もんじゅは、日本の福井県敦賀市にある日本原子力研究開発機構の高速増殖炉である。研究用原子炉との位置付けから、商用原子炉と異なり、文部科学省の所管となる。MOX燃料(プルトニウム・ウラン混合酸化物)を使用し、消費した量以上の燃料を生み出すことのできる高速増殖炉の実用化のための原型炉であり、高速実験炉常陽でのデータをもとに建設された日本で2番目の高速増殖炉である。核燃料サイクルの計画の一環であり、新型転換炉ふげんと共に開発が進んでいた。日本は高速炉開発を国家プロジェクトと位置付けており、国際的にも高速炉を始めとした第4世代原子炉の研究開発において主導的な役割を果たしているとされた。もんじゅはその中心となる施設である。2011年現在、常陽及びもんじゅによって得られたデータをもとにして高速増殖炉開発の次の段階となる実証炉の設計が行われている。もんじゅは1995年に、冷却材の金属ナトリウム漏洩とそれによる火災事故を起こし、さらにそれが一時隠ぺいされたことから、物議を醸した。その後、運転再開のための本体工事が2007年に完了し、2010年5月6日に2年後の本格運転を目指して運転を再開した。しかし、2010年8月の炉内中継装置落下事故により再び稼働ができなくなった。2012年に再稼働する予定であったが、2015年夏時点は未定である(節「#歴史」を参照)。もんじゅの目的は、高速増殖炉の実用化(商用化)に向けた技術を原型炉(もんじゅ)によって開発し、その設計や建設、そして稼働の経験を通じて高速増殖炉の発電性能および信頼性・安全性の実証、また高速増殖炉の経済性が将来の実用炉の段階において既存の発電炉に対抗できる目安を得ることであり、高速増殖炉の研究開発の場として今後の利用が予定されている。もんじゅは日本原子力発電株式会社敦賀発電所と関西電力株式会社美浜発電所の2つの発電所と接続されている。「もんじゅ」の名は仏教の文殊菩薩に由来する。若狭湾に面する天橋立南側にある天橋山智恩寺の本尊から来ているといわれる。新型転換炉「ふげん」ともに「文殊、普賢の両菩薩は、知慧と慈悲を象徴する菩薩で、獅子と象に乗っている。それは巨獣の強大なパワーもこのように制御され、人類の幸福に役立つのでなければならない」と願いを込めて命名された。「もんじゅ」の命名は、他の新型動力炉「常陽」「ふげん」とともに動力炉・核燃料開発事業団(動燃)の副理事長・清成迪(きよなり・すすむ)が発案したものであるが、その発案に当たっては、当時の仏教学界や国文学界の首脳とも相談したということが当時の広報室長・関根瑛應の証言で判明している。仏教学界では宮本正尊、国文学では土岐善麿の名前が挙げられている。巷間でよく言われる曹洞宗の大本山永平寺の貫首(住職)が名付け親という話、清成に助言したというのは誤情報である。永平寺の機関誌『傘松』第630号(1996年3月)では、貫首命名説を訂正・謝罪しており、命名の時期が1970年(昭和45年)ということからも成り立たない。ここでは公式の表記との比較のため元号も併記している。もんじゅの原子炉設置許可について、周辺住民32人が国(経済産業大臣)による設置許可の認可を無効とすることを求めた行政訴訟(1985年提訴)が争われ、2003年1月27日には名古屋高等裁判所金沢支部がもんじゅの設置許可処分が無効であることを確認する判決を一度下した。その後の2005年5月30日、最高裁判所は「国の安全審査に見過ごせない過誤や欠落があったとは言えず、設置許可は違法ではない」との判決を下し、国の勝訴が確定した。一方で、もんじゅの建設・運転の差止めを求めた民事訴訟も起こっていたが、2003年に原告が訴訟を取り下げた。1995年12月8日に発生したもんじゅのナトリウム漏洩火災事故において、事故現場の様子を撮影したビデオの一部を隠したことが発覚し、マスコミに追及された。ビデオ隠しが判明した時期は1995年12月25日だったにも関わらず、動燃が1996年1月12日に開いた隠蔽公表の会見では会見直前の「1996年1月10日」と虚偽の発言を行った。この会見の翌日の1996年1月13日、ビデオ隠しの特命内部調査員としてマスコミ報道の矢面に立たされていた動燃総務部次長の遺体が発見された。警察発表で自殺とされ、その後、マスコミの追及は尻すぼみとなっていった。遺族は自殺の原因を動燃にうその記者会見を強要されたためであるとして損害賠償請求訴訟を起こしたが、2012年1月31日付けで敗訴が決定した。もんじゅの冷却材である金属ナトリウムは200℃以上の高温で運用されており、空気中の酸素に触れるだけで自然に発火するため、取り扱いにあたっては非常に注意を要する。1995年、二次冷却系で温度計の破損によって金属ナトリウムが640kg±42kg(推定)が漏洩し、火災となった。この事故は国際原子力事象評価尺度ではレベル1と判定されたものの、事故への対応の遅れや動力炉・核燃料開発事業団(当時)による事故隠しが問題となった。この事故以来、もんじゅは運転休止状態が続き2010年まで運転を停止していた。12月8日、もんじゅでは運転開始前の点検のための出力上昇の試験が行われた。その後目標の熱出力43%を目指し、出力を徐々に上げていたところで事故が起きた。原子炉を急激に停止させる「緊急停止」は炉に負担をかけるため、炉を保護する為に緩やかな出力降下を目指した。その後、非常に大きなベル音が連続して鳴動するため、運転操作の妨げになるとしてベルの停止操作を行った。そのため、別の火災報知器がさらに発報していることに気づくのが遅れた。翌日午前2時、事故現場に立ち入り状況を確認したところ、高融点の鋼鉄製の床が浸食され、さらにナトリウムが周囲にスプレー状に飛散していた。なお、漏洩した金属ナトリウムは二次冷却系のもので、放射能漏れは無かった。事故後の会見はもんじゅのプレスセンターで行い、動燃は事故当時撮影した1分少々のビデオを公開した。しかし数日後、これがカット編集されたビデオであることが発覚し、マスコミに指摘を受けた動燃は未公開部分を順次公開。当初のカット編集は、報道によるメディアスクラムや反原発団体による糾弾を懸念した職員の判断で行われたものとされるが、これがマスコミ等に「情報隠蔽ありき」と受け取られたことで結果的に裏目に出る形となり、より強い不信を煽る事となった。数日後、動燃は事故発生直後の現場のビデオがさらに存在すると発表。おびただしい量のナトリウムが施設内に飛散した映像が与えた衝撃は大きく、幾度にも渡り新聞やTVニュースで使用され、報道が過熱した。その中で報道の矢面に立たされた動燃総務部次長が死亡し、死因は自殺とされた。事故から1か月経った1996年1月8日未明、前夜から行われていた漏洩箇所のX線撮影により、ナトリウム漏洩の明確な原因が明らかになった。それまで最も有力だったのは、ナトリウムの温度を測定する熱電対温度計の収めてある「さや(ウェル)」と配管の接合部の破損であった。「さや」は、ナトリウムの流れる配管の中に棒状に突出しており、直径3.2mmの温度計を保護する役割を果たしていた。この「さや」は頑丈に作られており、ナトリウムの流速程度の機械的負荷で折損するとは考えにくかったため、破損箇所があるとするなら接合箇所だろうと考えられていた。しかし、X線写真によれば「さや」の先端は途中のくびれ部分から完全に折損しており、中の温度計は45度ほど折れ曲がった状態で管内にむき出しになっていた。日本原子力研究所が調べたところ、ナトリウムの継続的な流れにより「さや」に振動が発生、徐々に機械的強度が衰え、折損に至ったことがわかった。さらに、火災報知器が広範囲で発報した理由として、ファン付きの換気ダクトによって白煙の拡大を招いていたからであったことが明らかになった。直径60cmのナトリウム管路の下方に、直径90cmの換気ダクトがある。事故当時、換気ダクトのファンは作動したままになっていた。原子炉停止後ナトリウムの抜き取り作業が進み、ナトリウムの液位が下がった事でようやく自動停止した。また、管路周辺にスプレー状にナトリウムが飛散していた事も予測できない事態であった。高速増殖炉では金属ナトリウムは加圧されていないため、スプレー状に飛散するほどには勢いよく噴出しない。しかも、問題の配管は全て保温材で覆われており、仮に管内が多少加圧されていても、スプレー状の飛散には至らないはずである。調査の結果、換気ダクトのファンに付着したナトリウムが遠心力で周囲に飛散していたことがわかった。事故発生直後、運転員はゆるやかな出力降下による原子炉停止を行っていたが、これは運転マニュアルに違反した対応だった。運転マニュアルには、火災警報が発報した場合は直ちに原子炉を「緊急停止」するように記載されていた。再開は4回ほど延期されたが、経済産業省・原子力安全・保安院・内閣府・原子力安全委員会が2010年3月に安全性を「妥当」と判断し、2010年4月28日に福井県知事も運転再開を了承。2010年5月6日、停止後から延べ14年5か月ぶりに運転を再開した。5月8日には出力0.03%で核分裂反応が一定になる臨界に達する。予定では、2011年度に出力40%に上げたのち、3段階で出力を引き上げる性能試験を3年間行うとされており、発電は2011年5月ごろから開始し、本格運転に入るのは2013年4月になる見込みであった。再開後も性能試験中に誤警報や故障などのトラブルが頻繁に起こっており、またトラブルは大小問わず迅速に公表するように念を押されていた。だが、再開初期には公表の遅れがあったり、2010年5月10日には操作方法を熟知していない運転員による操作ミスで制御棒の挿入が中断するといったトラブルも起こっている。相次ぐ機器のトラブルや一部工程での当初計画より時間がかかり過ぎることなどに対応するため、運転資格を持つ運転員の再教育や試験担当者の増員、「運転管理向上検討チーム」の設置が発表された。2010年8月26日、炉内中継装置をつり上げ作業中に落下させる事故が起きた。日本原子力研究開発機構は2010年10月1日「落下による影響はない」として装置の引き揚げ作業を続行し、同年10月4日(直後に中断)と13日に24回の引き抜き作業を試みるもののいずれも失敗した。。炉内中継装置は燃料を燃料交換時に仮置きする金属製の筒で、原子炉容器にふたをしている鋼製の遮蔽プラグの穴を通して出し入れする。直径46cm・長さ6mの2本の筒を8本のピンで縦につないだ構造で、全長12m、重さ3.3トン。下から約5メートルの部分に接合部があり、この接合部あたりで抜けなくなっていた。また炉内はアルゴンガスや不透明なナトリウムに覆われており、変形部分を直接目視することができず、作業は難航した。その後、以下の推移を経て2011年に装置の引き抜きに成功したが、2015年現在、運転再開には至っていない2012年(平成24年)11月、日本原子力研究開発機構は、保安規定に基づく機器の点検漏れが9679個あったことを原子力規制委員会に報告した。2013年(平成25年)2〜3月に原子力規制委員会が立ち入り・保安検査したところ、非常用発電機などの重要機器に関する更なる13の点検漏れが発覚した。これらを重くみた原子力規制委員会は、2013年5月13日、原子炉等規制法に基づき、日本原子力研究開発機構に対し、もんじゅの無期限の使用停止を命じる方針を固めた。同月17日には原子力研究開発機構理事長の鈴木篤之が引責辞任。同月30日には試験運転再開準備の停止が正式に命令された。2014年1月には、この点検漏れと指摘を受けて点検計画の内容を確認中だったにも拘らず、“見直し完了”を原子力機構が規制委員会に報告していたことが発覚した。2015年(平成27年)3月23日、日本原子力研究開発機構は同年9月までの運転停止解除を目指して、文部科学大臣に対して「点検漏れを発生させない体制を再構築した」とする報告書を提出した。しかし3月2日から実施していた保安検査で、ナトリウムの流れる原子炉一次冷却系の配管に関する劣化状況の検査や、補助冷却系の配管肉厚検査に不備があったことが判明し、3月25日に公表された。これらの配管は、原子炉の安全上特に重要な「クラス1」に分類されている。2014年(平成26年)9月に原子力規制庁が立ち入り・保安検査をしたところ、ナトリウム漏洩火災事故に際して設置され、2007年に運用が開始されていた監視カメラ180基のうち50基余りが故障し、映像が映らない・左右に動かない等の状態にあることが判明した。ものによっては故障から1年半以上放置されていたものもあったが、原子力機構は「故障のことは知っていたが、カメラはすでに製造が終了していて交換できなかった」としている。もんじゅを始めとした高速増殖炉に使用されるMOX燃料は、プルトニウムを含んでいる。もんじゅのMOX燃料は茨城県東海村にある日本原子力研究開発機構の東海研究開発センター核燃料サイクル工学研究所から出荷され、常磐自動車道・首都高速道路・東名高速道路・名神高速道路・北陸自動車道を経て、福井県敦賀市のもんじゅまでトラックで輸送される。この際、テロを警戒して警備車両や警察車両が伴走するが、特別な交通規制はなく、一般の乗用車やトラックと共に高速で走行する。輸送容器(MONJU-F型)は、9mからの落下衝撃に耐え、800℃・30分の条件下に耐えうるものであるが、実際の高速道路での事故の衝撃やトンネル火災の温度はそれ以上になることが心配されている。もんじゅに対する批判は、内閣府原子力委員会が1997年に設けた高速増殖炉懇談会の席上で、事務局の手による簡易な箇条書きではあるが、公開されている。この批判意見に関して懇談会で議論がなされたが、最終的な報告書では開発継続への反対意見が付記されたものの、従来の開発推進の方向性を肯定する結論となっている。1994年5月24日、郵政省(当時)が「高速増殖原型炉『もんじゅ』臨界記念」の記念切手を発行している。
出典:wikipedia
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