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きんさんぎんさん

きんさんぎんさんとは、1990年代の日本において記録的な長寿で話題となった双子姉妹、成田 きん(なりた きん、1892年(明治25年)8月1日 - 2000年(平成12年)1月23日)、蟹江 ぎん(かにえ ぎん、1892年(明治25年)8月1日 - 2001年(平成13年)2月28日)の愛称。旧姓は矢野。100歳を過ぎても元気な姿は「理想の老後像」と言われ、一般人でありながら1990年代の日本においては国民的な人気を誇り、当時の日本国内のマスメディアからも毎年のように取り上げられていた。長寿を全うした時点では、二人とも名古屋市南区に居住していた。1892年(明治25年)8月1日、愛知県愛知郡鳴海村(現在の名古屋市緑区)で矢野家の長女・次女として生まれた。きんとぎんの二人が一卵性双生児であることも検査で確認されているが、血液型は異なっている。二人とも内職として特産品であり伝統工芸品でもある有松・鳴海絞りの絞り括りの工程を仕事としていた。ぎんは1913年(大正2年)、22才の時、農家の息子の蟹江園次郎と見合い結婚。ぎんは養蚕の仕事に精を出すことになる。蟹江家は農業のかたわら養蚕をやり、繭を売っていた。そのため、初夏から夏の終わりごろまで、普段生活する部屋も蚕棚で埋め尽くされていた。 翌年の春に第1子の年子を出産。跡継ぎに男をほしかった姑から、嫌味を言われる肩身の狭い日々を送る。結局男は生まれず4人の娘を育て上げた。日中戦争により中国から輸入された鶏の餌も途絶え、ぎんの家では、養鶏業をやめざるをえなくなった。姉・きんは、夫・良吉との間に4男7女をもうけ、この戦争で長男と次男を中国大陸の戦地に送ったが、ぎんの夫婦は男の子を授からなかったので、女ばかりのぎん一家は周囲から浮くようになり疎んじられていった。娘らは道を歩くだけで、非国民と言われることがあったという。 1991年(平成3年)に数え年百歳を迎えて、当時の鈴木礼治愛知県知事、西尾武喜名古屋市長から二人揃って長寿の祝いを受けたことが新聞に紹介される。その後ダスキンのテレビCMに起用され、「きんは100歳100歳、ぎんも100歳100歳。ダスキン呼ぶなら100番100番。」(ダスキンの問い合わせ電話番号が「100番100番」であったことから)で全国的に有名になり、双子のお婆さんとして親しまれた。同じ時期、通信販売情報誌「通販生活」のCMやAMラジオ局・ニッポン放送のAMステレオ放送開始宣伝にも出演。1992年(平成4年)の新語・流行語大賞の年間大賞及び語録賞にも選出。1992年(平成4年)2月に『きんちゃんとぎんちゃん』(作詞:松本礼児、作曲:穂口雄右)でCDデビューし、浦辺粂子の持つ、日本での最高齢レコードデビュー記録を大幅に更新した。なお、このCDはオリコンで39位を記録して、オリコン史上最高齢でのチャートイン記録となった。1992年12月(100歳)、1998年12月(106歳)にテレビ朝日『徹子の部屋』にゲスト出演した(2016年現在、歴代の徹子の部屋のゲストの中で最年長)。1993年(平成5年)にはNHK『第44回NHK紅白歌合戦』に応援ゲストとして出演した。また、東海テレビ制作のフジテレビ系列『金曜ドラマシアター』(→『金曜エンタテイメント』、現・『金曜プレミアム』枠)『名古屋嫁入り物語』シリーズに特別出演したほか、敬老の日スペシャルゲストとしてフジテレビ『笑っていいとも!』にも自宅からの中継で登場している。1995年(平成7年)には「金銀婆婆」と呼ばれ人気を得ていた台湾へ招かれて、103歳で初めての海外旅行をした。この時、ぎんは「(名古屋弁が)通じればええけどね」と語っていた。百歳を越えて初めて確定申告を経験した。1992年(平成4年)には参議院の国会質問においても取り上げられるなど話題になり、日本国外でも報道された。1993年(平成5年)には春の園遊会に招かれている。放送大学の平澤彌一郎教授による足の裏の調査を受けた。このことを契機として、きんは放送大学の科目履修生となり、平澤教授の講義を履修した。全国各地でイベントに参加するなど、亡くなる直前まで芸能活動や慰問を続けた。

出典:wikipedia

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