「エルサレムの旧市街とその城壁群」は、ユネスコの世界遺産登録物件のひとつ。周辺情勢の不安定さから保護が必要な物件である一方、エルサレムの帰属問題などのデリケートな問題をはらんでいることから、ヨルダンによる申請という変則的な手続きが認められた珍しい物件である。1981年の第1回臨時世界遺産委員会で登録が決定された。臨時委員会で登録が決定した物件は、第39回世界遺産委員会(2015年)終了時点では他にない。翌年に危機遺産リストに加えられた。最も長い期間危機遺産リストに登録され続けている物件である。エルサレム旧市街は今日のエルサレム市内の0.9km² の区画である。1860年代までは、この旧市街がエルサレムの全体であった。エルサレムはいくつかの歴史的な宗教における重要な遺跡を含んでいる。ユダヤ教徒にとっての神殿の丘と嘆きの壁、キリスト教徒にとっての聖墳墓教会、ムスリムにとっての岩のドームとアル=アクサー・モスクなどがそれである。 伝統的に、旧市街は19世紀になって導入された4つの区画に分けられている。今日の旧市街は、ムスリム地区、キリスト教徒地区、ユダヤ教徒地区、アルメニア人地区に大別されている。紀元前11世紀にダビデ王がエルサレムを征服する以前には、この街はエブス人の本拠地だった。聖書は、この街が堅固な壁に守られた重厚な城塞都市であったと描写している。ダビデ王が支配したことで「ダビデの街」(Ir David)として知られた当時の街は、現在の糞門外側の旧市街の壁の南東にあったと考えられている。ダビデの息子のソロモン王は都市の壁を拡大した。その後、ペルシャ帝国領時代の紀元前440年ごろ、ネヘミヤがバビロンから戻り、市壁を再建した。西暦41年から44年にかけては、ユダヤの王アグリッパが「第三の壁」として知られる壁を建造した。1219年に、市壁はダマスクスのスルタンのMu'azzimによって完全に破壊された。1229年にはエジプトとの条約によって、エルサレムは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の手に渡った。1239年には市壁の再建が始まったが、壁はケラクの首長Da'udによって再び破壊された。1243年にエルサレムは再びキリスト教国の勢力下に入り、市壁も修復された。しかし、翌年にはホラズムが都市を陥落し、市壁をまたも破壊した。これによって、彼らは都市を無防備に置くという大打撃を与える形になった。現存する旧市街の市壁は、スレイマン1世によって1538年に建造されたものである。長さは約4.5 km、高さは5 - 15 m、厚さ3mになる。 全体では、旧市街の市壁は43の見張り塔、11の門(うち7つは現在開放されている)を含んでいる。アルメニア人地区は、旧市街の四つの街区の中では最小である。アルメニア人はキリスト教徒ではあるが、キリスト教徒地区とは区別されている。この地区は面積・人口とも小さなものではあるけれども、アルメニア人とその総主教座は断固として独立を保ち、旧市街の中で力強い存在感を示している。1948年の第一次中東戦争以降、4つの街区はヨルダンの管轄下に置かれた。ヨルダンの法では、アルメニア人や他のキリスト教徒たちに、キリスト教系の私立学校において、聖書にもクルアーンにも均等な時間を割り当てることを要請し、かつ教会資産の拡大を制限した。アルメニア人の修道院から2発の不発弾が見つかってからは、1967年の戦争は、地区の住民たちから「奇跡」として思い起こされるようになった。今日、エルサレムには3000人以上のアルメニア人が住んでいるが、そのうち500人がアルメニア人地区で暮らしている。中には、神学校で学んだり、教会業務に従事するための一時的な居住者もいる。総主教座はこの街区に領地を持つとともに、西エルサレムなどに高価な財産を所有している。1967年の第三次中東戦争の後に、イスラエル政府は戦争で損害を受けた教会や神聖視された遺跡の修復のために、その損害がどの陣営によるものかを問わず、修復のための補償を行った。1975年にアルメニア人地区に神学校が建設された。キリスト教徒地区は、旧市街の北西端に位置している。ジャッファ門でアルメニア人地区と接し、北の新門まで伸びている。このラインが東のダマスカス門まで延びており、ここがムスリム地区との境界になっている。イエス・キリストが十字架を背負って歩いたとされる「悲しみの道」がある。キリスト教の巡礼者が十字架を掲げながら、イエスの受難の足取りを辿る。イエスが十字架の重みに耐えかねてつまずいた場所。人ごみの中に聖母マリアの姿を見つけた場所。そしてイエスが手を突いた壁。巡礼者はイエスのあえぐような息遣いを感じる。「悲しみの道」の終着点がこの地区にはキリスト教徒たちにとっての最大級の聖所のひとつ、聖墳墓教会がある。ユダヤ人地区(, "HaRova HaYehudi" or the "Rova")は、旧市街の南東部に位置している。シオン門からのラインでアルメニア人地区と区切られており、嘆きの壁があり、神殿の丘の西に接している。この街区は紀元前8世紀以来のユダヤ人たちの断続的な存在によって、実に豊かな歴史的経験を重ねてきた。1948年にはおよそ2000人いたユダヤ人たちは包囲の上で集団退去を命じられ、歴史あるシナゴーグ群も破壊された。この地区はトランスヨルダンの支配下にあったが、1967年のイスラエル軍の落下傘部隊によって陥落した。それ以降は再建も進み、2004年には2348人の住民を数えるまでになっており、多くの教育施設も設立されている。再建される前にはヘブライ大学の考古学者の監督下で、発掘調査も行われた。考古学の遺物は一連の博物館に陳列されているほか、現在の市街よりも2、3階分低いところにある野外公園に陳列されており、世界的に見ても屈指のアクセスの容易さを誇る遺跡発掘現場となっている。ムスリム地区は旧市街の北東端に位置し、4地区のなかで最も大きく、人口の多い地区である。ライオン門やヘロデ門があり、神殿の丘の北壁と接している。他の3つの地区のように、ムスリム地区も1929年の嘆きの壁事件まではユダヤ人、キリスト教徒、ムスリムなどが混然と暮らしており、かつては「雑多な地区」と呼ばれていた。今日のムスリム地区には60世帯のユダヤ人家族が暮らしていて、のようなイェシーバーもいくつかはある。十字軍によって立てられたエルサレム王国時代には、旧市街には4つの門があった。スレイマン1世によって現存する市壁には、全部で11の門があるが、開いているのはそのうち7つのみである。1887年までは、どの門も日没前には閉じられ、日の出とともに開かれた。以下の表に示されているように、歴史的な時期や、共同体のグループごとに様々な異称がある。イスラエルはエルサレムを首都としているが、国際的には承認されていない。また、この物件の登録時点では、イスラエルは世界遺産条約を批准していなかった(イスラエルの批准は1999年)。そのため、この物件はエルサレムそれ自体の領有と切り離して、「ヨルダンによる申請」という注記で登録されることになった。ユネスコ世界遺産センターの国別一覧では、エルサレムは「エルサレム(ヨルダンによる申請物件)」として、どこの国にも属さない形で単独で扱われている。アメリカのテレビ番組「グッド・モーニング・アメリカ」とUSAトゥディ紙が行った人気投票では、エルサレムの旧市街が「新・世界の七不思議」のひとつとして選ばれた。
出典:wikipedia
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