土佐 浩司(とさ こうじ、1955年3月30日 - )は、将棋棋士。清野静男八段門下。棋士番号は124。新潟県塩沢町(現在の南魚沼市の一部)出身。プロ入り前の1975年度、第6回新人王戦でベスト4進出。1976年2月、20歳でプロ入り。しかし、その頃に名人戦・順位戦の主催紙移行問題があり、初の順位戦を戦うまで実質1年間待たされることになる。そのかたわら、初参加の十段戦(第16期・1977年度)において予選を6連勝で通過し、難関の十段リーグに入る。四段の棋士の十段リーグ入りは初。リーグ戦では残留はならなかったものの、米長邦雄・大山康晴・有吉道夫を負かしている。順位戦デビューの第36期(1977年度)C級2組順位戦では6勝4敗の成績。その6勝のうち6回戦の白星は、この年に死去した師匠の清野に対する不戦勝であり、7回戦の白星は、谷川浩司に順位戦初黒星をつけたものであった。。第20期(1979年度)、第22期(1981年度)の王位戦で、リーグ入り。第32回(1982年度)NHK杯戦に成績優秀シード(予選免除)で初出場。 第40期(1982年度前期)棋聖戦本戦で米長邦雄、内藤國雄らに勝ち、準決勝進出。第42期(1983年度)C級2組順位戦で前半の3勝2敗から5連勝して3位に食い込み、順位戦初昇級。これにより五段昇段。以上のように四段時代が長く、最初の昇段までに181勝を記録した。なお、昇段規定に勝数規定(勝ち星昇段)の規定が加えられたのは、土佐が五段となった1984年4月1日と同時であった(同日付で多数の棋士が勝数規定で昇段した)。第35回(1985年度)、第40回(1990年度)、第43回(1993年度)のNHK杯戦で、本戦3回戦進出。第28期(1987年度)王位戦で、6年ぶりのリーグ入り。第48期(1989年度)C級1組順位戦で8勝2敗・2位となり、B級2組昇級。同時昇級者は10戦全勝の羽生善治(同年度に初タイトル竜王を獲得)である。土佐の2敗のうちの1敗は対羽生戦であったが、最終局で昇級争いライバルの森下卓を破ってくれたのも羽生であり、土佐の逆転昇級となった。第42期(1994年度)、第43期(1995年度)の王座戦で2年連続本戦出場。1998年度の第32回早指し将棋選手権戦(テレビ棋戦)で棋戦初優勝。本戦の対戦相手は順に、森下卓、井上慶太、米長邦雄、谷川浩司(準決勝)、森内俊之(決勝)である。棋戦決勝進出でさえ、棋士人生23年で初めてであった。ちなみに、本戦では初戦から準決勝まで振り駒で先手番を引き当てた。決勝は後手番であったが、持将棋指し直しで先後入れ換えとなったため、結局、すべて先手番で勝って優勝したことになる。決勝の手数は、持将棋局が201手、指し直し局が179手であった。なお、「将棋世界」1999年5月号に掲載された決勝戦自戦記「長い道」は、第11回将棋ペンクラブ大賞・観戦記部門佳作を受賞している。第60期(2001年度)B級2組順位戦の最終戦で、2人目の昇級枠を鈴木大介ら三人と争うが、畠山成幸に敗れ昇級を逃す(鈴木がB級1組昇級)。第63期(2004年度)B級2組順位戦では、勝てば自力昇級となる最終局で田丸昇に敗れて8勝2敗となり、野月浩貴(9勝1敗)に逆転昇級を許す。第66期(2007年度)B級2組順位戦最終局では、昇級争いライバルの屋敷伸之が負けたものの、自分も負けてしまったため昇級を逃す。しかしながら、勝ち越したことによって自身3度目の降級点消去に成功する。第35期(2009年度)棋王戦で本戦進出。2010年8月6日、第69期順位戦B級2組3回戦で桐山清澄に勝ち、55歳にして公式戦通算600勝(将棋栄誉賞)を達成(史上42人目)。七段以下の棋士の達成は史上唯一。第20期(2012年度)の銀河戦本戦Bブロックの最多勝者となり、決勝トーナメント進出。当年度出場棋士のなかでは最年長(57歳)だった。第64回(2014年度)NHK杯将棋トーナメントに出場(12回目)。やはり出場棋士のなかで最年長(59歳)。昇段規定は、"将棋の段級" を参照(ただし、四段昇段は旧規定)。竜王戦と順位戦のクラスは、"将棋棋士の在籍クラス" を参照。
出典:wikipedia
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