山浦 光則(やまうら みつのり)は、江戸時代前期の公卿、米沢藩士。猪熊季光の次男。日本史上唯一のキリシタン公卿の殉教者である。公家・猪熊季光(四辻家出身。上杉景勝側室・四辻氏の兄弟)の次男として誕生。キリシタンであったため、寛永11年(1635年)、迫害を避けて妻子と共に京都から逃れ、従兄で米沢藩2代藩主・上杉定勝を頼って米沢へ身を寄せた。これは父方の血縁関係があったことに加え、米沢藩におけるキリシタン弾圧が他藩と比べて緩いものだったことが起因といわれる。定勝の計らいにより、上杉家臣・山浦景国の跡を受けて上杉氏一門の山浦上杉家を継ぎ、身柄を安堵された。しかし定勝の死後、江戸幕府の厳命を受けた3代藩主・上杉綱勝によって、承応2年(1654年)12月に伯母・四辻氏が葬られている米沢極楽寺境内で斬首された。遺体は四辻氏の墓の隣に葬られたといわれる。光則の妻子は免罪され、息子2人は僧(長男はのちに法音寺9世、能範法印)となり、娘3人(長女は夭折)のうち次女は綱勝生母生善院(近衛家家司斉藤本盛娘)の侍女を経て侍組平林正信(平林正恒嫡孫)に、三女は米沢長命寺(浄土真宗)住職にそれぞれ嫁いだ。現在、四辻氏の墓とされている上杉家側室の墓の側に、光則の供養塔が建立されている。
出典:wikipedia
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