遠山 景任(とおやま かげとう)は、戦国時代の武将・大名。岩村遠山氏当主。美濃国恵那郡岩村城主。父は遠山景前。妻は織田信長の叔母(おつやの方)。藤原利仁流の加藤景廉を祖とする美濃遠山氏は、景廉が遠山荘の地頭となり、その子景朝が在地に下りて岩村に居を構えたことに始まる。遠山氏は氏族繁衍して七流に分かれて恵那郡を領したが、これを遠山七頭(七遠山)と言う。また中でも三頭(三遠山)と言われた苗木・明知・岩村の3つが主要な分家で、景朝の子、景重が明知遠山氏の祖、景員が岩村遠山氏の祖にあたるが、苗木は何度か系譜が絶えている。鎌倉時代初期においては、美濃源氏たる土岐氏と源頼朝の側近の子孫たる遠山氏は並び立っていたが、南北朝時代には土岐頼遠が活躍して美濃国の守護職を得たこともあって、土岐氏の方が優位となった。遠山氏も武家方の一勢力として各地を転戦したり、宮方であった隣国の飛騨国司姉小路家と争ったが、『太平記』『遠山家譜』によると岩村城主加藤光直の弟で苗木城主であった遠山五郎景直は土岐頼遠と領土争いの訴訟があって城を追われ、宮方の新田義貞軍に加わっていたという。足利尊氏に従って各地を転戦した明知遠山氏の(景重の玄孫)景房は武功多く、市島郷の地頭職を与えられたが、元中7年(1390年)その子である頼景は、宗家の持景の養子となって遠山氏の惣領として遠山荘の地頭職を安堵とされている。頼景の子が景友(季友)、孫が景前(かげまえ)である。景前の頃には土岐氏は凋落し、東美濃では遠山七頭の国衆が台頭して、諸城を築いて郡外勢力を拒むようになった。岩村遠山氏は惣領格ではあったが、統一されておらず、美濃の動乱の煽りで明確な支配者のいない半独立状態となっていた。天文23年(1554年)、信濃国を領国化しようとしていた甲斐武田氏が南信濃と美濃の国境である伊那郡を制圧すると、川中島の戦いで長尾景虎(上杉謙信)と争うと同時に武田晴信は弘治元年(1555年)に東美濃にも侵攻して岩村城を包囲したため、景前は降参した。以後、遠山氏のいくらかは武田氏に主従することになったが、引き続き斎藤氏や尾張の織田氏と連携するものも見られる。弘治2年(1557年)7月13日、その景前が亡くなり、嫡男であった景任があとを継いだが、まだ若かったことから遠山七頭の中に従わぬものがあって後継者争いが起こった。これに対して武田氏が東美濃に派兵して調停し、その後ろ盾を得た景任が当主となった。以後、東美濃においては遠山宗家と信玄との主従関係に基づく武田支配が成立し、遠山氏は武田方に人質を出したが、他方で同年、斎藤義龍が道三を長良川の戦いで破って美濃を手中に入れると、遠山氏の中では明知遠山氏の友行が義龍に与して9月の明智城攻めに加わるなど、一時的に斎藤氏にも与した。また従来の織田氏との関係も維持されており、これが台頭して濃尾に勢力を伸ばすとむしろ接近した。時期は不明ながら、景任が織田信長の叔母(織田信定の娘)を娶って縁戚関係を結ぶなど、複数の勢力に属するという関係を築いていった。特に永禄年間になると、遠山氏は武田氏と織田氏に両属して、その外交関係(甲尾同盟)を仲介する存在となった。永禄8年(1565年)に武田軍が金山城の森可成と米田城の肥田玄蕃允を攻撃した後、信長が景任の弟直廉の娘を養女として信玄の庶子諏訪勝頼の室とする縁組をまとめたのも、遠山氏を介した織田武田両家の連携の一環であった。元亀3年(1572年)、信玄は西上作戦を開始する前に、木曽義昌と遠山直廉に命じて飛騨の三木自綱を攻めさせたが、この戦いで直廉が5月18日に戦傷死。直廉には他に子がいなかったことから、信長が飯羽間遠山氏の遠山友勝をして苗木遠山氏のあとを継がせた。友勝の嫡男友忠の妻は信長の姪である。さらに8月14日に景任も病死して岩村遠山氏の血統が断絶したので、信長は東美濃の支配権を奪う好機として、岐阜城留守居の河尻秀隆や織田信広を岩村城に派遣して占領すると、自らの子(御坊丸のちの織田勝長)を亡くなった景任の養嗣子として継がせ、叔母のおつやの方を後見人とした。東美濃の支配権が信長に奪われたことに対して、駿河国に侵攻していた信玄は、伊那郡代秋山晴近と依田信守を東美濃へ派遣して岩村城の奪還を命じた。包囲された岩村城には以後も武田氏に仕えた者が多く、降伏して御坊丸を甲斐に人質として差し、信玄の許しを得て秋山が岩村城に入っておつやの方を妻とすることで(遠山氏と武田氏の)和議を成立させた。しかし以後は秋山が城主となるので、岩村での遠山氏の支配は終わりを告げた。
出典:wikipedia
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