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KAN

KAN(かん、1962年9月24日 - )は、日本のシンガーソングライター。本名、木村 和(きむら かん)。福岡県福岡市出身。ジェイピィールーム(アップフロントグループ)所属。1962年(昭和37年)9月24日、福岡県福岡市に2人兄弟の次男として生まれる。1967年(昭和42年)、東田島カトリック幼稚園に入園。翌年に福岡市天神のヤマハ音楽教室に入室し、ピアノのレッスンを受ける。1969年(昭和44年)、福岡市立田島小学校(現 笹丘小学校)に入学。福岡市唐人町のピアノ講師・中村順子に師事し、クラシックピアノを習い始める。講師宅で週1回のピアノレッスンに加え、毎週日曜日に田島バプテスト教会に通い賛美歌を歌う日々を過ごす。団地住まいにも拘らず、ピアノを2台設置するなど、両親(特に母親)の音大への進学は期待が高まっていた。1972年、4年生のときに福岡市団地対抗少年野球連盟のチームに入団、1974年、6年生でレギュラーに昇格、副キャプテンを兼任した。また、学内唯一の長髪、赤いベルボトムジーンズ、オーバーオールを着こなすなど、ファッションリーダーとしても生徒間で注目を集め、福岡の老舗デパート「岩田屋」のランドセルのテレビCM及び広告にモデルとして出演。1975年(昭和50年)、福岡市立友泉中学校に入学。独学でギターを持ち始め、ビートルズをコピーする。1976年、中学2年生の秋に、高校受験を理由にクラシックピアノを辞めるが、1977年、3年生の年にビートルズのコピーバンドを結成(バンド名はミートルズ)。この時に録音した音源はまだ残っており、大阪でのFM番組で放送されたこともある。KANとともにこの当時の番組に出演していたトータス松本はその音源を聴いて、中学生レベルとは思えない完成度・熱き思いに大きな衝撃と感銘を受けたという(その場ではKANに告げられずにいたが、10年程経過して再会した時にその時の感想を伝えた)。なお、2010年4月30日のNHKのFM番組(ジャパニーズ・ゴールデンポップス)において「いつか、ちゃんと(その音源を世に)出そうと思っている。」とKAN本人が発言している。1978年(昭和53年)、福岡県立城南高等学校に入学。水泳部に所属。同級部員から借りたビリー・ジョエルのアルバム『ニューヨーク52番街』に衝撃を受け、ピアノロックに目覚める(KANはこのLPを本来の所有者に返却するのを忘れ、29年間所持していた。後に返却)。1981年(昭和56年)、法政大学社会学部に入学。ピアノを買うために大学にはほとんど行かず、銀座のレストランや六本木のディスコ「玉椿」でのアルバイトに明け暮れる(そのため1982年、2年生の時に留年)。1983年に福岡県立城南高等学校水泳部の先輩らが所属していたフュージョン系バンド「アネット」に、“自分のオリジナル曲をやること”を条件に加入1984年にヤマハ「East West '84」決戦大会で優秀賞、集英社ヤングジャンプ「Sound Contest '84」でヤングジャンプ奨励賞を受賞する。1986年(昭和61年)にライトリンクスコーポレーション(1988年にアップフロントエージェンシー(現:アップフロントプロモーション)に吸収合併)と契約。同年、大林宣彦監督作品『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』の音楽を担当する(大林宣彦とは後に「大連・尾道友港都市博覧会」での上演作品、及びKANのセカンドシングル「BRACKET」のPVでもコンビを組んでいる)。1987年(昭和62年)4月25日、ポリドールよりシングル『テレビの中に』及び同名のアルバムでレコード・デビュー。1990年(平成2年)、アルバム「野球選手が夢だった。」の収録曲「愛は勝つ」が『クイズおもしろTV』エンディング曲に採用(同番組に起用されたことはあまり話題にならずヒットには繋がらなかった)。1991年(平成3年)1月、フジテレビ系『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』の第三期エンディングテーマに用いられ、大ヒット。シングルは200万枚を超えるセールスとなり、オリコンチャートイン52週のロングヒットを記録する。1991年(平成3年)には「愛は勝つ」が第33回日本レコード大賞(ポップス・ロック部門)を受賞。また、第42回NHK紅白歌合戦にも出場した(モーツァルト没後200周年の年であったこともあり、モーツァルトを連想させるかつら&扮装で熱唱)。また同年2月、やまだかつてないWinkに作曲提供した「さよならだけどさよならじゃない」(作詞・山田邦子)もヒット、卒業ソングの定番曲ともなった。1991年9月6日、フジテレビ『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングに初登場。KANを紹介したのは、前年に『雨にキッスの花束を』『新しい街で』を提供された今井美樹。1996年(平成8年)11月、中国・広州の「広東国際広播音楽博覧会」に出演。「愛は勝つ」を北京語と中国語で歌唱。1997年(平成9年)のコンサートツアー「LA TOUR DOMESTICA DEL DECIMO ANNIVERSARIO DAL TREDICI SETTEMBRE PASSANDO IL MIO COMPLEANNO AL OTTO NOVEMBRE」で共演したバイオリニストの早稲田桜子と、1999年4月に結婚。2002年(平成14年)2月、「フランス人になりたい」の夢に近づくため、住居をフランス・パリに移す。また、クラシックピアノを基礎から勉強し直すため、エコール・ノルマル・ドゥ・ミュジーク・ドゥ・パリのピアノ科(ノンプロフェッショネル)第2ディヴィジョンに中途入学。翌年6月に同科第3ディヴィジョンを修了。2004年(平成16年)7月、帰国。2005年、初の単身弾き語りツアー「弾き語りばったり#1」を敢行。2006年(平成18年)2月22日、4年5か月振りのシングル『カレーライス』を発表。同年5月、初の上海ライブを新天地ARKにて行う。同年8月30日に5年振りのアルバム『遥かなるまわり道の向こうで』を発表。2010年(平成22年)2月10日、シングル『よければ一緒に』を発表し、同年3月10日、アルバム『カンチガイもハナハダしい私の人生』を発表。このアルバムにて、尊敬するアーティストであるASKAとの初コラボレーション作品『予定どおりに偶然に(with ASKA)』を発表。2010年10月、オリジナルアルバムのうち廃盤となっていた「テレビの中に」から「KREMLINMAN」までの12枚を「THE RESTORATION SERIES」と銘打ち、リマスタリングのうえ再発売した。2011年(平成23年)11月、ロシア・モスクワでのイベント【J-FEST 2011】Фестиваль японской современной культуры(日本の現代文化フェスティバル)へ出演。KANの本名「和(かん)」は、父親の木村満(きむらみつる)が命名した。父はRKB毎日放送の番組プロデューサーとして音楽関係の業務を担当し、学校の校歌の作曲やアルバイトで博多どんたくの音楽アレンジも行う程の音楽家でもあった。その父親は子供を3人欲しており、「創作を行うことにより(世の中の人に)平和を与えるという行動を実践する」という考えの元、第1子を「索(さく)」、第2子を「和」、第3子を「践」と名付けるつもりでいた(結果として兄弟は2人止まり)。しかし、なぜ「和」を「かん」と読ませたのかはKAN本人も知らされておらず、父親は1990年に逝去したため、真相は謎のままとなった。KAN自身は、本来は本名でのデビューを希望していたが、前述の通り「和」を「かん」と読ませることは稀であるため読み間違えられやすい懸念、また読み方に関する質問にその都度回答することが面倒だと思ったために芸名となった。なお、2005年5月に開設したオフィシャルサイトのURLは「www.kimuraKAN.com」(きむらかんドットコム)である。開設時に通信販売限定で発売された弾き語りCD『何の変哲もない Love Songs』は、通常の音楽活動と区別するため「木村和」名義にしている。発表するオリジナル楽曲は全てKAN自身が作曲している(「予定どおりに偶然に」はASKAとの共作)。他人が書いた詞にメロディーを乗せたものが原曲となった「きみを想う夜」など例外もあるものの、ほとんどの場合、曲が先で、詞は後で書くというスタイルである。主に70年代から80年代にかけての洋楽に影響を受けており、特に後期のビートルズ、ジョン・レノンやポール・マッカートニーのソロ作品、ビリー・ジョエル、スティーヴィー・ワンダー等から強く影響を受けている。メロディーやアレンジから彼らの音楽性を独自に研究し、それらの要素を自身の楽曲に積極的に取り入れている。また、楽曲的にスタイルを模倣した作品(パロディ)も存在する。基本的にピアノをフィーチュアした楽曲が多いが、ロックンロール、ソウル、ファンク、ジャズ、ダンスビート、ラップも取り入れるなど、取り扱うジャンルは無節操。作曲とアレンジは切り離せない一つの作業という考えから、自ら作成したデモテープのアレンジを、レコーディングの際に大幅に変更されることを嫌う。そのため、レコーディング現場でスタッフと喧嘩になることもあった。そうした中で、1990年発表の5thアルバム『野球選手が夢だった。』から共同アレンジャーとして参加している小林信吾には最も信頼を置いており、このアルバム以降はほとんどが小林との共同アレンジか、KANの単独アレンジである。リズムアレンジだけでなく、ストリングスやホーンの譜面も自ら書くことも多く、その際に4小節と同じフレーズを繰り返さないというこだわりも見せている。2009年2月に出演したNHK-BS2『あなたの街で 夢コンサート』では、「愛は勝つ」のフルオーケストラアレンジを初めて自ら行い、東京フィルハーモニー交響楽団と演奏した。デビュー前はほとんど洋楽しか聴いていなかったため、作詞に関しては影響を受けた邦楽ミュージシャンがおらず、アマチュア時代から1987年のデビュー当初までは自ら詞を書くことは少なかった。本格的に作詞をするようになったのは10曲中8曲を作詞した1988年発表の3rdアルバム『GIRL TO LOVE』からであり、1989年発表の4thアルバム『HAPPY TITLE−幸福選手権−』以降は全て作詞している。詞を書くペースは遅く、曲ができてから詞が完成するのに数年以上かかる場合も多い。リズムトラックまでレコーディングを済ませておきながら、詞が完成せずにアルバムへの収録が持ち越しになることもある。バンドライブにおいては、コントや寸劇、ダンス等、様々なパフォーマンスが盛り込まれ、KAN自身はこれらを「音楽ギャグエンターテイメントショー」と呼んでいる。例外的に1997年のツアー「LA TOUR DOMESTICA DEL DECIMO ANNIVERSARIO〜」と、2001年のツアー「2001年宇宙の家」においては、ライブパフォーマンス自体にギャグを盛り込まない真面目なツアーとして開催された。ツアーメンバーのバンド名は「ヤン嶋田とニューブリーフ」。ただし、2006年以降のツアーではこのバンド名は使用されていない。ステージングにおいて「最も影響を受けたのは吉川晃司」と公言し、しばしばモノマネを披露している。フランスから帰国した翌年の2005年、初の単身弾き語りツアー「弾き語りばったり#1」を敢行した。以後、「#2」(2005年)、「#3」(2006年)、「#5」(2007年)、「#7」(2008年)、「#11」(2009年)、「#13」(2010年)、「#17」(2012年)、「#19」(2014年)と、バンドライブを定期的に開催している。なお、ツアータイトルの『#(ナンバー)』は、KANが好む素数でカウントしている(#1を除く)。2009年のバンドライブツアー「じゃあ、スイスの首都は?」より、ハードディスク音源との同期演奏を一切廃止。これについてKANは、「弾き語りツアーをやってきたことで、5人もいれば何でもできると思うようになった」と語っている。コンサート終了後の陰アナでは、実際のコンサートタイトルとは違うタイトルをアナウンスし、帰り際の観客を笑わせるのが定番となっている。1988年、オフステーション内にファンクラブ『Spunky Club』が設立。1992年にファンクラブ事務所がアップフロントインターナショナルへ移動したことに伴い名称も『北青山イメージ開発』に変更。2002年2月、KANがフランスに移住したのを期に『北青山イメージ開発』は解散したが、帰国後、2005年9月に『北青山イメージ開発』の内容を受け継いだ有料サイト『北青山イメージ再開発』をオフィシャルサイト内に開設した。1989年には、直枝政太郎(カーネーション)、風祭東(オールウェイズ)、清水淳らと「BAD LOOKS」を結成し、同年11月18日に大阪つかしんテントインにこけら落としとして出演。メンバー名義はベネット(=KAN、サイドギター)、モーリス(=直枝政太郎、リードギター)、トーマス(=風祭東、ベース)、スウィング・スター(=清水淳、ドラムス)。「BAD LOOKS」はメンバー全員がかつらやサイズの合わないスーツを着用し、初期のビートルズを意識した演奏を展開。以後、1996年11月17日にSTVホール「LOVE & LIVE '96」、1998年7月26日に万博もみじ川芝生広場「MEET THE WORLD BEAT '98」、同年7月31日にSTVホール「STV夏まつりLIVE SPECIAL」にも出演。1996年はリードギターに2代目モーリス(本田清巳)、ベースにグレコ(西嶋正巳)と、メンバーを変更。1998年には初代モーリスこと直枝政太郎が復帰した。また、1998年にはオリジナル曲「BAD LOOKSのテーマ」をスタジオ録音し(ラジオでのオンエアのみで未発表)、プロモーションビデオも制作。1998年にはツアーメンバーでハイビジュアル系バンド「Bon Marché」(ボン・マルシェ)を結成し、ライブハウスツアー「23NIGHTS」のセルフオープニングアクトとして出演。ファッション・音楽ともにビジュアル系を意識した派手なパフォーマンスを披露した。メンバー名義はVeau(KAN、ボーカル)、Porc(中野豊、ギター)、Mega(西嶋正巳、ベース)、Volaille(清水淳、ドラムス)、Algue(矢代恒彦、キーボード)。オープニングではオリジナル曲「女神 −VENUS−」「天使 −ANGEL−」「迷宮 −LABYRINTH−」の3曲を披露。これら3曲はスタジオ録音され、「女神 −VENUS−」はKANのシングル「Happy Time Happy Song」のカップリングに、「天使 −ANGEL−」と「迷宮 −LABYRINTH−」は次作のシングル「今年もこうして二人でクリスマスを祝う」のカップリングに収録された。1999年には、同じ事務所に所属していたスターダスト・レビュー、森高千里、east cloud、Something ELse、Chére、Temiyanらと「Pacific Heaven Club Band」を結成し、“さい帯血バンク支援コンサート”を名古屋・横浜・大阪で敢行。このためのオリジナル曲「Pacific Heaven Club Bandのテーマ」を書き下ろした(詞は大西さちこ、Chéreとの共作)。翌年2000年には谷村有美(1999年はゲスト出演)、相田翔子、田村直美が加わり(森高千里は活動休止のため脱退)、大阪・渋谷・名古屋にて再びコンサートが行なわれた。1999年の横浜アリーナ公演と、2000年の国立代々木競技場第一体育館公演はビデオ化され、出演アーティストのファンクラブ会員限定商品として発売された。2006年には桜井和寿(Mr.Children)とユニット「パイロットとスチュワーデス」を結成。KANがチーフパーサー、桜井が機長に扮し、ZEPP TOKYO及びZEPP OSAKAで開催されたLuckyRaccoonのライブイベント「LuckyRaccoonNight Vol.1」(2006年11月)、「LuckyRaccoonNight Vol.2」(2008年5月)に出演した。演奏曲は主にお互いの楽曲のカバーと、唯一のオリジナル曲「弾かな語り」。

出典:wikipedia

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