細川 興徳(ほそかわ おきのり)は、常陸谷田部藩の第7代藩主。宝暦9年(1759年)5月2日、第6代藩主・細川興晴の長男として生まれる。天明8年(1788年)12月5日、父の隠居により家督を継ぎ、12月16日に従五位下・長門守に叙位・任官する。藩政においては、寛政6年(1794年)に藩校「弘道館」を創設して学問を奨励している。しかし放漫財政を行なった上、文政元年(1818年)、文政12年(1829年)、天保5年(1834年)に江戸屋敷が焼失し、天保6年(1835年)には能持院が火災を受けるなどの大被害を受け、天保4年(1833年)には年貢減免を求める百姓一揆が起こるなどして藩財政は悪化し、これらの対処による支出などで13万両の借金を抱えたといわれている。このため天保6年(1835年)より、二宮尊徳の尊徳仕法と藩医・中村勧農衛を中心とする藩政改革が行なわれるが、保守派などの反対もあって改革はうまく進まず、その最中の天保8年(1837年)9月16日に死去した。享年79。興昶、興祥、興民と3人の養子が早世・廃嫡などしたため、家督は4人目の養子の興建が継いだ。
出典:wikipedia
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