ダヤン・ビシエド・ペレス(Dayán Viciedo Pérez , 1989年3月10日 - )は、キューバ共和国ビジャ・クララ州レメディオス出身のプロ野球選手(一塁手、左翼手)。右投右打。現在は中日ドラゴンズに所属。愛称は丸々とした体形からシカゴの実況アナウンサーが名付けた"The Tank"(ザ・タンク)、またはスペイン語で戦車を表す「エル・タンケ」。キューバでは同世代リーグでの圧倒的な成績(打率.405・5本塁打・18打点・14盗塁)を携え、-シーズンに15歳で国内リーグ"セリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル"デビュー。-シーズンまでナランハス・デ・ビジャ・クララに所属していた。AA世代(15歳前後)の国際大会出場の頃からその類稀なる才能は注目を浴び始め、昔のオマール・リナレスと比較されるようになった。同世代のジュニアナショナルチームの中では遊撃手であったが、三塁手と外野手を掛け持ちで務めて出場した。の第1回WBCの一次候補にも挙がるなど順調であった。2006-2007シーズンにおいては90試合で打率.252・8本塁打・OPS.776と前のシーズンより下げ、不振に苦しんだ。2008年5月にいかだに乗ってキューバから亡命し、アメリカ合衆国のフロリダ半島に上陸した後、ドミニカ共和国で居住権を確立した。同年12月12日に同じくキューバ出身の亡命選手であるホセ・コントレラス、アレクセイ・ラミレスが所属しているMLBのシカゴ・ホワイトソックスと4年総額1000万ドルで契約を結び、入団した。7月のオールスター・フューチャーズゲームの世界選抜に選ばれた。6月20日のワシントン・ナショナルズ戦で21歳にしてメジャーデビュー。はAAA級シャーロット・ナイツで119試合に出場し、打率.296・20本塁打・OPS.856を記録。AAA級のオールスターゲームにも選ばれた。8月26日にカルロス・クエンティンが故障者リスト入りしたためメジャーへ昇格。この年は29試合に出場し、1本塁打6打点1盗塁、打率.255だった。はホワイトソックスの正左翼手として147試合に出場し、打率.255・25本塁打・78打点・OPS.744を記録した。2月22日に1年契約に合意。4月半ばには脇腹痛により、約3週間DL入りした。この年も正左翼手として124試合に出場したが長打力は影を潜め、打率.265・14本塁打・56打点という成績に終わり、本塁打が10本以上減少した。守備力も低く、左翼を109試合で守って5失策・守備率.970・DRS - 5という内容だった。1月13日にホワイトソックスと280万ドルの1年契約に合意。この年は中堅手であるアダム・イートンの活躍により、アレハンドロ・デアザが左翼の守備に就くことが多くなり、ビシエドは左翼手と右翼手を兼任することとなった。145試合に出場し、21本塁打58打点、打率.231だった。本塁打数は2年ぶりに20本台に戻したが、代償として打率を大きく下げた。1月12日にホワイトソックスと440万ドルの1年契約に合意した。しかし、1月28日にDFAとなり、2月4日に解雇された。2015年3月1日にトロント・ブルージェイズとマイナー契約を結んだが、31日に解雇となる。6月11日にオークランド・アスレチックスとマイナー契約を結ぶが、7月30日に解雇となる。8月1日にホワイトソックスとマイナー契約を結ぶが、オフに解雇され、フリーエージェントとなる。結局、2015年はマイナーリーグ(3A)の2球団で計66試合に出場、.287 8本 OPS.798であった。2015年12月1日、中日ドラゴンズが獲得を発表、背番号は落合博満が監督時代につけていた66に決まった。の開幕から3試合連続ソロホームランを放った。これは新外国人として史上初の快挙である。さらに2試合目、3試合目に猛打賞を放ち、開幕3連戦終了時点で12打数8安打 打率.667をマークした。4月17日の対阪神戦では来日初となる第6号サヨナラホームランを放ち、お立ち台に上がった。5月7日、対読売ジャイアンツ5回戦(東京ドーム)で2回表に今村信貴から左越ソロ、右越3ランの2本のホームランを放ち、1イニング2本塁打(史上19人目(21度目))を達成。5月10日、セ・リーグの3・4月度月間MVPを受賞した。外国人枠の野手による来日1年目開幕月での受賞はリーグ初となった。しかし、交流戦頃から徐々に調子を落としていき、更に8月13日の阪神戦(京セラドーム大阪)で守備機会中にセカンド・高橋周平と衝突し左足首を痛め登録抹消され、1ヵ月程戦線離脱を余儀なくされた。復帰後もスタメンの試合はなく、代打としての出場のみであった。レベルスイングで広角にライナーを打ち分ける打撃を持ち味とし、本塁打も全方向に打ち込んでいる。速球への対応は平凡だが、変化球を苦にしない。ストライクゾーンの真ん中の球に滅法強い反面、内角や外角の球に弱い。多少のボール球でも振りに行くフリースインガーで、キューバ人選手特有の早いカウントから積極的に打ちに行く姿勢は年々改善されているが、ボール球を振る悪癖については「わかっていても難しい」と語っている。また、好不調の波がある。守備ではキューバ時代とメジャーデビュー当初は主に三塁手として起用されていたが、2011年から外野手に転向。2012年に左翼手リーグ2位の13補殺を記録した強肩を備えるが、外野守備は敏捷性に欠け守備範囲が狭く、メジャー通算のDRSとUZR共に平均を大きく下回る。一塁手での出場経験もあるが、一塁守備もメジャー通算のDRSとUZR共に平均を下回る。守備の動きの鈍さはキューバ時代から指摘され、ビジャ・クララやキューバ代表で監督を務めていたビクトル・メサからは「彼は優れた打撃技術を持っているが、同時に年齢の割に驚くほど守備の動きが鈍い」と評されていた。主に中日では、一塁手として起用される。バットは打席ごとにメジャー時代から慣れ親しんだ米ビクタス社製とミズノ製のバットを使い分けている。家族構成は妻と子供3人で、2016年5月現在、フロリダに家族を残し単身来日している。第3子は2016年シーズン開幕直前の出産となったため、オープン戦期間中の3月11日に立ち合いのために一時帰国。出産後、子供の体調が思わしくなく、帰国予定より遅れて3月20日の再来日となったが、翌日のオープン戦から試合に出場している。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。