稲荷山古墳出土鉄剣(いなりやまこふんしゅつどてっけん)は、1968年に埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣。1983年に同古墳から出土した他の副葬品とともに国宝に指定された。「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」とも称される(「金錯」は「金象嵌(きんぞうがん)」の意味)。現在は埼玉古墳群近くの埼玉県立さきたま史跡の博物館内で、窒素ガスを封入したケースに保管・展示されている。1968年に行われた稲荷山古墳の後円部分の発掘調査の際、画文帯環状乳神獣鏡や多量の埴輪とともに鉄剣が出土した。1978年、腐食の進む鉄剣の保護処理のためX線による検査が行われた。その際、鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表されていることが判明する(新聞紙上でスクープとなり社会に広く知れ渡ったのは1978年9月)。その歴史的・学術的価値から、同時に出土した他の副葬品と共に1981年に重要文化財に指定され、2年後の1983年には国宝に指定された。当初、古墳の発掘は愛宕山古墳で行われる予定であったが、崩壊の危険があるため稲荷山古墳に変更された。書かれている文字を解釈すると、「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表)其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(ワク(カク)カタキ(シ)ル(ロ))の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」115文字という字数は日本のみならず他の東アジアの例と比較しても多い。この銘文が日本古代史の確実な基準点となり、その他の歴史事実の実年代を定める上で大きく役立つことになった。また1873年(明治6年)、熊本県玉名郡和水町にある江田船山古墳からは銀象嵌の銘文を有する鉄刀が出土した。この鉄刀にも当時の大王の名が刻まれていたが、保存状態が悪く、肝心の大王名の部分も相当欠落していた。その銘文は、かつては「治天下犭复□□□歯大王」と読み、「多遅比弥都歯大王」(日本書紀)または「水歯大王(反正天皇)」(古事記)にあてる説が有力であった。しかし稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣が発見されたことにより、「治天下獲□□□鹵大王」 と読み、「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)」にあてる説が有力となっている。このことから、5世紀後半にはすでに大王の権力が九州から東国まで及んでいたと解釈される。2000年と翌2001年にかけて行われた、金象嵌の材質調査(蛍光X線分析)によって、象嵌に使われている金には、銀の含有量が少ないもの(10%ほど)と多いもの(30%ほど)の2種類あることが判明した。その2種類の金は、表は35字目、裏は47字目から下の柄側には銀の含有量が少ないもの、切先側には銀の含有量が多いものが使われている。2種類の純度の違う(結果として輝きの異なる)金を鉄剣銘文の上下で使い分けた理由は不明である。辛亥年は471年が定説であるが一部に531年説もある。通説通り471年説をとるとヲワケが仕えた獲加多支鹵大王は、日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇、すなわち21代雄略天皇となる。銘文に獲加多支鹵大王が居住した宮を斯鬼宮として刻んでいる、雄略天皇が居住した泊瀬朝倉宮とは異なるものの、当時の磯城郡には含まれていることにはなる。この通説に則れば、21代雄略天皇の考古学的な実在の実証となりうる。田中卓は、斯鬼宮と刻んだ理由を雄略天皇以前の数代の天皇は磯城郡以外に宮を置いており、当時の人にとって磯城宮といえば雄略天皇の宮のことであったためであるとし、記紀で雄略天皇の宮を泊瀬朝倉宮と呼ぶのは後世に他の天皇が磯城郡に置いた宮と区別するためそう呼称したものであるとした。銘文にある「オホヒコ」について、『日本書紀』崇神天皇紀に見える四道将軍の1人「大彦命」とみなす考えがある。2007年、メトロポリタン美術館特別顧問の小川盛弘、刀匠の宮入法廣らが鉄剣の復元を企画。刀身彫刻師、研師など各分野の職人が賛同し、同年2月に制作を開始した。しかし、鉄の素材や鍛えの回数、象嵌、砥石などで問題が噴出し、試作や実地調査を繰り返して当時のものに近いものを割り出すなどの末にようやく2013年の6月に完成、11月13日に埼玉県に寄贈した。11月14日から埼玉県立さきたま史跡の博物館で特別公開された。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。