ・ロサスに対する牽制の意味を含めてコロラド党を支援することによって達成されようとした。事実、1851年にロサス派が勝利を目前にしたところでエントレ・リオス州知事フスト・ホセ・デ・ウルキーサを唆して介入したことにより、1852年2月3日にロサスは()で敗れて失脚し、アルゼンチン・ウルグアイの合併という事態は回避された。また、ブラジルの南米における最大のライバルがアルゼンチンであることを強く認識させたのもこの戦争だった。ロペス父子が支配し、近代化政策を続けるパラグアイも標的となった。大戦争後もウルグアイの政治的帰属はアルゼンチン、パラグアイ、ブラジルの関係に複雑な影響を与えていたが、ウルグアイでの内乱がきっかけとなって、1864年にパラグアイのソラノ・ロペス大統領はウルグアイへの内政干渉を理由にブラジルに対して宣戦布告し、パラグアイ戦争(三国同盟戦争)が勃発した。ブラジル帝国が主体となったアルゼンチン、ウルグアイとの三国同盟とパラグアイのロペス政権との間で戦われたこの戦争では、南米で最大の軍隊を保有していたパラグアイの頑強な抵抗もあって激戦が続いたが、によるブラジル軍の指揮もあり、1870年にロペスがで戦死し、ラテンアメリカで最も凄惨な戦争となったこの戦争は終わった。敗戦により南米で最も先進的な経済制度を備えていたパラグアイの人口は半減し、アルゼンチンとブラジルに領土は分割され、自立的発展を遂げていた工業は崩壊し、国家は壊滅した。ペドロ2世にとってこの戦争はブラジル人のナショナリズムを奮い立たせる経験として肯定的に捉えられたが、勝者となったブラジルも10万人の死傷者を出し、30万ドルに及ぶ戦費をイギリスからの債務で賄ったために戦争終結後に財政崩壊を起こした。さらに前線でアルゼンチン兵と行動を共にした帰還兵や、戦場で黒人と共に戦った軍人により、共和制思想や奴隷制廃止が大きく喧伝されるようになった。また、パラグアイ戦争は、ブラジルとアルゼンチンに両国の緩衝地帯の必要性を理解させることになった。1844年に新関税法が導入されると、輸入関税の引き上げはブラジルの工業化の基礎条件を築いた。また、1840年代に南東部のリオデジャネイロ県でコーヒーの栽培が成功すると同時に、北東部での砂糖と綿花の栽培が衰退したため、以降コーヒーはブラジルの奴隷制プランテーション農業経済の主軸を担い、外貨をもたらすと共にファゼンダ制を強化した。コーヒー栽培には多量の労働力を必要とするが、1850年の奴隷貿易廃止によって黒人奴隷の新規流入が停止したために、1860年代からブラジルの白人化を目指していた当時の自由主義知識人や寡頭支配層の思惑と合致する形で、奴隷に代わる労働力としてヨーロッパから移民が導入されることになった。また、パラグアイ戦争後、陸軍士官学校の数学教官だったベンジャミン・コンスタンによって1850年代にブラジルに導入されたオーギュスト・コントの実証主義と共和主義が融合し、実証主義は次第に奴隷制と帝政に対する批判を帯びた運動になっていった。1865年に南北戦争の結果としてアメリカ合衆国で奴隷制が廃止され、1870年にスペイン領キューバで奴隷の暫定的解放を達成するモレ法が可決されると、ブラジルのみが西半球で唯一奴隷制に固執する国家となったがために、実証主義者により帝政廃止と奴隷制廃止を求める共和党が結成された。さらに1878年に自由党政権が成立するとジョアキン・ナブーコや詩人のカストロ・アルヴェスに代表される知識人は奴隷制廃止を公然と要求するようになり、ベンジャミン・コンスタン大佐は陸軍の青年将校(テネンテ)に実証主義教育を行い、次第に軍全体が実証主義を信奉するようになっていった。ペドロ2世はこうした声に対処するために、1871年9月28日にはモレ法にならった出生自由法を、1888年5月13日に黄金法を制定して奴隷制が最終的に廃止されたが、このことによってペドロ2世は大地主達の支持をも失った。しかし、奴隷は解放されたものの、解放に際して経済的な裏づけとなる土地や財産の分配はなされなかったため、結局黒人の社会的立場に大きな変化は見られなかった。植民地時代から奴隷制廃止までにブラジルに連行された黒人奴隷の数は350万人から1,000万人に上ると推測されている。1870年代にカトリック教会と対立したことにより、帝政は教会からの支持をも失っていたが、1880年に軍部帝政派の重鎮だったカシアス公が死去したことをきっかけに、皇帝への支持は教会のみならず、軍部からも失われた。そして1888年の奴隷制廃止によって帝政は国内の全ての層から支持を失うことになった。中間層の利害を代表し、国家の近代化を求める軍部の青年将校はこの好機を逃さず、1889年11月15日にベンジャミン・コンスタンの計画により、デオドロ・ダ・フォンセカ元帥によって率いられた軍部によって宮殿は包囲された。首相は逮捕され、ペドロ2世は退位してイギリスに亡命した。こうして無血革命により帝政は崩壊し、ブラジルは共和制に移行した。そしてこの時に軍が果した大きな役割はその後ブラジルの政界における軍部の発言力を保障することにもなった。実証主義知識人はアメリカ合衆国を模範としていたが、11月15日に導入されたブラジル新国旗は余りにもアメリカ合衆国の国旗に似ていたために拒否され、11月19日に制定されたブラジル合衆国の新国旗には、天球の帯に実証主義知識人の合言葉だった標語「秩序と進歩」が記された。第二帝政時代は経済面では、19世紀後半にはマウアー子爵が実業家として大成功し、彼の手によってブラジル資本による鉄工所、造船所、鉄道などが造営されたが、1875年から1878年の恐慌で破産すると、彼の財産はほとんど何も残らなかった。また、アマゾン川流域でのゴム・ブームによりマナウスなどの都市の開発が進められた。文化面では、帝政前期は、文学においてロマン主義がゴンサルヴェス・デ・マガリャンイスの『詩的吐息と感情』(1836)によってもたらされた。ブラジルのロマン主義はインディオを理想化することをよしとし、インディアニズモの潮流が生まれた。この時期の文学者としてはゴンサルヴェス・ディアスや、『イラセマ』、『グアラニー』のジョゼ・デ・アレンカールなどが挙げられるが、全体としてヨーロッパの模倣の域を出なかった。また、ブラジル国民の理想的原型としてインディオを称揚するインディアニズモの潮流がありながらも、実際にインディオへの迫害が止むことはなかった。音楽ではほとんどがヨーロッパの模倣だったが、アレンカールの『グアラニー』をオペラ化したカルロス・ゴメスなどが活躍した。美術では、1816年に到来したフランスの文化使節団の影響を受け、「ブラジル最初のミサ」(1861)のヴィトル・メイレレスや「独立か死か」(1888)のペドロ・アメリコなどの画家が活躍した。一方、帝政後期は写実主義が隆盛を見せ、『ブラス・クーバス死後の回想』や『ドン・カズムーロ』のマシャード・デ・アシスや『スラム街』のアルイジオ・アセヴェード 、後期ロマン主義詩人のカストロ・アルヴェスといった文学者を生みだし、さらに地方主義の萌芽も見られた。また、歴史研究も進んだ。さらに、音楽ではショーロとマシーシェが流行した。ショーロは1870年にシルヴァ・カラードによって生み出され、レコードの普及と共にピシンギーニャによって大衆化した。マシーシェはシキーニャ・ゴンザーガによって大衆化した。また、スポーツでは後に国民的スポーツとなるサッカーがもたらされた。教育面では、私立の高等専門学校の整備が進んだが、隣国アルゼンチンがドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント政権の下で初等教育に力を注いだのとは対照的に、ブラジルでは初等教育の整備が遅れた。1872年に初めて行われたセンサスによればブラジルの総人口は990万人だったが、そのうち自由人の非識字率は80%、奴隷の非識字率は99.9%に達していた。1889年11月15日にデオドロ・ダ・フォンセカ元帥により共和制が樹立されると、フォンセカは大統領に選ばれ、ルイ・バルボーザの発案によってアメリカ合衆国憲法とアルゼンチン憲法を参考にして貴族制度の廃止などを盛り込んだ1891年憲法が公布され、この憲法の中でそれまでの県(provincia)は新たに州(Estado)となり、正・副大統領の直接選挙、三権分立が定められ、国名はブラジル合衆国と定められた。各州は独自の州憲法と州軍を保有し、ブラジルは中央集権的な帝制国家から、地方分権的な連邦共和制国家に移行した。しかし、軍の青年将校は大統領であるフォンセカよりも、副大統領のフロリアーノ・ペイショトを支持したため、軍部の政治介入が成功してフォンセカは1891年に失脚し、ペイショトが大統領となった。このときのクーデターにちなんで、ブラジルでは現在も、軍部による政治介入はフロリアニズモと呼ばれている。1894年に初の文民大統領として、サンパウロ州出身のプルデンテ・デ・モライスが就任した。旧共和政初期には旱魃や低開発が続く北東部は極めて不安定であり、モライス時代には1896年に北東部のバイーア州でアントニオ・コンセリェイロ(助言者アントニオの意)によって率いられた カヌードスの反乱が勃発したコンセリェイロはキリスト教に深く帰依し、バイーア州の奥地のカヌードスにコロネルの支配が及ばない30,000人が生活する共同体を築いていたが、政府はカヌードスを認めず、三次に渡る遠征の末、1897年10月5日カヌードスの住民は一人残らず皆殺しにされ、反乱は鎮圧された。この反乱はエウクリデス・ダ・クーニャに『奥地』を書かせた。この反乱は通貨価値を下落させたが、政府はロスチャイルドから借り入れて急場をしのいだ。一方南部では1912年にパラナ州とサンタ・カタリーナ州の両州で千年王国思想の影響を受けたコンテスタードの反乱が勃発し、この反乱は5万人以上の農民を巻き込んで実に4年間続いた。カヌードスやコンテスタードの反乱者はヨーロッパ化した中央政府や知識人には「狂信者」、「王政復古主義者」と呼ばれ、ダ・クーニャが『奥地』で表したように後進的な非白人を科学的な文明が討伐するとの大義名分が持ち出された。しかし、彼等の反乱は理論的には洗練されていなかったが、人種主義や貧困に苦しむ人々が生活のために必要な資源を得るための戦いであった。カヌードスの反乱が鎮圧された後にも、北東部の貧しい人々の戦いは、大地主に対するカンガセイロ(匪賊)の跋扈という形で続けられ、1918年から1938年まで活動した義賊ランピアンのような人物を生み出した。1898年にサンパウロ州出身のカンポス・サレスが大統領に就任し、リオ・ブランコ男爵を外務大臣に任命した。リオ・ブランコはこの先15年に渡って外務大臣を続け、アマゾン川流域地域における近隣諸国との間での国境未画定地の獲得に奔走し、1899年にボリビアとの間のアクレ紛争でアクレ州を獲得したのを皮切りに、フランス領ギアナ、オランダ領ギアナ、イギリス領ギアナ、コロンビア、ベネズエラとの武力とアメリカ合衆国の支持を背景にした交渉で多大な成果を挙げ、戦争に訴えずにブラジルの領土を299,400km²拡大した。1909年には大戦争の際にウルグアイから得た広大な領土についてウルグアイとの合意が結ばれ、国境紛争を解決した。1902年にはサンパウロ州出身のロドリゲス・アルヴェスが、1906年にはミナス・ジェライス州出身のアフォンソ・ペナが大統領に就任した。以降、産業の中心だったサンパウロ州(コーヒー)と、ミナス・ジェライス州(牛乳)出身者の間で交互に大統領を出す体制が生まれ、両州の主産業からこの体制はカフェ・コン・レイテ(ポルトガル語でカフェオレの意)と呼ばれるようになった。この時期に首都リオデジャネイロの改造が行われ、またサンパウロ州で発展を続けるコーヒー産業のために、奴隷制廃止後の代替労働力として南欧を中心とするヨーロッパからイタリア人、ポルトガル人、スペイン人、ドイツ人、ポーランド人、ウクライナ人、フランス人、ユダヤ人などが、中東から歴史的シリア出身のアラブ人(レバノン人、パレスチナ人など)が、さらに1908年には日本からも日本人移民が導入された。1820年から1930年までにヨーロッパや日本から約500万人の移民が流入したが、定着した約350万人の移民のうち、約200万人がサンパウロに定住した。1900年代から工業化がリオデジャネイロとサンパウロで進んでいたが、これらの諸事情よりサンパウロ市の経済の中心としての地位は不動のものになった。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、1917年4月にブラジル商船がドイツの潜水艦に撃沈されたのをきっかけに、親米英外交に基づいて同年中にブラジルはドイツ帝国に宣戦布告し、連合国の一員となった。戦闘には参加せず、戦後はヴェルサイユ会議に代表を派遣している。さらに国際連盟に加盟することにもなったが、常任理事国になれなかったために1926年に連盟を脱退した。1922年にはミナス・ジェライス出身のアルトゥール・ベルナルデスが大統領に就任した。ベルナルデス政権もまた今までの政権の例に漏れず腐敗していたが、早くも同年には陸軍の青年将校(テネンテ)が政治改革を求め(テネンチズモ)リオデジャネイロの兵営で反乱を起こした。この反乱は鎮圧されたが、1920年代には次第にこのカフェ・コン・レイテ体制に対する批判が強まり、軍や地方諸州の反乱が起こることになった。1924年にはサンパウロで陸軍の部隊が反乱を起こし、1925年4月にリオ・グランデ・ド・スルの兵営から反乱を起こしたルイス・カルロス・プレステス少佐(「希望の騎士」)の下でプレステス部隊を結成し、約1,500人からなるこの部隊は1929年にボリビアに亡命するまでに24,000kmに渡ってブラジル奥地を転戦し、53度に及ぶ政府軍やコロネルの私兵の追撃を退けた。しかし、1926年にベルナルデスが任期を終えると、このような活躍がありながらもテネンチズモは、最後まで反ベルナルデス政権以上の大衆的な綱領を持たなかったために革命運動には繋がらずに終焉することになった。文化面では、文学においては1897年にブラジル文学アカデミーが設立され、初代会長にはマシャード・デ・アシスが就任した。旧共和政初期には『奥地』(1902)のエウクリデス・ダ・クーニャや、リマ・バレット、モンテイロ・バレットなどが活躍した。さらに、19世紀末からナショナリズムの称揚が進み、歴史家カピストラーノ・デ・アブレウによる『ブラジルの古い道と植民』(1899年)の発表をきっかけに、ブラジルの国民性の根源を内陸部の混血住民に求める言説が生まれた。第一次世界大戦によってそれまでのブラジルのエリートが発展の模範にしてきた西ヨーロッパが没落するとこの潮流は一層強くなり、1922年2月にサンパウロで「近代芸術週間」が開催されるとブラジル独自の文化運動は盛り上がりを見せ、音楽では「ブラジルのブラジル化」を掲げた作曲家のエイトル・ヴィラ=ロボスが活躍した。文学では『ジョアン・ミラマールの叙情的回想』(1924)、『食人宣言』(1928)を著し、「食人運動」を提唱したオズヴァルド・デ・アンドラーデや、『マ
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