クレイジー・コールズ("Crazy Calls")は、1992年から1995年にかけて活動していたJリーグ、浦和レッドダイヤモンズのサポーター集団である。通称「CC」または「クレコー」。「レッズ・クレイジー・コールズ」("Reds Crazy Calls")と表記される場合もある。男性を中心にした硬派な応援スタイルで今日の熱狂的な浦和サポーターの基礎を作り上げた。1992年当時大学生だった吉沢康一が同年9月27日のJリーグカップ・横浜マリノス戦で仲間を集ったのが始まりである。吉沢には「自然発生的な応援ではなく、人数を集めて結束させサポートの力でチームを勝利させる」「プロサッカーにはそれに相応しい演出が必要。自分達がレベルの高い応援を作り上げれば、それにつられて観客も集まりクラブの財政も豊かになる」とのポリシーがあり、同年12月23日に行われた天皇杯準決勝の読売ヴェルディ戦では、リーグNo.1の人気チームを上回るパワフルな応援を繰り広げ後のCCの応援スタイルの原型を作り上げた。翌1993年に正式にクレイジー・コールズと命名。同年5月にJリーグがスタートするにあたり硬派な応援スタイルを推し進め他クラブのサポーターとの差別化を図ることにした。吉沢らはティーンエイジの男性をターゲットに、彼らが興味を持つ文化に共通するテーマである「不良性」を掲げ、「不良の男」を演出することでメディアに登場する戦略を採用した。この際、男性にのみターゲットを絞り女性は排除する姿勢を執ったが、これについて吉沢は「日本の流行の歴史を振り返ると、それを作るのも終わらせてしまうのも女性であるからだ」としている。CCは「不良」を志向したファッションやロック音楽やパンク・ロックを基調としたコールやチャントで人々を惹きつけ、実際の試合では状況に応じた様々な応援方法で選手を鼓舞し、スタジアムの雰囲気を盛り上げた。その反面、発炎筒騒動やサポーター同士の暴力事件、公序良俗に反するようなコールや示威行為など問題行動を頻繁に起こした。一部メディアからはフーリガンと紹介され、その行動に不満を持つ者もいたが、CCに代わってサポーターをリードしようとする集団は存在せず、応援はCCを発信源として行われ他の集団もこれに同調していた。1995年9月23日に浦和市駒場スタジアムで行われた名古屋グランパス戦後の夜9時頃、浦和市内の飲食店にてサポーター男性が、当時浦和に所属していた田口禎則から暴行を受ける事件が発生した。田口はシーズン半ばからプレーに精彩を欠いていたことから男性やサポーターから批判を受けており、強い不満を抱いていた。田口は男性に襲い掛かると胸ぐらをつかんで店外に引きずり出し、路上を30メートル連れ回し投げとばすなどの暴行を加え、男性に全治数日間の怪我を負わせた。田口の所属する浦和は事件の報告を受けたが、Tを同年9月27日にカシマスタジアムで行われた鹿島アントラーズ戦のメンバーとして帯同させるなど、適切な対応をとらずにいた。クラブ側の対応に疑問を持った記者により事件がリークされその日の夕刊紙上で報道されると、浦和の上層部はTの1996年1月31日までの出場停止処分を発表しJリーグと日本サッカー協会もこれを追認した。この事件に関して埼玉県警も内偵調査を進めていたが、被害男性とTとの間で和解が成立し被害男性がTの行動を不問とする上申書を提出した事で刑事事件に発展することはなかった。この後、田口の減刑嘆願運動が起こると、これまでのCCに対する不満が一気に噴出した。こうしたことや、クラブ側の対応の遅れに疑問を持った男性はゴール裏からの引退を決意。他のメンバーも男性に追随してゴール裏を離れた。リーダーの吉沢はスポーツライターに転身。サッカーを含め様々な分野で執筆活動を続けている。CCは解散し多くのメンバーがゴール裏を去ったが、相良純真を中心とした一部のメンバーは1997年にURAWA BOYSを結成し、CCの築きあげたスタイルを継承する形で応援を続けた。2003年6月15日に埼玉スタジアムで行われた福田正博の引退試合で1日限りの復活を果たした。これは福田から吉沢が「引退試合は俺だけの物じゃない」と直接依頼を受けたことにより実現したもので、吉沢は「浦和レッズ10年の総決算と考えれば断る理由がない」と抱負を語った。当日はかつてのCCのメンバーたちが7年ぶりに一堂に会しアウェイ側ゴール裏に陣取ると現役時代と変わらないメリハリの利いたコールで福田の引退を迎えた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。