都をどり(みやこをどり)は、毎年4月1日 - 30日にかけて、京都の祇園甲部歌舞練場で開催される祇園甲部の舞踊公演。1872年(明治5年)、京都で初めて博覧会が開催されたとき、その余興として万亭の杉浦治郎右衛門と井上流家元の井上八千代(三世 片山春子)が企画したのがはじめである。時の京都府知事、槇村正直が作詞を、当時新進であった井上流家元、井上八千代(三世 片山春子)が伊勢古市の亀の子踊り(伊勢音頭の総踊り)を参考に振付を担当し舞台まで両側の花道が設え、今までの舞台とは一味違う革新的で、花道からおそろいの衣装を着けた踊り子たちが登場して観客を驚かせた。以来、歌舞伎や源氏物語などを題材にして、明治以来のスタイルを踏襲しながらその年の干支や話題にちなみ、新たなる志向で上演され続けている。都をどりは原則として、総踊形式で一貫し、京都の名所などを長唄などで紹介しながら踊り、明治以来その形式で踏襲されている。最初の場面は井上流の故事にちなみ銀襖を張り詰められた舞台から始まる。大正天皇即位記念公演から『別踊』(べつおどり)という中挿みの場面が加わり、さらに内容も増し、主に歌舞伎や文学、逸話などを取り入れ10分間で踊りながら物語の内容を説明をする。毎年、都をどりの作家らがマンネリを恐れ、それに悩ませながら製作し、振り付け、音楽、美術などの打ち合わせを重ねて、来年の春までに準備を続けている。上演前、祇園甲部歌舞練場の2階でお茶席が設けられる。一日交替制で点茶をする芸妓は京風の島田髷を地毛で結い、衿を裏返す黒紋付の正装姿で登場する。控えは舞妓が担当をする。時代によっては舞妓、当時甲部にいた太夫が点茶を担当したり、複数の芸妓が時間によって交替することがあった。また現在、控えの舞妓は一人だが、控えの舞妓が二人であった時代もあった。点茶の形式は従来の形式ではなく「立礼式」というスタイルでこれは外国人を接待する為に裏千家により考案されたもので、最初は屋外で設置されていた。歌舞練場が完成するとそこに移し現在に至る。「都をどり」と日本映画の関係は古く、その歴史は活動写真時代にさかのぼる。松竹映画の基礎を築いた名所長・名監督である野村芳亭は、祇園都をどり初期の舞台背景に携わった画家だった。片岡千恵蔵プロダクションの美術で働いた平松智恵吉、日活で美術を担当した角井嘉一郎も、かつては都をどりの背景を描いた人たちだった。
出典:wikipedia
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