頸城鉄道線(くびきてつどうせん)は、かつて頸城鉄道自動車(現・頸城自動車)が運営していた、新潟県直江津市の新黒井駅と東頸城郡浦川原村(いずれも現上越市)の浦川原駅を結んでいた軽便鉄道路線。地元の利用者や鉄道ファンの間では「○」の中にアルファベットの「K」があしらわれた社紋にちなんで「まるけい」と呼ばれていた。1971年に全面廃止された。線内で使用されていた2号蒸気機関車は「コッペル」の愛称で親しまれ、1966年5月に引退後、1972年5月から5年間、西武鉄道山口線で余生を過ごし、現在は同市頸城区百間町に保存されている。また廃線後、線路敷の一部には北越急行ほくほく線の建設用地になった箇所もある(うらがわら駅)。日本有数の豪雪地帯を走るため、雪対策が施された軽便鉄道でもあった。とはいえ軽便規格で豪雪に立ち向かうのは苦労を要し、開業後23年で終日運転不能の日だけで125日あり、全休日のない年はこの間のうち6年しかなかった。しかし同じく頸城鉄道が展開したバス事業はさらに深刻であり、1933年の記録では浦川原 - 高田間の全休日は116日に達したほどだった。結果的には、このバス事業の雪対策の遅れこそが、軽便鉄道が生き延びた最大の理由であった。なお、1968年(昭和43年)10月1日の部分廃止によって国鉄線との連絡がなくなった後、『交通公社の時刻表』(現『JTB時刻表』JTB発行)や『ダイヤエース時刻表』(現『JR時刻表』交通新聞社発行)をはじめとする全国版時刻表から当路線の路線図・時刻・運賃が一切掲載されなくなった。それから廃止までの約2年半の間は、時刻表の上では「幻の鉄道」と化していた。浦川原駅から先安塚村への延伸計画が存在したが1915年に免許が失効した。新黒井駅(しんくろい) - 北四ツ屋駅(きたよつや) - 百間町駅(ひゃくけんまち) - 鵜之木駅(うのき) - 明治村駅(めいじむら) - 花ヶ崎駅(はながさき) - 大池駅(おおいけ) - 飯室駅(いいむろ) - 下保倉駅(しもほくら) - 浦川原駅(うらがわら)最多時4両が在籍。全車木造車で、当初すべてガソリン動車。後年、ホジ3のみディーゼル動車に改造された。最初に導入されたのは定員20名の単端式気動車で1926年・1927年に各1両ずつが丸山車輛で製造。車体のみならず台枠も一部を木造とする。当初重量はいずれも2.07tを公称したが、丸山では類似車で寸法・定員の異なる他社向け車も一律2.07tを公称したため、実態とは異なる可能性が高い。エンジンは当初、丸山が多用したフォード・モデルT用2.9L4気筒(18HP/1,000rpm、20HP/1,500rpm)を専用2速変速機ともども搭載、プロペラシャフトとウォームギアを介して後軸を駆動した。鉄道省監督局が1928年に実施したガソリン動車運行私鉄へのアンケートで、頸城鉄道は「現在使用する車両は輸送量の少ない路線には問題ないが、国鉄線に接続し連絡客の多い路線には不適当ではないか」という趣旨の回答を行っており、小型車では輸送力不足であった様子がうかがわれる(後年のホジ3・4製作の動機とみられる)。1935年11月4日認可でエンジンを中古のシボレー1928年型用2.8L4気筒(18.4HP/1,000rpm、22HP/2,200rpm)に換装(フォードT専用の足踏み2段変速機はこの時点で手動3速式に変更必須となる)。その後、1942年7月30日認可で再度エンジンをフォードA型3.3L4気筒(30HP/1,300rpm)に換装、同時に浅川式ガス代燃炉付の木炭車となり(このため実出力はガソリン燃料の本来より低下)、車体左側出入口の拡幅を実施。実際の改造は同時期の多くの私鉄同様、認可に先行していたと推定される。戦後はガソリンカーに復元された。丸山製単端車は構造脆弱で1930年代末期までに廃車された例が多かった中、頸城の2両は九十九里鉄道キハ102-104(1926年製)と並んで改装を重ね長寿を保ち、戦後は予備車化したが昭和30年代まで運用された。単端式車の輸送力不足から、より輸送力のある大型気動車を製作することになり、既存の畳敷き特別客車ホトク1がほとんど稼働せずに余剰化していたため、これを自社百聞町工場で改造し両運転台ガソリンカーのホジ3とした。両端オープンデッキを残しロングシート客室化したが、車体に大きく手を加えるのを避けるため、デッキ外妻のガラス窓に加え進行方向右側の内妻にもガラス窓を設け、客室内に置いた運転台から二重のデッキ窓と貫通路を通して前方を視認するという、ほとんど他例のないレイアウトを採用した。客車時代そのままにトラス棒も存置された。頸城鉄道はこの改造を1931年9月に鉄道省に設計申請したが、提出書類内容がずさんで大量の不備指摘を喰らい、1932年3月17日にもなって引換申請するという事態に至った。最後は鉄道省側が「(頸城鉄道に)繰り返し照会・督促したが、満足な書類が得られなかった。つまるところ会社にまともな技術者がいないようである」という趣旨のあきれ気味な文面を記し、後日監査の機会に指摘するという当座の目こぼし的処断で、昭和6年度内ぎりぎりの1932年3月28日に設計変更認可が下りた。ホジ3の成績を受けて1936年にホハ3の改造でホジ4を増備。機構や特異なデッキ内側運転台はホジ3を踏襲している。これらボギーガソリンカー2両は輸送力の大きさで主力となった。戦後、ホジ4は客車に復元されたが、ホジ3はディーゼル化・デッキ廃止及び客室延長・運転台の旧デッキ部への移設及び乗務員扉の設置・車体中央に乗降口を新設などの大改造を受けつつ、1971年の鉄道廃止まで気動車として運用された。現在、頸城鉄道で使用された一部の車両が保存されている(ここでは公にされている車両のみ掲載)。なお1971年の頸城鉄道廃止後に、数両の車輌を熱心な鉄道愛好者が譲り受け、兵庫県内の山中に長年保管していた。2004年にその存在が明らかにされ、大きな反響を呼んだ。現車は新潟県に里帰りし、くびき野レールパークに保存されている。※通常は非公開。年に数日設定される定期公開日以外、機関庫への立入や車両の見学はできない。また、2010年より定期公開時に乗車体験イベントを開催しており、係員が添乗しているホジ3やハ6などに乗車して構内を往復できる。なお、このイベントには新潟県内外で活動している愛好家らも協力しており、今後もさらなる動態化へ向けた活動が進められていくようである。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。