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渡党

渡党(わたりとう)は、日本の中世、北海道渡島半島を中心とする地域に住んでいた集団に対する呼称である。延文元年(1356年)に書かれた『諏訪大明神絵詞』によると、「蝦夷カ千島」には日の本、唐子、渡党の三種が住んでおり、このうち渡党は髭が濃く多毛であるが和人に似て言葉が通じ、本州の津軽や外が浜に往来し交易に従事したとされる。当時の蝦夷(えぞ)については、中央政権から見て辺境に住む辺民を指したものであるとする説も有力ではあるが、アイヌを指すとする意見が主流である。そのアイヌ文化は、前代の擦文文化を継承しつつオホーツク文化と融合し、和人の文化を摂取して生まれたと考えられている。その成立時期は13世紀ころと見られており、また擦文文化とアイヌ文化の生活体系の最も大きな違いは、本州からの移入品(特に鉄製品)の量的増大にあり、アイヌ文化は交易に大きく依存していたことから、アイヌ文化を生んだ契機に本州との交渉の増大があると考えられている。擦文時代の渡島半島には、擦文文化と本州土師器文化の間に生じたクレオール的文化である青苗文化が成立していたことから、渡党は、この文化を足がかりとして本州より移住し、本州とアイヌとの交渉に携わったと考えられている。一般的には蝦夷地南部に居住していたとされているが、その活動範囲は北は胆振勇払の鵡川から後志の余市、南は下北半島、津軽半島一帯に及んでいたと考えられている。彼らは、鎌倉幕府北条氏より蝦夷管領(または蝦夷代官)に任ぜられた豪族である安藤氏(安東氏)の支配下に置かれ、上述したとおり蝦夷と見なされていた。安藤氏は、配下の武将を道南十二館に配置していたと伝えられている。康正2年(1456年)安藤氏の後裔とされる安東政季は、茂別館館主の安東家政(下国守護)、大館館主の下国定季(松前守護)、花沢館館主の蠣崎季繁(上国守護)の3名を「守護」に任じ他の館主を統率させたが、翌長禄元年(1457年)のコシャマインの戦いや永正9年(1512年)のショヤ・コウジの戦いを通じ蠣崎氏が勢力を拡大、永正11年(1514年)以降、蠣崎義広が上国松前両守護職となり(下国守護安東氏は既に15世紀末に蠣崎氏の庇護下にあった)、渡党の他の館主に優越することとなった。文禄元年(1593年)、松前慶広が豊臣秀吉から蝦夷島主として承認され安東氏から名実ともに独立し、続く江戸時代に幕藩体制のもと松前藩として確立するころには、渡党は和人として松前藩士となっていった。北方諸民族は山丹貿易などの交易に携わっていたが、特にアイヌは和人や大陸との交易なしでは生活必需品が確保できない文化を形成しており(鉄製品と漆器、絹織物など)、彼らと和人の仲介役として渡党が活躍した。志苔館跡(函館市)からは、15世紀前半ごろ埋蔵と推定されている甕の中から計40万枚にのぼる主に中国の古銭が発掘されており、これは日本国内で1カ所から発掘された古銭としては最大級の量である。渡党の伝統を受け継ぐ松前藩自体、蝦夷地に藩主自ら交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)を割り当て交易船を送る権利を認めるという形でなされており、武士と商人の兼業のような形態であった。渡党は、松前藩の歴史書『新羅之記録』以来和人が蝦夷地へ渡った一党であるとされ松前氏も和人を名乗った。そのため渡党の祖先についても、日本海沿岸地域や北東北地域からの移住者であるような系図伝承となっている。また、建久2年(1192年)源頼朝が重犯罪人を蝦夷地へ流刑とするように奏上し、実際に以降は強盗などを流刑としている。また、頼朝の奥州藤原氏征討から逃れた藤原氏被官も蝦夷地に渡ったと考えられている。しかしながら奥州藤原氏自体が、当時の朝廷などから夷と呼ばれており、その影響から喜田貞吉ら戦前の研究者は、「和人化したアイヌ=東北地方の蝦夷」が蝦夷地へ渡ったものと唱え、長らく学会の定説となってきた。昭和25年(1950年)、奥州藤原氏のミイラ調査の結果、アイヌの特色は見られず、特に藤原秀衡には当時のアイヌ人に存在しない歯槽膿漏が見られたことから和人であるとの鑑定が出ている。しかし4代に亘って和人と雑婚していれば和人化するとの意見もあり、結論は出ていない。また近年、中世における蝦夷の概念自体を再見直しし、アイヌ文化を受容した本州からの渡航者である渡党を含むとする意見もあり、渡党についての人種的所見はいまだ固まっていないのが現状である。

出典:wikipedia

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