板垣 信安(いたがき のぶやす)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣、板垣氏嫡流。嫡子に修理亮がいる。甲斐源氏支流の於曾氏出身。弘治3年(1557年)、板垣信方の嫡子信憲が不行跡を理由に武田信玄により改易されたため、板垣家が一旦断絶した。しかし、翌永禄元年(1558年)に信方の娘婿にあたる於曾信安が、武田晴信の命によって名跡を継ぎ板垣家を再興した。永禄10年(1567年)の起請文では既に板垣姓を称しており、武田氏の親族衆として120騎を有した。『甲斐国志』によれば、於曾の菅田天神社や於曾屋敷へ所領を寄進した記録が残る。永禄12年(1569年)の駿河侵攻では久能城主を務めている(後任は今福友清)。内藤昌秀の戦死後、天正7年(1579年)2月に内藤昌月が上野国箕輪城代就任するまでの間、同城に在城した。元亀3年(1572年)には駿河国田中城主を務め、「田中の板垣殿」と呼ばれた。山梨県の富士御室堂浅間神社や長野県の生島足島神社に判物や起請文が伝わる。その後信安は、天正3年(1575年)頃の戦で討死したという説もある。信安の嫡男修理亮は、武田氏滅亡後に真田昌幸へ仕え、天正13年(1585年)信濃国上田の合戦で奮戦した。
出典:wikipedia
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