


全日本学生弓道連盟(ぜんにほんがくせいきゅうどうれんめい、以下全学連と略称する)は、日本国内の大学弓道部を統括する競技組織である。本部を日本武道館学生武道クラブ内に置いている。大学弓道部による競技は、一般の弓道に対して学生弓道・大学弓道などと呼ばれる。全学連は一般弓道界の全国組織である全日本弓道連盟(全弓連)とは歴史的経緯を異にしており、現在でも包含関係にはない。また競技規則・試合形式も異なる点が多い。以下この項では学生弓道・大学弓道全般について述べる。明治維新後しばらくの間、弓道(昭和初期までは一般に弓術と呼ばれていた)をはじめとした武道は顧みられず衰退していた。明治20年(1887年)頃より徐々に復活の気運が盛り上がり、各種学校でも東京帝国大学・第一高等学校(明治24年)、慶應義塾(明治25年)、東京専門学校(早稲田大学)(明治30年)、京都帝国大学(同)などで団体が組織され始めた。大正13年には都下学生弓道連盟が設立され、翌14年には第一回日本学生弓道選手権大会が開催された。昭和5年には日本学生弓道連盟が設立された。戦前は大学よりも旧制高校や各種旧制専門学校の部活動が盛んであり、東京帝国大学、京都帝国大学などが主催する大会(インカレと呼ばれた)で覇を競った。しかし第二次世界大戦の激化とともに学校弓道は活動停止を余儀なくされた。戦後は連合国総司令部 (GHQ) によって、昭和20年(1945)から昭和27年(1952)まで、剣道・柔道などとともに学校教育では禁止された。しかし一部の大学では終戦後から復活の動きがあり、昭和28年7月には全日本学生弓道連盟(初代会長:高木棐)が創立され、橿原公苑弓道場にて第一回全日本学生弓道選手権大会が開催された。同年12月には第一回全日本学生弓道王座決定戦が開催された。昭和30年11月には第一回東西学生弓道選抜対抗試合が開催された。昭和30~40年代には大学新設や戦前の弓道部の復活により多くの弓道部が生れ、各地の地区連盟が結成された。昭和45年7月には第一回全日本学生弓道遠的選手権大会が開催された。昭和64年には第一回全国大学弓道選抜大会開催(全日本弓道連盟主催)が開催された。大学弓道では戦後もしばらくの間、女子部員が少数であったため競技は男女別ではなかったが、昭和36年の第九回全日本学生弓道選手権大会開催より個人戦が男女別となり、翌年の第十回大会より団体戦も男女別となった。昭和52年11月には第一回全日本学生弓道女子王座決定戦および第一回女子東西学生弓道選抜対抗試合が開催された。全学連は以下の九つの地区連盟で組織されており、地域内の各大学弓道部が加盟している。各地区連盟に加盟できるのは基本的に一校から一団体である。大学本部の所在地の連盟に所属するため、活動場所と連盟の範囲が一致しない場合がある(例えば東京都学生弓道連盟所属の大学には、神奈川県に道場があるものもある)。試合・大会やその形式は各連盟によって異なるが、新人戦、記録会(百射会等)、地区大会、リーグ戦等が開催されている。秋に行われる試合により王座決定戦への出場権が争われる。この試合は多くの地区ではリーグ戦形式で行われるが、大会形式の地区もある。リーグ戦は成績順に1部リーグ、2部リーグ等に分けられている。各部優勝校は上部リーグの最下位校と入替戦を行い、勝者が上部リーグに残留もしくは昇格し、敗者が下部リーグに残留もしくは降格し、翌年度の編成が決まる。1部リーグ優勝校が王座決定戦に出場する。男子は4人立2組(計8人)の計8人、女子は3人立1組の計3人、または4人立1組の計4人の形式である。立の人数や射数は各連盟のリーグ戦や大会によって異なる。詳細は以下の通り。学生弓道ならではの応援「矢声」がある。これには一部一般弓道愛好家には批判がある。確かに弓道は「真善美」を目的とした武道ではあるが、学生弓道の大会では的中主義というのが前提となっているため、スポーツとしての側面の方が目立っているようだ。一部の地域ではこの応援がなくてはならないものとなっている。最近の傾向として、インカレ、全関東などの大きな大会に限り強豪校を中心に減少しつつある。
出典:wikipedia
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