パシフィック・レーシング(Pacific Racing)は、かつて存在したイギリスのレーシングチーム。1994年から1995年にかけてF1世界選手権に参戦した。オーナーはキース・ヴィギンス。パシフィック・レーシングは1980年代よりフォーミュラ・フォードやイギリスF3選手権、国際F3000選手権などに参戦し、J.J.レート、デビッド・クルサード、エディー・アーバインなどのドライバーを輩出してきた。1991年にはクリスチャン・フィッティパルディを擁して国際F3000選手権を制覇し、F1へのステップアップを図った。当初、1993年からのF1エントリーを目指し、ドライバーはミハエル・バーテルスと契約していたが、資金難のため参戦を1年見合わせた。1994年は「パシフィック・グランプリ」としてF1に初参戦した。レースドライバーはベルトラン・ガショーとポール・ベルモンド、テストドライバーにオリバー・ギャビン。シャシーは1991年にレイナードがF1参戦を狙った際にロリー・バーンとパット・シモンズが設計したものを譲り受け、ポール・ブラウンがPR01へと改良。これにイルモアの型落ちV10エンジンを搭載した。当時はまだ珍しいほうの部類だったベネトン型の、フロントウイングを吊り下げるノーズを持つ特徴的なマシンではあったが、3年前の設計のシャシーとイルモアの型落ちエンジンのマシンは競争力に欠け、2台そろって決勝に出場したのはカール・ヴェンドリンガーのクラッシュでザウバーが欠場したモナコGPとシムテックのアンドレア・モンテルミーニがクラッシュしたスペインGPのみだった。ベルモンドが予選を通過したのはこの2回だけ、ガショーも決勝進出は5回だけだった。第7戦フランスGP以降は、資金難でマシン開発が停止した影響で2台とも予選通過できず、結局完走は無しに終わった。1994年は重大事故が相次いだため、シーズン中にも次々とレギュレーション変更が実行され、元々準備不足であるチームをさらに苦しめた。特に第4戦スペインGPでは、ディフューザーのサイズ縮小、フロントウィングの最低地上高変更、ボーテックスジェネレーターの禁止などがレースウィークに急遽決まるなど、チームはピットでの改修作業を余儀なくされた。1995年は状況を打開すべく、破綻したロータスの名称権を買収して「パシフィック・チーム・ロータス」として参戦した。日本の東急グループを率いる五島ファミリーが資本参加し、東京に「パシフィック・アクセス」なる事務所を設立してアジアのスポンサー獲得に動いた。また、ガショーも自己資金を投入して共同オーナーになるなど体制強化を図ったが、相変わらずの資金難が続いた。ドライバーはモンテルミーニとペドロ・ラミーの布陣。ガショーは共同オーナーとしてマネージメントに専念する意向で、開幕前には「今はチームのマネージメントに全力を注ぐことがボクのモチベーション」と語っていたが、開幕直前にラミーがシートを失い、さらにスポンサーを持ち込める有能なドライバーが見付からなかったため、序盤戦と終盤戦では自らステアリングを握ることとなった。マシンはフランク・コパックによる吊り下げウイングを廃止したオリジナルシャシーに、フォードEDエンジンを搭載したPR02を登場させた。開幕戦でモンテルミニが完走するなどある程度の進化は見せるが入賞はできず、シーズン途中でスポンサーマネーを持ち込んだジョバンニ・ラバッジやジャン・デニ・デレトラーズを起用。パシフィックGPと1995年日本GPでは日本の若手有望株の一人であった山本勝巳を起用しようとするも、スーパーライセンスは発給されず断念した。最終戦オーストラリアGPでガショーが8位で完走したのが最高成績で、結局この年いっぱいでF1を撤退した。F1撤退後、パシフィックは1996年から1997年まで国際F3000に参戦し、クリスチアーノ・ダ・マッタやマルク・ジェネがドライブした。1997年から1998年にかけてはBRM・ニッサンのマシンでインターナショナル・スポーツカー・レーシング・シリーズ (ISRS) に参戦。ル・マン24時間レースにも挑戦した。
出典:wikipedia
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