山本 鼎(やまもと かなえ、1882年(明治15年)10月24日 - 1946年(昭和21年)10月8日) は、愛知県岡崎市出身で、長野県上田市に移住し、美術の大衆化、民衆芸術運動のなかに身を投じた版画家、洋画家、教育者である。長男は詩人の山本太郎。画家で詩人の村山槐多は従弟。山本鼎は1882年(明治15年)10月24日、愛知県額田郡岡崎町(現在の岡崎市)に父一郎、母たけの長男として生まれた。間もなく、漢方医の父が医師資格取得に必要な西洋医学を学ぶため上京、一家は東京浅草区山谷町に移住した。小学校を卒業した鼎は、浜松町の木版工房で桜井虎吉の住込み徒弟となり、版画職人として自立する道を歩み始める。鼎16歳のとき、父が長野県小県郡神川村大屋(現上田市)に医院を開業、一家は移住、鼎にとって上田は第二の故郷となった。木版工房で9年間の年季奉公を終えた鼎は、他人の下絵を彫るだけの職人に満足できず、1901年(明治34年)、東京美術学校西洋画科選科予科に入学した。在学中の1904年(明治37年)、与謝野鉄幹主宰の雑誌『明星』に刀画「漁夫」を発表、海辺の人々の生活感を滲ませたこの作品のリアリズムは、複製技術を主体とする、従来の版画にない新鮮さを示し、新進気鋭の版画家として注目された。それは、絵師、彫師、摺師の三者を一人で行う画期的な創作版画であった。1906年(明治39年)に東京美術学校西洋画科を卒業した。1907年(明治40年)、鼎は創作版画を奨励し、若い美術家や作家たちの創作拠点とすることを目的として石井柏亭、森田恒友と美術文芸雑誌『方寸』を創刊。資金難の中、雑誌の発行は困難を極めたが、1911年(明治44年)の終刊までに35冊を発行、美術・文芸の分野に独特の地歩を築きあげた。同1911年(明治44年)、自ら東京版画倶楽部を開設し、そこからの刊行となった「草画舞台姿」というシリーズは、坂本繁二郎との共作で、従来の浮世絵版画の形式を追った作品であった。鼎は同誌に木版、石版、ジンク版などによる作品60点のほか、俳句、詩、評論、随筆などを発表している。卒業後、鼎は雑誌にさし絵や文章などを書き活躍を始めた。1908年(明治41年)12月、鼎は『方寸』を母体として、発起人の一人として「パンの会」を発足させた。石井柏亭、森田恒友、倉田白羊などの『方寸』同人と、北原白秋、木下杢太郎らがメンバーであった。明治43年3月下旬から「上田朝日新聞」に、スケッチと文章による葉書通信『尋常茶飯録』の連載を始めた。北原白秋との親密な文学的交遊をうかがわせるエピソードとして興味深い。1912年(明治45年)7月、鼎は石井柏亭の妹、光子との結婚を石井家から拒絶されたことが発端で、パリへ旅立った。木版画を製作し、絵を描き、エコール・ド・ボザール(美術学校)のエッチング科へも通うが、貧困の生活が続き、モデルのフランス女性が、あまりの寒さにストーブを焚いてくれと言っても、石炭を買う金が無く、手のひらでその肌を時々暖めてやりながら絵を描くこともあったというエピソードが残っている。一方滞仏中、島崎藤村との親しい交友関係ができ、藤村の『新生』に登場する画家・岡は山本鼎をモデルにしている。後に鼎は、フランスで得たものは、「リアリズム」であったといっている。1916年(大正5年)6月、鼎はロシア経由で帰国の途につく。モスクワでは領事館の世話になり、帰国の旅費を得るため六カ月ほど滞在するが、この間、農民美術蒐集館を訪れ、児童創造展覧会も鑑賞した。モスクワ滞在中、北原白秋と懇意な青年と会い、白秋の妹、家子との縁談を紹介され、帰国した翌年(大正6年)二人は結婚する。1918年(大正7年)には、戸張孤雁らと日本創作版画協会を設立。日本画、洋画と並ぶべき版画の独自性を主張するなど今日の創作版画の隆盛をもたらすことに貢献した。(「版画」という語は鼎の造語であるといわれている。「平凡社、世界大百科事典」)また同年、小県郡神川小学校で「児童自由画の奨励」の講演を行ったことを契機に、子供に自由に描かせる自由画運動を推進することになった。1919年(大正8年)には、農民美術練習所を開講し、終生農民美術振興に献身することになった。また、鼎は描きやすい画材の研究をかさね、クレパスを考案したことでも知られている。山本の郷里の知り合いが星野温泉の支配人をしていたことから、帰国後の第一作「温泉道」を軽井沢で描いて発表したところ、富岡製糸場の所長から申し出があり、軽井沢のアトリエを進呈された。所長は、偶然軽井沢で画作に励む山本を目撃し、その真摯な姿勢に感激したゆえの好意だったという、鼎は、フランスへ渡った当時、借金生活を送ったが、その後も農民美術の事業などで莫大な負債をかかえ生活は苦しかった。晩年は脳溢血で倒れ、療養生活を送った。1946年(昭和21年)10月8日、腸捻転を病み、手術後死去。享年65。墓所は江戸川区一之江の国柱会墓所。鼎の自由画教育運動と農民美術運動は、1916年(大正5年)フランスからの留学の帰途、ロシアで見た児童画と農民工芸に注目、さらにトルストイが始めた農民学校の話に感激して、日本においても実行しようと始めたものであった。旧来の手本を模写させるだけの美術教育を批判、子供に自由に描かせる必要性を説いた自由画運動と、農閑期に工芸品を作り、副収入を得ると同時に、美術的な仕事を通して、農民の文化と思想を高めようとする農民美術の運動によって、鼎は大正デモクラシーの先駆者の一人として位置づけられている。児童画の教育を改革しなければならないと考えた鼎は1918年(大正7年)、日本創作版画協会を設立、会長となり、自由画教育運動を展開した。この運動は全国的に教育現場で迎えられた。長野県では当時盛り上がっていた自由教育・個性教育思潮もあり、自由画教育運動は急速に普及した。1919年(大正8年)4月、長野県小県郡神川小学校で開かれた第1回児童自由画展覧会には長野県下から1万点弱の作品が寄せられ、7千人を超える児童が鑑賞した。1920年(大正9年)、「自由画教育の要点」を中央公論8月号に発表。同年12月26日、北原白秋らと日本自由教育協会を結成。第一次世界大戦後の疲弊した農家の生活を安定させるため、農閑期を有効に生かすことによって農民の生活に生き甲斐と誇りを持たせるために計画されたのが、農民芸術運動である。1919年(大正8年)12月、神川小学校の教室を借用して農民美術練習所が開所し、練習所の作品は三越で展示即場会で出品され好評を博した。農民美術練習所は翌年は、鼎とともにこの運動に携わった金井正の蚕室に移り、1000円ほどの建築費で小さな青い屋根の工房を完成させた。1923年(大正12年)には日本農民美術研究所が新築され、本格的に講習が行われるようになった。また、農民美術生産組合が組織されるなど、その運動は着々と成果をあげながら、昭和の初期には長野県各地のほかに、東京、岐阜、京都、千葉、神奈川、埼玉、福岡、熊本、鹿児島などでも作品が生産されるようになった。現在も全国各地に物産品として民芸品が作られているが、これらのかなりの部分がこの農民美術運動に影響を受けたものである。日本農民美術研究所に学んだ人たちの間で、1950年代後半から鼎を顕彰した記念館の建設の機運が起こり、広範な運動に発展、長野県内小中高生や教職員、美術家や篤志家、団体などから寄付があった。鼎と親交のあった有島生馬、石井鶴三らからは資金の一部にと作品が寄贈された。長野県からの補助金もあって、1962年(昭和37年)、上田市の上田公園内に完成、市に寄贈された。個人の記念館としては、大規模のものである。およそ半世紀にわたって顕彰事業と美術館活動を継続したが、2014年(平成26年)10月2日に開館した上田市立美術館に統合され、同年9月末日をもって閉館した。同年、上田市立美術館では開館を記念する鼎の特別展が開かれ、作品と関連資料が公開される。記念館の建物は隣接する上田市立博物館の別館として整備され、2016年(平成28年)1月4日にに再開館した。山本鼎の業績を記念して、1999年(平成11年)に第1回山本鼎版画大賞展が開催され、ビエンナーレとして3年に1度開催されている。山本鼎記念館(上田市)主催。
出典:wikipedia
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