センチュリオン(Centurion)は、イギリスで開発・量産された戦車であり、第二次世界大戦後第一世代の主力戦車でもある。イギリスで制式装備された他、各国にも輸出され使用された。"センチュリオン"(Centurion)の名称は、ローマ軍団の「centuriō(百人隊長(ケントゥリオ)」に由来する。第二次世界大戦までのイギリス陸軍では戦車を、機動戦に使用する高速力の巡航戦車と、重装甲で歩兵を援護する歩兵戦車に分けて開発、運用していた。しかし北アフリカ戦線や西部戦線におけるドイツ軍との戦闘で、巡航戦車は速度と引き換えにされた装甲の貧弱さ、歩兵戦車は重火力と引き換えにされた機動力の無さが明らかになった。また、ドイツ軍の重戦車を撃破可能な17ポンド砲はどちらの戦車にも砲塔が狭すぎ搭載できなかったため、巡航戦車と歩兵戦車それぞれの長所を兼ね備えた強力な新型戦車の開発が進められた。その開発は1943年10月にA41重巡航戦車として始まり、イギリス国内での鉄道による輸送やベイリー式工兵架橋での渡河を考慮しつつ最大限の車幅を確保して設計された。これにより大直径の砲塔リングが使用可能となったことで17ポンド砲を搭載し、ドイツ軍のティーガー重戦車と正面から撃ち合える火力と装甲を持った。厚い装甲と火力を備える事を最優先とし、さらに新開発のサスペンションは当時最新のトーションバー式と比べて基本構造は旧式だが、整備・交換性の良さと車体容積の拡大および短停止射撃の際の振動時間短縮の面で総合性能としては同等かそれ以上であり、実用上は何も問題はなかった。原型20輌はミドルセックスのAEC社に1944年に発注され、1945年に最初の6輌(試作3、4、6、8、9、11号車)が完成し、英陸軍に引き渡されたが、最初の戦場になる筈だったベルギーへの輸送中にドイツが降伏したため、本格的な戦闘は経験しなかった。プロトタイプとは別に、一体鋳造構造の新砲塔が戦中に製作されており、此れを車体前面装甲を強化しエンジンをミーティアⅣA、最終減速器のギア比をプロトタイプの6.94から7.47に変更した車体に搭載した車両がA41AセンチュリオンMk.Ⅱ第一号車として採用。そのままの形でヴィッカース・アームストロング社とロイヤル・オードナンスのリーズ工場で製造されることに45年8月に決定した。センチュリオンMk.3からは攻撃力の高い20ポンド砲に換装し射撃を安定させるスタビライザーを搭載した。朝鮮戦争で初めて実戦を経験したMk.3はその高い能力を証明し、同戦争で用いられた戦車の中で最高の評価を得た。設計は堅実で発展の余地があったため、その後もセンチュリオンの改良は休み無く続けられ、やがて20ポンド砲に代わる火力として後に西側第二世代戦車の標準装備となるL7 105mm ライフル砲を搭載した。イギリスではチーフテンが配備されるまでの20年間、Mk.13まで改修を重ねて主力戦車の重責を果たした。さらに各国で独自の改修型、派生型が開発され、南アフリカのオリファントのように外見上はもはや別物化したものまで存在する。インドは、印パ戦争でセンチュリオンを投入し、パキスタン軍のM47およびM48パットンと交戦し、待ち伏せ攻撃により圧勝した。また、オーストラリアはベトナム戦争の派遣軍に参加する際にセンチュリオン Mk5/1を投入したが、戦車戦は発生しなかった。同軍の車輌は夜襲に備え砲塔前面に大型のサーチライトを装備し、また、工具箱や砲塔後部のバケット、車体前面に付けた予備転輪などをスペースドアーマー代わりにすることで、RPGの攻撃にも良く耐えたという。また、南アフリカもナミビア経由でのアンゴラへの侵攻()にセンチュリオンを投入し、アンゴラ軍のT-54/55やT-62と交戦している。同国では人種別隔離政策(アパルトヘイト)を行っていたため、先進国から禁輸措置が行われ、最新兵器が輸入できない状態であった。1976年よりセンチュリオンの近代化改良型の開発計画が始まり、同年、最初の試作車が完成し、翌年1977年には2両目の試作車が完成、1978年に3両目の試作車が完成し、最終段階でオリファント Mk.1戦車として南アフリカ陸軍の制式装備として採用された。1985年からアンゴラでの戦闘に改良改造型のオリファント Mk 1Aが投入された。1991年以降に開発されたオリファント Mk 1Bに旧型車が順次改造されており、これにより南アフリカ陸軍の主力戦車のスペックを飛躍的に向上させた。オリファント戦車がこうした多期に渡る大掛かりな改修・改造を成しえたのは、ベースとなったセンチュリオン戦車が元々頑丈な設計で車体規模にも余裕があったためである。センチュリオンは、朝鮮戦争での活躍から世界各国で主力戦車として導入されたが、中でもイスラエルに導入されたセンチュリオンは改良を加えられ、幾度かの戦役に参加し活躍した。イスラエルは、イギリスとチーフテン改良型の共同開発の契約を結び、その契約の一部として同国で余剰化していたセンチュリオン Mk.3を導入、その後もイギリスやオランダの車両更新に伴う余剰センチュリオンを大量に購入した。期待を受けイスラエルに導入されたセンチュリオンではあったが、元来ヨーロッパでの運用を前提として設計されていたために熱波と細かな砂塵にさらされる中東で各種のトラブルが頻発し、当初の搭乗員の評価は散々なものであった。しかし、その後の主砲やエンジン、トランスミッションなどの換装により第三次中東戦争(六日間戦争)や第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)でアメリカ製のM48パットン/M60パットン(マガフ)と共にアラブ連合側のソ連製T-55やT-62と激戦を繰り広げ、特にシリア機甲部隊と激突した涙の谷の戦闘では、戦場が破壊された戦車の墓場となった。その後、主力戦車の座はメルカバに譲ったものの、対戦車ミサイル対策としてリアクティブアーマーを装着してレバノン内戦などにも投入された。現在は戦車としては退役したものの、その地雷などへの対抗性を買われて、ナグマショットやプーマなどの装甲兵員輸送車や歩兵戦闘車、戦闘工兵車に改造され使用されている。センチュリオンの改良により得られたノウハウはメルカバの開発に大いに生かされており、特に旧式ではあるが交換が簡単で車内容積を広くできるホルストマン・サスペンションなど、走行装置の構成はセンチュリオンに酷似している。
出典:wikipedia
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