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8時だョ!全員集合の歴史

8時だョ!全員集合の歴史(はちじだよ!ぜんいんしゅうごうのれきし)では、TBS系列で放送されたバラエティ番組『8時だョ!全員集合』の歴史について触れる。TBS系土曜20時枠はそれまで『逃亡者』などのドラマを放送していたが、やがて裏番組『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ)の影響で視聴率が低迷し『全員集合』開始前は3 - 5%にまで落ち込んでいた。そこで、この枠で視聴率の取れる番組を制作すべく、前枠番組『お笑い頭の体操』を成功させていたTBSプロデューサー・居作昌果に白羽の矢が立った。居作は新番組制作に専念するため、『お笑い頭の体操』のプロデューサーを降りようとしたが、これに『お笑い頭の体操』のスポンサーだったロート製薬が猛抗議。ロート製薬は「居作を『お笑い頭の体操』の専属にしてほしい」「他番組との掛け持ちは認めない」という姿勢だったが、居作の意志は固く、最終的にはロート製薬側が折れて同社としては異例だった「番組掛け持ち」を容認させることとなった。居作は企画作成の際に、まず裏番組に出演するコント55号の事を考えた。コント55号の持ち味であるスピード感と即興力に対抗するには、「時間をかけて練りに練り上げた笑い」しかないと考え、レギュラー出演者にザ・ドリフターズの起用を決めた。ドリフを起用したのは、「リーダーのいかりや長介は(アドリブに長けたコント55号に比べて)不器用で口下手だが、ギャグを考えるのが大好き」だったからだという。ところが、当時のTBS社内でのドリフの評価は低く、編成から反対の声が多数上がった。その中には「クレージーキャッツを起用すべきだ」という意見があり、ドリフとクレージーの所属事務所・渡辺プロダクションからも「そういう番組であればクレージーの方が向いているのでは?」と言われた。しかし、当時のクレージーはグループとしての活動をほとんど行っておらず、居作は「(クレージーでは)メンバーそれぞれのスケジュールの調整つかなくなる」としてドリフ起用の姿勢を曲げなかった。その後、「ドリフがジャズ喫茶時代から客前でネタをやるのに慣れている」「会場にいる観客を笑わせられなくて、視聴者を笑わせられるはずがない」として収録を劇場・ホールでの公開形式とすること、「視聴者に『番組が今、実際に行われている』という臨場感を持ってほしい」「出演者にNGが効かない緊張感を味わってほしい」という理由から生放送で行うことをそれぞれ決定、「ドリフをメインとする生放送の公開バラエティ番組」という骨組みを作り上げていった。そして居作は、赤坂のTBSに程近い寿司屋にドリフの面々を呼び、顔合わせを兼ねて会食を行うことになった。その席上でいかりやが「今のコント55号は日の出の勢い。その裏でいくら頑張っても勝ち目はないんじゃないの?」と、新番組に対して消極的な発言をすると、居作は「確かに55号とドリフじゃ、今は月とスッポンかもしれない。だけどスッポンが月に勝てないと決まってるわけじゃない」と返した。これを受けたいかりやは驚き、「この男をギャフンと言わせてやろう」と新番組のオファーを受諾。こうして番組開始が決定した。番組タイトルの『8時だョ!全員集合』は、スポンサーを交えての企画説明会議で、スポンサーのライオン油脂(現・ライオン)の広告部長が、「8時になったら、テレビの前にみんな集まるような番組を作って欲しい」と発言し、それを聞いた居作がその場で思い付いたものである。1969年10月4日、番組はスタートを切った。この年の10月はドリフが新宿コマ劇場で公演を行っていたことから、初回から10月25日放送分までの4回分は、9月に事前録画となった。開始当初はドリフによるコントだけでなく、作曲家の山本直純を起用しての音楽コーナーやゲストを招いてのトークコーナー、巨大滑り台セットを使用してのクイズコーナー「ドリフでドボン」があった。こうして10月に放送された4回分の平均視聴率は約14%で、これまでの番組と比べればまずまずの結果を収めた。しかし、VTRをチェックしていく中でドリフが苦手としているコーナーが多かったことがわかり、コント以外のコーナーを年内一杯で廃止。特に「ドリフでドボン」のセットに使われた巨大滑り台は制作費が高く、3ヶ月で終わらせることにTBS社内から顰蹙を買ったという。視聴率は悪くなく、観客からの受けも良かったものの、裏番組の『コント55号の世界は笑う』は依然として視聴率が高く、居作はその打開策を考えていた。その中で「視聴率に繋がらないのは、チャンネル選びの習慣性によるものだ」という意見を聞く。そこで居作は、視聴率が習慣によるものなのか、あるいは番組が非力なのかを実験すべく、当時のTBSの人気番組の出演者をゲストに呼び、コントに参加させることを思いつく。その手始めとして、1970年1月24日に『サインはV』のメンバー(岡田可愛、中山麻理、范文雀、岸ユキなど)がゲスト出演。するとこの回の視聴率は一気に27%に上昇。さらに、翌1月31日に『柔道一直線』の主演・桜木健一を、その翌々週2月14日は『キイハンター』から丹波哲郎、野際陽子らをゲストに招いた。しかしこの中の空いた1週(2月7日)、つまり人気番組のゲストのいない回こそが居作の狙い目であり、この回の視聴率が良ければ視聴者が視聴習慣を変えたことになり、逆に悪ければ失敗と踏んでいた。結果、視聴率は25%を記録し実験は成功。こうして当番組は「お化け番組」と呼ばれるまでの人気を獲得していくことになった。この番組については、本質的には舞台コントとして入念に練り込まれた笑いこそが最大の売りであり、アドリブや出演者に起きるアクシデントの演出で笑いを取る事は一貫して是としなかった。ただし、16年間という長期間に渡り生放送・公開放送で続けられた番組であったため、コントやコント以外でも、放送中のトラブル・アクシデントや出演者を巡る出来事は数多く発生している。本項ではこれらについて記述する。このほか、過激な内容のコントにPTAが問題視して番組に抗議する事態が度々発生した。上記の火事騒動、停電騒動、仲本と志村の謹慎は三大事件と呼ばれている。またDVD『TBSテレビ放送50周年記念盤 8時だョ!全員集合 2005』の特典映像として火事騒動・停電騒動・1983年6月の「民宿コント」でのハプニング時のハイライト映像が収録されている。

出典:wikipedia

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