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沖田畷の戦い

沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)は、日本の戦国時代の天正12年3月24日(1584年5月4日)に肥前島原半島(長崎県)で勃発した戦い。九州の戦国大名である龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久の合戦である。「畷」とは湿地帯の中に延びた小道の意味である。龍造寺氏は少弐氏の被官から下克上で戦国大名となり、隆信の代には佐賀を本拠地として肥前国を統一する。さらに元亀元年(1570年)の今山の戦いで大友宗麟軍を破り、勢いに乗って肥後半国、筑前、筑後、豊前の一部(長崎県、佐賀県、熊本県北部、福岡県)を獲得した。天正6年(1578年)に大友宗麟は日向に南征し、島津義久に大敗する(耳川の戦い)。この結果、大友家は多くの有力武将を失い、さらに大友庶家・家臣団の離反も相次いで大きく衰退する。そのため大友家は当時九州で成立していた九州三強から脱落し、耳川の戦いで大勝した島津家と、その合戦に乗じて大友領を侵食した龍造寺家の二強が争う時代となる。天正9年(1581年)、島津家は肥後に北上する。これに対して龍造寺家も隆信の嫡男・政家と義兄弟の鍋島信生を派遣して島津方の赤星親隆を下し、肥後北部の山本郡の内古閑鎮房も降伏させた。このため肥後北部の国人は龍造寺家に帰順するが、隆信は一方で筑後柳川の蒲池鎮並一族を小河信貴、徳島長房に殺害させるなどした。蒲池鎮並を誘殺したことは、諸将士の離反を惹き起こし、筑後衆の中では隆信に叛く者が出るにいたった。天正12年(1584年)3月19日、有馬晴信の背信を知った隆信は龍王崎から出陣した。3月20日には島原半島北部の神代に上陸した。有馬晴信は八代にいた島津軍に援軍を要請する。当時、島津家は肥後の平定に着手していたが、龍造寺軍の主力が島原に到達したとなると放置もしておけず、有馬に対して援軍を送り出した。ただ、島津軍の主力が動けば、衰えたとはいえ大友家が南下しかねず、相良義陽を戦死させた阿蘇惟光・甲斐宗運らの動きもあり、島津義久は大軍を島原に送る事はできず、弟の家久や頴娃久虎、新納忠元、猿渡信光、伊集院忠棟、川上忠智らを大将にして送り出した。兵力は島津軍の5,000人にも満たなかった。幸いだったのは島津軍の到着が3月22日と龍造寺軍の前日だった事であるが、龍造寺軍を悩ませた海の時化が島津軍の渡海をも遅らせ、またこれにより大軍を送れなかったのである。一方の龍造寺軍では、鍋島信生が主君の隆信に対して島津軍を警戒するように諌めた。信生は長期持久戦に持ち込む事で島津の援軍が肥後に撤退するのを待ってから有馬を攻め潰すように進言していたが、圧倒的な兵力を誇る隆信は傲慢になっており諫言を聞き入れなかった。島津・有馬連合軍は兵力的に圧倒的に不利な事から、晴信は島津の大軍の後詰を待つ後詰決戦を主張するが、家久は積極的な防衛策による龍造寺軍壊滅を策し、戦場は島原の北方にある沖田畷と定められた。当時、島原周辺は海岸線から前山の裾野にかけて広大な湿地と深田が広がっており、前山と森岳城との間にある道も幅が大変狭かった。沖田畷とはその湿地帯を縦貫する畷であった。連合軍はこの畷を封鎖するように大木戸を、森岳城には柵を築いて防備を強化し、徹底的に守りを固めた。これらの防備は3月23日の夜までに完了したが、隆信の鈍重な進軍がもたらした幸運でもあった。この時の連合軍の布陣は晴信を総大将に本陣は森岳城に置かれ、海岸線には伊集院忠棟ら1,000余、内陸側の大木戸には赤星一党の50人、家久軍は伏兵として森岳城の背後に控え、新納忠元ら1,000は前山の山裾に伏兵として潜んだ。これに対して3月24日未明、龍造寺軍は沖田畷に進軍し、山手を鍋島信生が、浜手を隆信の次男・江上家種と後藤家信らが、中央は隆信本隊が布陣して沖田畷を突破し、森岳城を攻撃することとした。隆信は森ヶ岳城を俯瞰する小山に上り、敵方の陣営を一望してその数の少ないことことを知り容易に勝利を得ることが出来ると驕慢の態度を示した。辰の刻(午前8時頃)に戦闘が始まり、島津方は、龍造寺軍をおびき寄せる計略を用いたため応戦をせず、島津義久は敗北を装い退却した。追撃してきた龍造寺軍に弓や鉄砲を乱射した為、先陣は崩れ、これを助けようとした二陣も左右が深沼で細道のため思うように進めずに難儀をしていた。隆信は使者に様子を見させに行ったが、この使者が命を惜しまず攻めるようにと、隆信から命ぜられていないことまで触れて回ったため、諸将はいきり立ち、無謀な攻撃を仕掛けたところ、それまで潜んでいた島津方の伏兵が弓、鉄砲を射掛けた。不意をつかれた龍造寺軍は深田に入り込んだため射殺されていった。未の初刻(午後2時)、隆信は床机に腰掛けていたが、島津方の川上忠堅に見つかってしまい、忠堅に切りかかられて隆信は首を落とされた。こうして、沖田畷の合戦は寡兵の連合軍の勝利に終わった。龍造寺家はこの合戦で総大将の隆信や信勝の他、鍋島信生の実弟・龍造寺康房、小河信俊をはじめ、重臣の成松信勝、百武賢兼ら多数が討ち死した。『九州治乱記』によると二百三十余人が戦死したとある。総大将を失って総崩れとなった龍造寺勢は本拠地の佐賀城に向けて撤退した。浜側を攻めていた江上家種は配下の執行種兼らを退却中に失ったがなんとか戦場を脱出した。鍋島信生は本隊が総崩れとなって柳河を目指して落ちて行った。隆信の嫡子・政家は祖母とともに国政を行ったが、島津家が来襲するとの流言があり、天正16年、政家は鍋島信生を養子として呼び戻すことになった。龍造寺家に大勝して政家が屈服した事により、龍造寺家の傘下にあった国人らは一気に島津家に寝返り、島津家の勢力は一気に筑前・筑後まで拡大する。以後、九州は島津が最強の勢力として君臨し、九州制覇を推し進めていく事になる。連合軍の兵力に関してであるが、有馬鎮貴は5,000人の手勢、島津軍と合わせても総勢1万人に満たなかった。また連合軍に関しての逸話として、ルイス・フロイスは『日本史』において有馬方には2門の大砲が船積みされていたが砲手がおらず、一人のアフリカのカフル人が弾丸を込め、一人のマラバル人が点火し、厄介な操作にもかかわらず見事に発射したと記述している。龍造寺軍の兵力は5万7000人。薩摩方の記録には6万人とある。ルイス・フロイスの書簡には2万5000人とある。5万7000という数字は『北肥戦誌』に記述があり、その後に本来柳川城にて筑後国を抑えるよう命じられていた鍋島直茂が、柳川城へ父の鍋島清房を入れて参陣したとある。その人数は『北肥戦誌』には詳らかにないが、フロイス『日本史』によると、直茂は兵船50、人員5,000で島原城へ入らんとしたが、有馬・島津の為に上陸できず三会城(別名:寺中城)へ入ったとし、『北肥戦誌』にある当初の数5万7000と合わせれば6万以上の動員に達する。 小説「肥前の熊に薩摩の狐」(角川運営サイト「カクヨム」)

出典:wikipedia

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