ベルヴェデア("Belvedere" )は、1951年から1970年までプリムスのブランドで製造販売されたアメリカ車である。安価なアメリカ市場での最初の2ドアハードトップとして1950年に登場して大成功したシボレー・ベル・エアーに対抗すべく1951年3月31日に発表された。2ドアハードトップとしてはプリムス最初の車両であった。1951年のベルヴェデアは、独立したモデルではなかった。3,010mmのホイールベースをベースとして、2ドアのベルヴェデアは、非常に好ましい大きさとなった。パワートレインは直列6気筒エンジンで、217.8立方インチ(3.6L)に換装可能であった。圧縮比は比較的低い7:1で、97馬力で、最初の年販売は、2,114ドルから始まった。1952年の間、プリムスはベルヴェデアに大きな変更を加えなかったが、最大の変更は、色彩設計であった。さらにトップレベルのベルヴェデアと他のプリムス車とを区別するため、2つの色調はその時屋根からウエストラインを越えてトランクにかけて塗装され、その処理は「サドルバック」と称された。2つのトーンの色彩設計は、ブラックとミントブルー、グレーとブルーの組み合わせであった。またオーバードライブが1952年のオプションとして搭載可能となった。エンジンは1951年からの流用であった。しかし価格は2,216ドルまで上がった。1951年と1952年の生産台数はシボレー・ベル・エアーとフォード・ビクトリアの生産台数の1/4をわずかに上回っただけの51,266台となった。ベルヴェデアは、1953年までクランブルック・シリーズの一部のままであった。その年の間、全てのプリムスモデルは、完全に一新された。ホイールベースは114inに短縮され、ワンピースフロントガラスや後部のフェンダーが変更された。1953年4月に、プリムスはハイ・ドライブなセミオートマチックトランスミッションを搭載した。またその翌年フォードがフル・オートマチックトランスミッションのO-マチックを開発すると、プリマスは1950年にフル・オートマチック・パワーグライドを開発していたシボレーとも遅れをとっていた。エンジンは、7.10:1への圧縮比のわずかな増加である唯一の強化で、1952年から流用された。より短いホイールベースは、一部の消費者と批評家に酷評された全体的に短くて太いデザインとなった。2,132ドルに値下げされたが需要はむしろ低くなった。合計35,185台が1953年に販売された。ベルヴェデアは、1954年のトップレベルの商品として、クランブルックにとって代わった。2ドアハードトップの他に、コンバーチブル、2ドアステーションワゴン、4ドアセダンまたは前記の2ドアハードトップ(スポーツクーペ)を選ぶことができた。わずかなスタイル改修は、ボディデザインにも及んだ。初めて、小さなクロムのテールフィンが、後部のフェンダーの上に現れた。1954年3月に、プリムスはついにフル・オートマチック・トランスミッションを提供した。また、より大きな標準的なエンジンは新しかった。230.2立方in6気筒は、ダッジ部門から流用された。パワーは、その時110馬力となった。しかし生産台数は32,492台に下がった。全てのプリムスは、1955年モデルで大規模なオーバーホールが実施され、ベルヴェデアはラインナップのトップに帰り咲いた。1956年、プリムス・スタイルは、1955年から進化した。より劇的な後部のテールフィンの処置は、最も顕著であった。1956年前半には、プリムス・フューリーは、特別版高性能モデルとしてベルヴェデアのラインと統合された。1957年はクライスラーの当り年で、プリムスも例外ではなかった。プリムスのデザインは、クライスラーがスローガンを使用したように革命的であった。「突然ですが、1960年です!」というスローガンで、新車を販売促進した。ベルヴェデアのラインは、再びフューリーを統合した。今年、デュアル4バレルのキャブレターによる新しい318立方inV型8気筒はフューリーの標準的なエンジンであり、それは全てのプリムス車で利用可能であった。ベルヴェデアは、1958年の最上レベルの車として、再び帰り咲いた。スタイルは、ピカピカの1957年のモデルから進化的であった。デュアル4バレルのキャブレターによる350立方inV型8気筒が「金色のコマンドーと呼んだビッグ・ブロック・エンジン」であった。フューリーが1959年のプリムスのトップモデルとなったあと、ベルヴェデアは中間の定価設定のモデルに降格された。ベルヴェデアは1961年まで、プリマスの中間価格がついたフルサイズのモデルとして残った。そしてその後、名前はプリムスの新しい「中型」モデルに流用された。より高い手入れをされたプリムス・サテライト(1966年登場)、スポーツカーのプリムス・GTX(1967年登場当初はプリムス・ベルベディアGTX)と手ごろな値段のマッスルカーのプリムス・ロードランナーを含んだ。ベルヴェデアは1970年まで存続した。1971年からはサテライトが中間モデルのベーシック車両になった。その後、1975年からフューリーが中間モデルのベーシック車両になりサテライトは生産終了し、フルサイズはフューリーに変わってグランフューリーが生産された。1964年のベルヴェデアは426立方inのクライスラーヘミエンジンを搭載した。これはかなりの高回転を実現するよう改善されたエンジンで、ベルヴェデアは1964年のNASCARのデイトナ500で優勝、2位、3位を占めた。このレースで勝利を収めたのは、リチャード・ペティであった。ベルヴェデアはその適当なサイズのため、プリムス・ナスカーのエントリー車に選ばれ、そしてその結果1964年のボディスタイルは時代の他のプリムスと比較してわずかに低い形を与えられた。米国・オクラホマ州タルサで将来的なオクラホマ州合衆国加入100周年記念行事の一環として、加入50年目の1957年に設置された「核攻撃にも耐える」堅牢な地下室構造のタイムカプセルが建設され、ミス・ベルヴェデアと名付けられた1957年式ベルヴェデアの他、これの燃料として50年後の石油資源の枯渇やガソリン車の衰退の可能性も考慮しガソリンの缶詰も内部に納められ、華々しいセレモニーが行われる中、埋設された。これは50年後の2007年、同州の合衆国加入100周年記念式典にあわせて開封されるものとされ、当時募集された「2007年のタルサの人口を当てるクイズ」の最近似値の回答者本人ないし子孫などの血縁者に開封時に贈られるという企画になっていた。ところが、いざ実際に2007年に地下室から取り出されたミス・ベルヴェデアは、その原型こそ保たれていたが、往時の見る影もなく鉄屑も同然に赤錆びており、動作するとは到底考えられない朽ち果てた状態に劣化しており、もはやスクラップにでもするしか使い道の無い有様であった。これは地下室について人間などが入れない様に封印はされていたが気密性が低く、長い年月の間に徐々に地下水が地下室に染み込んでゆき、これが原因で腐食してしまったものであった。前述のクイズ企画でミス・ベルヴェデアの所有権を獲得したのは、実人口384,743人に対して382,457人の近似値を提示したRaymond Humbertson氏であったが、同氏は1979年に、妻も1988年に死去しており、直系の子孫はいなかった。彼の姉妹に当たる女性たちも既に80代から90代に達する高齢であった為、最終的に彼の甥にあたる親戚が所有権を受け継ぐ事となった。ミス・ベルヴェデアは2007年11月にニュージャージー州の工房、Ultra Oneに運び込まれ、同地にて保管が行われている。公道への復帰が困難な状態である為、当面は静態保存が継続できる状態とする為、ボディや内装の除錆作業が行われ、腐朽したフレームや足回りは1957年式をドナーとする形で、レストア作業が続けられていたが、2009年時点では代替部品が確保できない電気系統やステアリング系統などの修復が課題とされている状況であった。その後、2012年に同社からスミソニアン博物館にミス・ベルヴェデアの移管について交渉が行われているという報道を最後に、近況は伝えられていない。なお、タルサでは市制50周年を迎えた1998年にも、将来的な市制100周年記念行事の一環として、プリムス・プロウラーをタイムカプセルとして地上の保管庫に収蔵しており、2048年の記念式典で開封される予定である。
出典:wikipedia
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