黄 土水(黃土水, こう どすい, Huang Tu-Shui, 1895年7月3日 - 1930年12月21日)は、日本統治時代の台湾出身の彫刻家。台湾人として初めて日本の東京美術学校に入学、また台湾人として初めて日本の官展に入選するなど、台湾近代美術の先駆者として活躍したが、35歳で早世した。1895年、台北市艋舺生まれ。1907年、父親の死去に伴い大稲の二兄の所に身を寄せた。黄土水は大工であった父親や三兄の影響を受け、彫刻に興味を持つようになったと言われている。1911年3月に大稲埕公学校(現在の台北市太平国民小学)を卒業、同年4月、台湾総督府国語学校 (後の台湾総督府台北師範学校)公学師範科乙科に入学した。1915年3月に同校を卒業し、半年間母校の大稲埕公学校に訓導として勤めた。しかし、国語学校長隈本繁吉および総督府民政長官内田嘉吉の推薦を受け、同年9月に東京美術学校彫刻科木彫部に留学、高村光雲の門下に入った。1920年3月に卒業制作『ひさ子さん(女孩胸像)』を提出し、4月に研究科に進学した。1920年、彫刻作品『蕃童(山童吹笛)』が台湾人としては初めて帝展に入選、その後、『甘露水』(1921年、第三回帝展入選)、『ポーズせる女』(1922年、第四回帝展入選)、『郊外』(1924年、第五回帝展入選)、『釈迦像(釋迦出山)』(1927年、台北・龍山寺)、『水牛群像』(1930年、台北・中山堂)等の作品を発表した。また、1922年に『みかど雉子』と『双鹿』の木彫二点を宮中に献上、1928年には昭和天皇御大典のための台湾からの献上品を担当(『帰途(水牛群像)』、ブロンズ)、『久邇宮邦彦王胸像』『久邇宮邦彦王妃胸像』を制作するなど、日本の皇室との関係も密接であった。1922年3月に東京美術学校研究科を修了した後、1923年に台湾人の廖秋桂と結婚、東京池袋にアトリエを構えて、独立した彫刻家として日台を往来しながら制作を続けた。1930年12月21日、腹膜炎により東京池袋で35歳で病没した。1931年4月、台北東門町曹洞宗別院で追悼会が催され、9月に三橋町墓地で納骨式が行われた。また、同年5月には台北にて遺作展が開催されている。台湾での黄土水の評価であるが、1980年代後半に台湾人意識の高揚とともに評価が高まり、台湾彫刻界を代表する彫刻家と見なされている。
出典:wikipedia
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