荘献世子(そうけんせいし、チャンホンセジャ)は李氏朝鮮の第21代王英祖の次男。思悼世子(しとうせいし、サドセジャ、)とも呼ばれる。第22代王正祖の父。第23代王純祖の祖父、第24代王憲宗の高祖父、第25代哲宗の曾祖父である。兄がいたが、早くも逝去し、弟という理由で2歳で王世子に冊立され、10歳で恵慶宮洪氏と結婚した。少論派の学者たちから学問を学び、朝廷を掌握した老論派と対立した。1749年 に世子が英祖の代理として政務を処理するようになると、老論派は貞純王后(英祖の妃)とともに英祖に讒言し、世子を陥れた。英祖との葛藤で世子の李は精神を病むようになったと『恨中録』(恵慶宮洪氏の随筆)には記録されている。1762年 老論派が糸を引いた羅景彦が世子の非行を英祖に奏上した。英祖は羅景彦を死刑に処する一方、李を廃して米櫃の中に閉じこめ、李は8日後に飢死した(壬午士禍)。後にこれを悔やんだ英祖は「思悼綏徳敦慶弘仁景祉章倫隆範基命彰休贊元憲誠啓祥顕熙荘献世子」と諡し1777年 には正祖が「荘献」と追尊した。また現在のソウル市東大門区の梨峰山にあった墓を水原に移した。光武3年(1899年)、皇帝に即位した玄孫の高宗により「荘祖神文桓武荘献広孝大王(後に「荘祖懿皇帝」)」の廟号と「懿皇帝」の諡号を追尊された。妃嬪王子王女英祖と正祖の二人の名君の間にあって、非業の死を遂げることになった荘献世子は現代では歴史のミステリーとして韓国国民の興味を惹いており、「思悼世子刑死」を題材としたドラマは多い。
出典:wikipedia
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