黒塚(くろづか)は、福島県二本松市(元・安達郡大平村)にある鬼婆の墓、及びその鬼婆の伝説。安達ヶ原(阿武隈川東岸の称。安達太良山東麓とも)に棲み、人を喰らっていたという「安達ヶ原の鬼婆(あだちがはらのおにばば)」として伝えられている。黒塚の名は正確にはこの鬼婆を葬った塚の名を指すが、現在では鬼婆自身をも指すようになっている。能の『黒塚』も、長唄・歌舞伎舞踊の『安達ヶ原』、歌舞伎・浄瑠璃の『奥州安達原』もこの黒塚の鬼婆伝説に基く。安達ヶ原近隣の真弓山観世寺の発行による『奥州安達ヶ原黒塚縁起』などによれば、鬼婆の伝説は以下のように伝わっている。なお、伝説にある神亀年間(奈良時代前期)とは時代が異なるものの、祐慶は平安時代後期に実在した人物であり、『江戸名所図会』などに東光坊阿闍梨宥慶の名で記載されており、1163年(長寛元年)に遷化したとされる。鬼婆の顛末については、以下のような別説もある。また以下のように、祐慶は鬼婆に偶然出遭ったのではなく、鬼婆を討つ目的で安達ヶ原へ向かったという伝説もある。鬼婆の頭部があった東光寺は後に廃寺となり、祐慶の子孫とされる安達家に頭蓋骨が伝えられている。この安達家の名も安達ヶ原に由来しており、尾山には他に安達という名は確認されていない。また、胴体を埋めた跡に植えられた桜は、後に見事な大木に育ち、毎年美しい花を咲かせているという。前述の観世寺の近隣には恋衣地蔵という地蔵があるが、これは鬼婆に殺された恋衣という女性を祀ったものとされ、この地蔵の由来として、鬼婆が人間から鬼婆に変じた物語が以下のように伝わっている。なお、岩手が奉公していた「公家」とは武家時代以降に用いられた言葉だが、祐慶が鬼婆に出遭った神亀年間は平安遷都すら行われていない時代のため、岩手が奉公していた時代には、奉公先のはずの京の都自体が存在していないという矛盾がある。また、岩手という名は戯曲の『岩手』で創作された名前であり、実在するはずがない。以上の理由から、この鬼婆の由来に関する伝説は、一種の方便として作られたものと見られている。また、青森県にはこれとは別に、鬼婆の由来を説く伝説が以下のように伝わっている。黒塚の近くには祐慶が観音を祀るために寺を建てたといわれ、これが現在でも二本松市にある真弓山観世寺(福島県二本松市安達ケ原4-126)とされる。同寺の敷地内には鬼婆像の他、鬼婆の墓や、鬼婆の住んでいた岩屋、血で染まった包丁を洗ったという池が残されており、観光客も多い。伝説は時を経てなお人々の心に恐怖と哀しみを与え続けているといわれ、俳人・正岡子規もこの寺を訪れ「涼しさや聞けばむかしは鬼の塚」と詠んでいる。また観世寺にある如意輪観世音菩薩の胎内には、祐慶が鬼婆退治に用いたとされる如意輪観世音菩薩が埋め込まれており、60年ごとに開帳される。二本松市内の観光施設「安達ヶ原ふるさと村」では、この鬼婆伝説を再現した「黒塚劇場」が開催された他、本来の伝説のおどろおどろしさを払拭すべく、鬼婆の姿を二頭身にディフォルメした「バッピーちゃん」をイメージキャラクターとしたりと、様々な工夫がなされている。黒塚劇場は前後に舞台を設け緞帳代わりに障子、老婆の姿の精巧なロボットが語り部として語り、後半は客が180度向きをかえて続きが演じられる二舞台方式だったが、「ふるさと村」の無料開放に伴い黒塚劇場は閉鎖され、現在見ることは出来ない。平安時代、三十六歌仙の1人である平兼盛が名取郡黒塚に重之が妹あまたありと聞きつけていひつかしける 陸奥(みちのく)の安達が原の黒塚に鬼籠もれりと言ふはまことかと詠んでいる(『拾遺和歌集』巻九・雑下)。これは黒塚に住む三十六歌仙の1人・源重之の姉妹たちに対して兼盛が送った恋歌である。姉妹たちを「鬼」とたとえたのは、辺境の陸奥に住む娘たちを深窓の令嬢と推測し、隠れて姿を現さない「鬼」を掛けた洒落の一種である。兼盛の時代以前より黒塚の鬼婆伝説が存在し、兼盛はそれを下敷きとしてこの歌を作ったといわれるが、逆に歌の方が伝説より先に存在し、この歌が後に文字通りの意味に解釈され、黒塚に鬼婆が住むという伝説が生まれたという説もある。 奥州黒塚にて が誤伝されたもの。 遊女土佐をむかへたる人にうとく成て(出典=『古典俳文学大系』(集英社)安達ヶ原と同様の鬼婆の伝承は埼玉県さいたま市にも「黒塚の鬼婆」として伝わっている。江戸時代の武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』には、祐慶が東国足立ヶ原(あだちがはら)で黒塚の悪鬼を呪伏して東光坊と号したとあり、前述の平兼盛の短歌もこれを詠んだものだとある。東光寺(さいたま市)の撞鐘の銘文にも、かつて足立郡にあった黒塚という古墳で、人々を悩ませていた妖怪を祐慶が法力で伏したとある。寛保時代の雑書『諸国里人談』によればこちらが伝説の本家とされ、昭和以前には、埼玉のほうが東京に近く知名度が上ということもあり、埼玉を本家と支持する意見が多かった。歌舞伎の『黒塚』を上演する際に俳優がこちらを参詣することもある。昭和初期には、福島の安達ヶ原と埼玉の足立ヶ原の間で、どちらが鬼婆伝説の本家かをめぐる騒動が勃発した。これに対し、埼玉出身の民俗学者・西角井正慶が埼玉側を「自分たちの地を鬼婆発祥の地とすることは、この地を未開の蛮地と宣伝するようなものだから、むしろ譲ったほうが得」と諭して埼玉側を退かせたことで、騒動は幕を閉じた。かつて黒塚にあった東光寺も後にさいたま市大宮区へ移転しており、埼玉の黒塚のあった場所は後の宅地造成により見る影もなくなっている。また、岩手県盛岡市南方の厨川にも安達ヶ原の鬼婆伝説があり、ここでは鬼婆の正体は平安中期の武将・安倍貞任の娘とされる。奈良県の宇陀地方にも同様の伝説があり、東京都台東区の「浅茅ヶ原の鬼婆」もこれらと同系統の伝説である。安政年間の土佐国(現・高知県)の妖怪絵巻『土佐お化け草紙』にも、「鬼女」と題して「安達が原のばヽ これ也」とある。天狗研究家・知切光歳の著書『天狗の研究』によれば、東光坊祐慶の「東光坊」は、熊野修験の本拠地である熊野湯の峯の東光坊に由来するもので、この地の山伏は修行で各地を回る際、「那智の東光坊祐慶」と名乗っていたらしいことから、祐慶を名乗る山伏たちが各地で語る鬼婆伝説がもととなって、日本各地の鬼婆伝説や黒塚伝説が生まれたものと見られている。また、前述の埼玉の鬼婆伝説については、氷川神社の神職の人物が、禁をやぶって魚や鳥を捕えて食べようとした際、鬼の面で素顔を隠したことが誤伝されたとの説もある。
出典:wikipedia
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