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船木誠勝

船木 誠勝(ふなき まさかつ、1969年3月13日 - )は、日本の男性プロレスラー、総合格闘家、俳優。本名・旧リングネーム:船木 優治(ふなき まさはる)。若手時代は本名でリングに上がっていた。再婚しており、現在の妻は元舞台女優・喜山いづみ。完全実力主義を標榜するプロレス団体であるパンクラスを設立し、自らエースとして第一線で活躍した(後にパンクラスは総合格闘技に転向)。2000年に引退後、芸能活動などを経て2007年に総合格闘家として復帰。2009年からはプロレスラーとして活動している。1984年3月、弘前大学教育学部附属中学校を卒業し、高校入学の前日に一度不合格であった新日本プロレスに入団。同期は武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋、野上彰(現AKIRA)。1985年3月3日、後藤達俊戦で当時史上最年少の15歳11か月でデビュー(現在の最年少記録は中嶋勝彦の15歳9か月)。1985年、ヤングライオン杯に出場。1986年、ヤングライオン杯に出場。1987年、ヤングライオン杯に出場。1989年、前田日明、藤原喜明の誘いに応じヨーロッパ遠征中に第2次UWFに入団。1990年12月、UWFを離脱して、鈴木みのるらとプロフェッショナルレスリング藤原組の旗揚げに参加。1992年4月19日、東京体育館での藤原組の旗揚げ一周年記念興行でロベルト・デュランと異種格闘技戦を行い、3ラウンド腕固めで勝利。1992年12月、格闘技的な路線を志向し、藤原組を離脱。藤原組離脱後は、どの団体にも所属せず、鈴木みのる、高橋義生らとともに練習を重ねた。1993年9月21日、パンクラスを旗揚げ。船木はケン・シャムロックと対戦し、肩固めで一本負け。1996年9月7日、第3代キング・オブ・パンクラシスト・バス・ルッテンに挑戦するも、KO負け。1996年12月15日、新王者決定トーナメントで近藤有己、ジェイソン・デルーシアを破り、第4代キング・オブ・パンクラシストとなった。1997年4月27日、近藤有己に腕ひしぎ十字固めで敗北して、王座から陥落。1997年12月20日、近藤有己にアームロックで勝利して、王座を奪取。1999年3月1日、長谷川悟史が道場近くのマンションから転落し、骨折に基づく外傷性出血ショックで死去。転落の状況が不自然だとして団体責任者である尾崎社長と船木は事情聴取を受けた。Show大谷泰顕のインタビュー記事によると、当時船木は現場にはおらず、第一報は車の運転中に携帯電話への連絡により知った。2000年5月26日、「コロシアム2000」でヒクソン・グレイシーと対戦し、パンチによりヒクソンの左眼窩底を骨折させるも、チョークスリーパーで失神負け。試合後に「格闘技は勝負は1回だけなので、失神したら終わりですから。潔く足を洗う決心をしました」と引退を表明。2000年12月4日、地元青森県で「船木誠勝 引退記念興行」を開催し、全試合終了後に引退セレモニーが開催。藤原喜明、佐山聡、藤波辰爾、山本小鉄、獣神サンダー・ライガー、夢枕獏らがリングに駆けつけ、最後は船木の胴上げが行われた。引退後もパンクラスの運営や方向性の面で寄与した他、俳優業、HERO'S等の格闘技番組のコメンテーター等で活動。なお、建設現場で働いた経験もある。2005年9月、前田日明がスーパーバイザーを務めるプロレス団体「ビッグマウス・ラウド」の旗揚げ戦で、リング上から挨拶、全面協力を宣言した。2006年2月26日、ビッグマウス・ラウドの旗揚げ記念大会・徳島興行でビッグマウス・ラウドを脱退。2007年3月、柴田勝頼らと「チームARMS」を結成して総合格闘技のできるプロレスラーにするためにコーチしていた。2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!で現役に復帰。メインイベントで桜庭和志と対戦したが、チキンウィングアームロックで一本負け。2008年4月29日、DREAM.2のミドル級グランプリ1回戦で田村潔司と対戦しTKO負け。2008年9月23日、DREAM.6でかつての弟子ミノワマンと対戦し、踵固めで現役復帰後、初勝利を収めた。2009年8月30日、全日本プロレスの両国大会でプロレスに復帰。メインイベントで武藤とタッグを組み、蝶野正洋、鈴木みのる組と対戦。8月31日に全日本プロレスと1年契約を締結。2009年9月26日、みのるとシングルで対戦し、みのるのレフェリー暴行により反則勝ち。2010年1月3日、武藤と組んで世界タッグ王座を奪取。2010年3月21日、両国大会で「金網マッチ」で鈴木みのると再戦し、KO勝利。2010年4月、チャンピオン・カーニバルに初出場(準優勝)。2010年8月30日、全日本プロレスに正式に所属。2012年1月4日、新日本プロレス東京ドーム大会に出場。24年ぶりに参戦した新日本プロレスで、河野真幸と組んで、永田裕志、井上亘組と対戦したが、試合中に永田の膝蹴りを顔面に喰らい、左頬骨を骨折。治療の為に半年間の長期欠場を余儀なくされた。2012年6月17日、後楽園ホール大会で復帰。2012年6月29日、全日本プロレスのオフィシャルサイトで新技「変型ツームストンパイルドライバー」の名称が、公募によって「ハイブリッド・ブラスター」に決定したことが発表された。関節技とドライバー技を組み合わせたこと(ハイブリッド=異質のものを組み合わせ一つの目的を成すもの)、及び船木が「ハイブリッドレスラー」と呼ばれていた事により、船木自身が選考した。2012年7月29日、後楽園ホール大会で永田とシングルで対戦し、勝利。2012年8月26日、三冠ヘビー級選手権試合で王者・秋山準を破り、三冠王座を奪取。2013年1月26日、大田区総合体育館大会において、4度目の三冠防衛戦で曙太郎に勝利した。2013年6月30日、両国国技館大会を最後に全日本プロレスを退団。2013年7月10日、WRESTLE-1に所属。2014年7月6日、佐藤耕平を破り、ZERO1の世界ヘビー級王座を戴冠した。2015年6月30日、契約満了につきWRESTLE-1を退団。2015年11月1日、2年4ヶ月ぶりに全日本プロレス弘前大会に参戦し、ケンドー・カシンとタッグを組み諏訪魔&佐藤光留と対戦。自身がハイブリッド・ブラスターにより佐藤から勝利。12月27日、DRAGON GATEに参戦。ストーカー市川を相手に対戦し市川がハイブリッド・ブラスターの恐怖に負けたと思いセコンドがタオル投入をして勝利。新生UWFに参加したことと、新日本時代に骨法修行に励んだ関係から、切れ味鋭い打撃と関節技を中心に試合を組み立てる。パンクラス旗揚げ期以降はグラウンド技に更に磨きをかけた、プロレス回帰後は、総合格闘技参戦時に会得した技術を用いつつ、プロレス「らしい」技も織り交ぜて試合を組み立てている。その他、プロレス回帰後に、プランチャや、トペ・スイシーダにトライしているが、いずれも未遂に終わることが多い(飛ぶと見せかけたフェイントによる心理戦という見方もある)。

出典:wikipedia

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