『週刊朝日』(しゅうかんあさひ)は、朝日新聞出版(2008年3月までは朝日新聞社)発行の週刊誌。1922年に創刊された、サンデー毎日と並ぶ、日本の新聞社系老舗週刊誌。毎週火曜日発売。発行部数16万部は週刊アサヒ芸能に次いで業界第9位。朝日新聞社内で『ロンドン・タイムズ』のようなニュース志向、『エコノミスト』のような経済誌、大衆向け情報誌の発行を目指し、1922年2月25日に創刊。創刊号の表紙はジョゼフ・ジョフル(ジョッフル元帥)の大阪朝日新聞社来訪時の写真だった。創刊当初は旬刊(上・中・下旬刊行)で5・15・25日発売、誌名も『旬刊朝日』だったが、1月遅れで『サンデー毎日』も発刊され、4月2日発売分(5号)から週刊化、誌名は『週刊朝日』に変更された。当時は四六4倍判、36ページ、定価10銭。内容は、創刊から2年半は、誌面をニュース、学芸及び家庭・娯楽、経済記事に三等分していたが、次第に『サンデー毎日』のような生活に関する記事が増える。1922年7月には初の臨時増刊号『溢るる涼味』を発行。四六4倍判、72ページ、定価30銭で、20万部を即完売した。1931年の満州事変勃発以降は、他の報道機関と同様に戦争協力の性格を強め、前線の軍への慰問品となることを目的とした記事も掲載される。1940年から新体制規格としてB5判サイズになる。戦争で用紙が逼迫する頃までは、発行部数は35万部程度。1941年秋に編集部を大阪から東京に移転。終戦直後の時代には、ページ数は24ページ、発行部数は用紙割当て3万5千にヤミ紙を加えて9万5千部となる。1946年からアメリカン・コミックス「ブロンディ」を日米対訳式で連載。1947年10月26日号から、文学者辰野隆による連載対談「忘れ得ぬことども」が好評となり、部数が伸び始める。1948年の太宰治と山崎富栄の情死の際は、7月4日号の誌面ほとんどを山崎富栄の日記全文で埋め、この号は当時の発行部数13万部が3時間で売り切れた。1950年4月2日号からは吉川英治『新・平家物語』連載が開始され、戦後の週刊誌小説最初のヒットとなる。連載対談のホストは高田保、浦松佐美太郎、獅子文六と続き、1951年から徳川夢声による「問答有用」が人気となった。1953年には編集長の扇谷正造と編集部が、戦後第1回菊池寛賞を受賞。この頃は部数が30万部程度だった。この前後に『週刊サンケイ』『週刊読売』『週刊東京』の新聞社系週刊誌が創刊されるが、朝日と毎日がトップで競合し、『週刊朝日』は1954年9月に100万部を突破。1956年からは獅子文六『大番』連載開始。この頃は発行部数の約4割が宅配であり、家庭の主婦も大きな読者層と捉えた編集方針とし、社会的な難しい問題を分かりやすく提供する「シュガーコート作戦」と呼んだ編集方法で、1958年新年号は153万9500部に達した。扇谷はクォリティ誌を目指した『朝日ジャーナル』創刊準備に異動したが、編集方針の対立により1959年の創刊直前に更迭される。その後は『週刊新潮』など出版社系週刊誌が台頭し、1977年には48万部(日本ABC協会)、現在は27万部弱(マガジンデータ2010による)。新聞社発行週刊誌の中ではトップだが、総合週刊誌としては中ほどの売れ行きである。1988年8月26日号では、上野千鶴子のジェンダー論を取り上げた記事の見出しにおいて「おまんこ」の語が使用された。1996年、素人の女子大生をモデルにするなどタレントへの登竜門として注目されていた篠山紀信撮影の表紙が終了し、リニューアルが行われた。最終ページには1976年1月から山藤章二の風刺漫画「山藤章二のブラックアングル」が掲載されている。100号ごとの節目の号は以下のとおり(別冊や増刊を含む通しの号数)。
出典:wikipedia
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