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リッカー

リッカー株式会社 (RICCAR) は、かつて日本に存在したミシンメーカーである。1994年にダイエー子会社のダイエーファイナンスなどと合併、ダイエーオーエムシー(のちのオーエムシーカード、現・セディナ)となって消滅した。子会社の「リッカー販売」はリッカー合併後も存続したが、2004年12月にヤマノホールディングコーポレーションに売却された。設立は1939年。前身の理化学工業(「リッカー」の社名はこれに由来するといわれている。後述)は建築用のテックスを製造していたが、戦後になってミシン製造に参入。独自の前払い割賦制度で販売を伸ばし、一時は日本国内のトップシェアとなる。ミシンの需要がピークを過ぎると販売ルートを生かした家電販売を開始する。特に電子レンジは自社開発を行い、次代の主力製品のひとつと位置付けた。他にも不動産への参入などの多角化を進め、社名もリッカーミシンからリッカーへ変更する。しかし、主力のミシンでは電子化に出遅れ、シェアも国内3位まで落ち込むようになった。この頃から、販売不振を隠すため粉飾決算を行うようになる。1984年には主力取引銀行からの融資も打ち切られ、東京地裁に和議を申請し事実上の倒産となる。負債は1100億円で、戦後4番目の大型倒産(当時)であった。倒産時点で前払い割賦金制度の利用者が約60万人いたため、消費者保護のため国会でも問題となった。また、粉飾決算については、4人の逮捕者を出した。1987年から、ダイエー(現在はイオン傘下)の支援により更生を開始。更生のため販売活動を中心にした業態となり、ミシン製造からは撤退した。1993年に更生を完了したが、翌年にはダイエー子会社と合併し、リッカー株式会社は消滅する。リッカーブランドのミシン事業は子会社であるリッカー販売の売却先、ヤマノリテーリングス(現:ヤマノホールディングス)に譲渡されたが、現在はブラザー工業製品(プリンタ含む)の取り扱いに切り替えている。1984年までスポーツ活動に力を入れており、陸上部は1964年東京オリンピックに10名の選手を送り、名門と呼ばれていた。創業者平木信二と吉岡隆徳の活動は、書籍「夢、未だ盡きず」(辺見じゅん 著)として出版されている。また硬式野球部は長田幸雄、山内和宏、中西清起などをプロへ送り出している。リッカー会館として1963年に建設された本社ビルは、その年の日本建築学会賞を受賞している。リッカー倒産後はダイエーがテナントビルとして使用した。2002年にダヴィンチ・アドバイザーズへ売却され、オフィスビル「ダヴィンチ銀座」に改称、リニューアル工事も実施される。2010年に大和証券オフィス投資法人に再売却、現在は「Daiwa銀座ビル」となっている。東京都立川市曙町に製造工場があったが、倒産後に閉鎖された。閉鎖後はNTTドコモに土地が売却され、現在はNTTドコモ立川ビル(当初はNTTドコモ多摩ビル)が建っている。社名である「リッカー」の由来は、立川を「たちかわ」から「りっかわ」へ読み替えたものから来ているとの説がある(ただし、前身である理化学工業に由来するとの説もあり)。1972年、リッカー創立者の平木信二による浮世絵コレクションを保存、公開することを目的に平木浮世絵財団が設立され、リッカー会館の7階に浮世絵専門美術館「リッカー美術館」が開設された。1993年3月、展示していたビルが売却されることになり、同財団の理事長がそごうの社長水島廣雄であった関係から横浜そごう内に「平木浮世絵美術館」と名称を変更して移転した。2001年4月、そごう破綻の影響で閉館。新橋へ移転する。2006年10月、ららぽーと豊洲の中に「UKIYO-e TOKYO」と言う名称で移転開設した。二代目社長であった平木証三の意向で、ホテル事業へ参入。ホテルリッチを全国に展開する。しかし、経営は上向かず本業を圧迫することとなり、倒産の一因となった。結局ホテルリッチはユニバーサル販売を経て日東興業に売却されたものの、日東興業が1997年に経営破綻したことから多くが閉鎖に追い込まれ、現在は札幌・仙台・酒田・横浜のみを残す程度である。

出典:wikipedia

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