神威(かもい/かもゐ)は、日本海軍の運送艦(給油艦)、のち水上機母艦。艦名は北海道積丹半島の「神威岬」による。神威はニューヨーク・シップビルジング社で給油艦として建造された。建造は電気推進艦研究のためアメリカに発注された。本艦が戦前最後の海外建造艦となった。「能登呂」が第一次上海事変で活躍したため、急遽本艦も1932年(昭和7年)末から翌年2月にかけて水上機母艦に改装された。改装内容は能登呂とほぼ準じた形であるが、艦形が更に大きいため搭載機数は常用6機、補用6機となっている。また給油艦としての機能もそのまま残されていた。この時は特務艦籍のままだったが、1934年(昭和9年)6月1日に水上機母艦とされた。1933年(昭和8年)末に当時ドイツで実用化されたハイン式マットを装備し、航行しながら水上機を収容できるようにした(従来は艦を停止させて収容)。しかしあまり実用的でなかったらしく、1939年に撤去された。1939年(昭和14年)、飛行艇母艦へ改装、搭載機を降ろす。大戦中は航空隊移動輸送などに従事、終戦時は香港にあり、大破状態であった。戦後、イギリス軍により解体された。艦型は3島型で満載排水量19,550英トン、載貨重量約13,000トンで日本海軍の特務艦としては最大の艦だった。補給用重油は約10,000トン、うち重油約2,500トンに代わり石炭約2000トンも搭載できた。そのため、艦橋と煙突間には4本の支柱の上部を柱でつないだ直方体の形状の載炭装置を設置していた。主発電機としてはメイン・タービンに直結の6,250kw交流発電機を1基搭載、4,000馬力の発動機(モーター)2基をスクリュー軸に直結、速度調節はタービン・ガバナーで行った。また補機や緊急などのために2基の補助タービンにそれぞれギアで連結した400kw直流発電機を2基搭載した。その他に補助発電機として直流発電機にカップリングで直結した625kw交流発電機1基を搭載、これだけで経済速力7ノットが発揮可能だった。実際に使用すると、重量、容積、燃料消費量に利点が無く、建造費も増大するため日本海軍の電気推進艦は本艦1隻のみとなった。上記の通り1932年(昭和7年)7月に水上機母艦へ改造が決定、予算約4,000万円以内とし浦賀船渠で同年末から翌年2月末まで工事が行われた。水上機母艦としては九〇式三号水上偵察機常用6機、補用6機の計12機を搭載する。艦橋前後の上甲板上に3島を結ぶ鋼板製のフラットを設けて格納所甲板とし、前部には翼を広げた状態で2機、畳んだ状態で3機を搭載、後部にも広げて2機、畳んで2機を搭載し、その他船首楼甲板に揚収した後に解体して船艙に3機の計12機が搭載する計画だった。「海軍造船技術概要」によると前部に6機、後部に5機、補用機格納庫に解体して1機の計12機、その他解体して3機という。格納所甲板には木甲板とし、その上に軌道を設けて水上機は運搬車で移動した。その甲板上には航空機運用に支障の無い範囲で天蓋を、その前端には風除けのスクリーンを設けた。計画は木製の予定だったが実際は鉄骨鋼材張りとなった。水上機揚収用のデリックについて前部は、前部マストを前方に移動し、その右舷側にデリックポストを新設して前部マストと結合して強化し、長さ約56フィート(約17m)の力量5トンの水平デリックを設ける。後部は中央のキングポストのうち1本を補強してデリックポストとし、長さ約46フィート(約14m)の力量3.5トンの水平デリックを装備した。射出機は両舷にそれぞれ呉式二号三型を1基ずつ装備する計画があったが、当時の軍縮条約の制限で装備されなかった。航空機燃料は中甲板の3番サンマータンクを60噸の軽質油タンクとし、1番サンマータンク内に3000缶が入る軽質油庫を設けた。また30kg爆弾約300個を搭載可能とし、必要に応じて500kg爆弾約100個も搭載出来る設備とする計画だった。母艦として必要な通信施設や工作設備、工場などを新設、発動機格納所も設けた。その他前部天蓋の前端に仮艦橋を設けた。乗員は士官約11名、特務士官・准士官約8名、下士官約50名、兵約90名が増加する予定で、上甲板と格納庫甲板の間に兵員居住区を設けるなどした。給油設備などはサンマータンク以外はほぼそのままとし、必要ならば給油艦としても使用できる計画だった。兵装は改造完成時、煙突の両側に砲台を設け8cm高角砲を1基ずつ装備した。1937年(昭和12年)の写真では毘式12mm単装機銃が天蓋上に装備されており、1938年(昭和13年)の出撃時には前後の砲台にも12mm機銃が装備されている。福井静夫が戦後まとめた資料によると水上機母艦時は8cm高角砲4門、12mm機銃7挺となっている。航行中でも水上機を揚収できる装置としてハイン式マットが1933年(昭和8年)にドイツから輸入、本艦に装備された。これは艦尾に装備した大型リールに長さ約30mの帆布幕(着水幕)が巻いてあり、揚収時には艦尾に流して展張させ、水上機が幕に乗ったらウィンチなどで幕ごと引き寄せ、艦尾のデリックで揚収するものだった。続いて波浪同調式揚収クレーンも到着し、同年12月には8ノットで実験が行われている。ただ、あまり効果が無かったようで1938年(昭和13年)3月までにはデリックポストを残し撤去、1940年(昭和15年)ころに「瑞穂」に移された。1939年(昭和14年)に横須賀海軍工廠で特定修理が行われた際、搭載機を十試水上観測機常用8機+補用3機、十二試三座水上偵察機常用2機+補用1機の計常用10機、補用4機の14機として改装が行われていたが、完成直前に飛行艇母艦に役務が変更となった。このため運搬軌道と天蓋を撤去、格納所前部に約200名を収容する木製の仮設居住区を設けた。飛行艇への補給設備なども装備し、後部マストが前方に移動しているのが確認される。兵装はこの時14cm砲2門と8cm高角砲1門に変更した。この状態で太平洋戦争を迎えた。大戦中は1944年(昭和19年)2月に第101工作部で損傷修理の際に母艦設備を撤去した。同年11月に横須賀で撮影された艦前部の写真では、前部天蓋と仮設居住区は完全に撤去されており、またデリックポスト1本を残して前部マストも無く、艦橋後部に横桁1本の単マストが装備されている。この時の兵装は艦橋左右の機銃台に25mm3連装機銃1基ずつ、艦橋前に機銃台を設置し同機銃1基、前部砲台には14cm砲が装備が確認される。搭載機は九〇式三号水上偵察機 常用6機 補用6機とされる。艦前部に6機、後部に5機、補用機格納庫に1機を解体して格納する。その他に他艦の水上機を船尾楼空所に収容し分解して格納庫に収容できた。福井静夫によると九〇式二号水上偵察機を22機搭載できたという。内令兵に記載の1935年までの機種、機数は以下の通り1938年(昭和13年)の南支方面出撃時には九四式水上偵察機と九五式水上偵察機が合わせて8機から9機搭載された。マーキングは飛行機の呼称番号として「モ」が1936年に制定された。
出典:wikipedia
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