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ヘリング (潜水艦)

ヘリング (USS Herring, SS-233) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の一隻。艦名は北大西洋に生息するタイセイヨウニシンを代表としたニシン科の総称に因む。その範囲は広く、日本ではイワシと認識されているウルメイワシもヘリングの一種である。ヘリングは1941年7月14日にメイン州キタリーのポーツマス海軍造船所で起工する。1942年1月15日にレイ・スピア少将夫人によって進水し、艦長レイモンド・W・ジョンソン少佐(アナポリス1930年組)の指揮下5月4日に就役する。整調後ヘリングは他の潜水艦4隻と共にヨーロッパ戦線に投入された。10月21日、ヘリングは最初の哨戒で地中海に向かった。北アフリカ沿岸のステーションでトーチ作戦に先立っての任務に従事。ヘリングは11月5日にカサブランカに到着し、侵攻作戦は11月8日の朝に始まった。その日、ヘリングはのカサブランカ近海で、ヴィシー・フランスの輸送船 Ville du Havre を発見し、魚雷を4本発射して2本命中させ撃破した。その後、マデイラ諸島方面に移動し哨戒を続けた。11月25日、ヘリングは35日間の行動を終えてスコットランドのに帰投した。12月16日、ヘリングは2回目の哨戒でビスケー湾方面に向かった。しかし、ビスケー湾では思いのほか接触が少なく、中立国スペインの船舶の他は、フランス沿岸に基地を持つUボートのための支援船1隻を見たのみであった。1943年2月12日、ヘリングは58日間の行動を終えてロスネースに帰投。艦長がジョン・コーブス少佐(アナポリス1930 年組)に代わった。3月6日、ヘリングは3回目の哨戒でビスケー湾方面に向かった。この哨戒でも、漁船には多数接触したが、肝心の敵には、3月21日にの地点で、Uボートらしい物体に魚雷を2本発射して命中を報告した時以外はほとんど接触しなかった。4月12日、ヘリングは37日間の行動を終えてロスネースに帰投。ジョンソン少佐が艦長に復帰した。5月4日、ヘリングは4回目の哨戒でアイスランド近海に向かった。この海域を突破しようとするUボートに対する哨戒任務に就いたが、Uボートはおろか、その他の敵艦船すら見なかった。6月9日、ヘリングは35日間の行動を終えてロスネースに帰投した。この後、本国への帰途のついでに5回目の哨戒を行った。7月26日、ヘリングは19日間の行動を終えてニューロンドンに帰投。整備後、8月9日にニューロンドンを出港。サンフランシスコのハンターズ・ポイント海軍造船所でのオーバーホールの後、11月2日に真珠湾に到着した。11月15日、ヘリングは6回目の哨戒で東シナ海方面に向かった。12月14日未明、ヘリングはの済州島西方でシ206船団を発見し、まず最初の目標に対して魚雷を2本発射し、2本とも輸送船筥崎丸(日本製鐵、3,948 トン)に命中してこれを撃沈。続いて別の目標に対して魚雷を2本発射するも、これは命中しなかった。三番目の目標を7,000トン級タンカーに定め、魚雷を2本発射して1本が命中したものと判断された。12月27日には病院船瑞穂丸(大阪商船、8,506 トン)を目撃。12月31日から1944年1月1日、ヘリングは新年を跨いで第4222船団を追跡し、まず12月31日深夜の攻撃で「千鳥型水雷艇」に対して魚雷を4本発射し、うち2本が命中したものと判断される。続いて1月1日未明にはの青ヶ島沖で2つの目標に対して魚雷を3本ずつ計6本発射、うち2本が特設航空機運搬艦名古屋丸(南洋海運、6,072 トン)に命中して名古屋丸を撃沈し、1本がもう一つの目標に命中したと判断された。1月8日、ヘリングは56日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。艦長がデイヴィッド・ザブリスキ・ジュニア少佐(アナポリス1936年組)に代わった。2月14日、ヘリングは7回目の哨戒で日本近海に向かった。豊後水道、九州沿岸を中心に哨戒し、3月20日にはの地点で推定23ノットで航行する2隻の駆逐艦を発見し、浮上攻撃で魚雷を6本発射するが命中しなかった。3月23日夜にもの地点で初春型駆逐艦と思われる艦艇に向けて魚雷を3本発射し、1本命中させたと判断された。翌3月24日にミッドウェー島に針路を向けるが、その翌日の3月25日未明には、の地点で鹿児島から鈴鹿に向かう空母龍鳳と駆逐艦早霜に接触するが攻撃はできず、早霜も逆探でヘリングを探知して戦闘配置を令したが、双方とも何事も起こらなかった。3月28日未明にはの地点で7,000トン級輸送船に対して魚雷を4本発射したが、命中しなかった。4月7日、ヘリングは54日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。5月16日、ヘリングは8回目の哨戒で千島列島方面に向かった。5月21日にミッドウェー島に寄港して燃料を補給後出港。10日後、ヘリングはバーブ ("USS Barb, SS-220") と合流するが、その後の消息は不明となり、7月13日付で喪失が宣告された。以下はバーブおよび日本側の記録からおおよそ掴めたヘリング最後の日の出来事である。5月31日にの地点でバーブと合流したヘリングは、濃霧の中松輪島の西方150マイルの地点でレーダーを使って輸送船団を発見した。この輸送船団は、松輪島から小樽へ回航する空船で構成された輸送船団であり、海防艦石垣が先導していた。ヘリングはバーブと船団攻撃の手順を打ち合わせた後別れた。ヘリングの方が先に船団を確認したらしく、バーブが船団を確認して攻撃態勢を整えようとした時、遠くで爆雷が炸裂する音が聴取された。魚雷を3本発射した後に浮上すると1人の日本人が漂流しており、救助の上尋問すると石垣の唯一の生存者であることが分かり、このことからヘリングが石垣を撃沈したことが分かった。日本側の記録では11時30分ごろに石垣は雷撃を受け、艦首を亡失した石垣はそのまま爆雷攻撃を実施していたようだが、程なく沈没した。石垣の沈没地点はと記録された。バーブも敢然と船団に接近して輸送船を撃沈し、バーブが撃沈していない分、すなわち輸送船北洋丸(栗林商船、1,590 トン)はヘリングが撃沈したことが分かった。船団で生き残った海軍徴傭船岩木丸(大阪商船、3,125 トン)は急遽松輪島の大和湾に引き返した。6月1日朝7時43分ごろ、ヘリングは大和湾に侵入。魚雷を6本発射して、停泊していた岩木丸の右舷に魚雷を2本命中させて撃沈。同じく停泊していた陸軍船日振丸(山下汽船、4,366 トン)にも魚雷を2本命中させて撃沈した。ヘリングは更なる敵を求めて湾内に深く侵入してきたが、7時56分頃に島の南東端である多岩岬あるいは鵜崎に触礁し、浮上して後進を開始する。これを見た陸上砲台はこの好機を逃さず距離1,200メートルで銃砲撃を開始し、湾内に攻撃目標とならず残っていた陸軍船紅海丸(大阪商船、1,273 トン)も応戦してきた。陸上砲台は12.7センチ高角砲8発、12センチ砲51発、8センチ高角砲63発、各種機銃弾2,986発を発射の上、司令塔に二発命中させた。ヘリングの姿は8時5分頃に、天蓋山の130度3,500メートルの地点で濃霧により見えなくなった。記録には「水泡が5メートル幅の範囲を覆い、重油がおよそ15マイルを覆った」とあるが、「潜航不能トナラシメタルコト確実ト認ムルモ撃沈スルニ至ラズ」とも記された。 しかし、結果的にヘリングは司令塔への命中弾が致命傷となり、その場で沈没したものと考えられている。ヘリングは最後の哨戒で4隻の日本船、総トン数13,202トンを撃沈し、撃沈総トン数は19,959トンに上った。ヘリングは第二次世界大戦の戦功で5個の従軍星章を受章した。ヘリングの記念プラークはカリフォルニア州シールビーチの海軍兵器ステーションに設置されている。2005年6月、松輪島の沈没地点近くに記念プレートが設置された。設置の記念式典はロシア人研究家のエフゲニー・ヴェレシャガが率いた第4回カムチャッカ-クリル歴史・地理調査の際に行われた。

出典:wikipedia

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