完乗(かんじょう)とは、交通機関が営業する、全ての路線に乗車・搭乗する完全乗車の略語。路線図・地図の塗り潰しになぞらえて、乗り潰しともいう。英語圏では"complete riding"と表現される。完乗とは多少ニュアンスが異なるが、ニューヨーク市地下鉄の最短時間全線乗車(早回り)は"Subway Challenge"()、ロンドン地下鉄の最短時間全線乗車は"Tube Challenge"()と呼ばれる。日本の鉄道路線の完全乗車を指し以下の様な事例がある。日本語の書籍においては、他国の鉄道に関しても「完乗」という表現を用いることがある。1979年(昭和54年)に刊行された石野哲の『時刻表名探偵』(日本交通公社)によれば、当時確認できた限りで最初の国鉄完乗者は、1959年(昭和34年)8月29日に富内線振内駅(当時の富内線終着駅)到着で達成した後藤宗隆である。後藤は雑誌『旅』(日本交通公社)1980年(昭和55年)8月号に「国鉄完乗第一号」と題した手記を寄稿している。後藤によると、当時同様な記録達成の目論見を抱いていた者は複数存在した模様であったが、1950年代 - 1960年代の日本ではローカル線を中心に国鉄新路線の建設が未だ盛んであり、日本各地での散発的な新線開通で「乗り残し」をフォローすることが容易でなかった。ただ、1959年(昭和34年)7月15日の紀勢本線全通から約8か月間新線の開業がないことを知り、この時期をチャンスとみて完乗にこぎつけたという。当時慶應義塾大学生だった後藤は、NHK在職の知人から依頼を受け、完乗達成から2日後に帰京したその足で(生放送だった)総合テレビの『私の秘密』に「国鉄全線走破第一号」として出演している。石野によると、1962年(昭和37年)11月に2人目の完乗者が現れ、その後1979年(昭和54年)3月までに確認できただけで、36人が完乗したという。後藤のあと、「完乗者」がマスコミに取り上げられる機会がなかったわけではないが、社会的に広く知られてはいなかった。石野、後藤などの文献に見られる範囲では、1970年代中期までは国鉄路線の全線乗車について「完乗」という略語表現は見受けられず、「全線走破」という表現の方がより一般的であった模様である。国鉄完乗が脚光を浴びたのは、1978年(昭和53年)7月に出版された宮脇俊三の処女作である旅行記『時刻表2万キロ』がきっかけであった。『時刻表2万キロ』は刊行翌月に『サンデー毎日』8月13日号に紹介されるなど、広くマスコミで取り上げられた。『サンデー毎日』は同年11月26日号で「国鉄2万キロのロマン 全線走破 オレたちもやった」と題する他の国鉄完乗者を紹介する記事を掲載している。『時刻表2万キロ』に触発されるかたちで国鉄は1980年(昭和55年)から、独自ルールに基づいて完乗者を認定・表彰する「いい旅チャレンジ20,000km」キャンペーンを開始し、国鉄分割民営化を挟んだ1990年(平成2年)まで続けられた。このキャンペーンによる完乗(キャンペーンでは「完全踏破」と表現)達成者は10年間で1.500人以上にのぼり、キャンペーン開始前と比較して大きく増加した。また、『時刻表名探偵』では「一人もいない」とされた女性の完乗者も、キャンペーンで誕生している。同年11月3日には俳優の関口知宏が『列島縦断 鉄道乗りつくしの旅〜JR20000km全線走破〜』というテレビ番組でJR路線全線の完乗を果たした。JRの場合、完乗を達成する者は男性が多く、女性の全線完乗は珍しいとされる。
出典:wikipedia
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