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青山幸宜

青山 幸宜(あおやま ゆきよし)は、美濃郡上藩の第7代(最後)の藩主。郡上藩青山家11代。明治維新後は華族(子爵)に列し、貴族院議員を務めた。嘉永7年(1854年)10月20日、第6代藩主・青山幸哉の長男として生まれる。文久3年(1863年)、父の死去により家督を継ぐ。元治元年(1864年)、天狗党の乱では幕命に従って鎮圧のために出兵したが、天狗党の軍勢がすでに通過した後だったために戦うことなく終わっている。幕末期の郡上藩では、佐幕派と尊王派が対立し、幸宜も消極的ながら佐幕派として行動していたが、慶応4年(1868年)に戊辰戦争が始まると、2月に新政府に恭順している。しかし家老の朝比奈藤兵衛の子・朝比奈茂吉が凌霜隊を結成して脱藩し、幕府側に味方して会津藩で戦うなどしている。明治2年(1869年)の版籍奉還で郡上藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で免職された。1884年の華族令で子爵となる。その後は実業家として活動、日本印刷社長、岩倉鉄道学校理事などを務めた。明治23年(1890年)には貴族院議員となる。1930年2月5日に死去。享年77。市川米庵に書を学び、多くの名筆を残したといわれる。長男の幸正(ゆきまさ)は、父に先立って1904年に死去した。幸宜の後は次男の幸直(ゆきなお)が継ぎ、幸直が1947年7月に没すると長男の幸壽(ゆきなが)が跡を継ぐ。幸壽は1986年に没し、現在は幸宜の五男幸高の孫である幸喜が14代当主として活動している。菩提寺は東京・南青山の浄土宗梅窓院。五男の幸高(ゆきたか)は、陸軍勤務の後、戦後は日本で初めて競馬馬の輸送自動車会社を起こした。ローマオリンピックの日本馬術競技の監督、日本馬術連盟理事などを歴任している。六男の幸敬(ゆきひろ、中井、のち復姓)は陸軍獣医学校教官など陸軍畑で活躍後、戦後は会社経営に携わった。

出典:wikipedia

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