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龍造寺家晴

龍造寺 家晴(りゅうぞうじ いえはる)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。肥前国佐賀藩の重臣。龍造寺四家の一つ・諫早家の始祖。天正8年(1580年)の筑後国柳川城攻めにおいて第三陣を率いて出陣した。龍造寺隆信死後、鍋島直茂が佐嘉城に移ると代わって柳川城主となる。その後龍造寺氏の動揺に合わせ、大友宗麟が立花道雪、高橋紹運を柳川城に派兵したがこれを防いでいる。また、龍造寺氏にとっては大恩ある蒲池鑑盛の嫡子・鎮漣を謀殺し、その一族を皆殺しにした隆信とはやや距離を置き、蒲池氏一族の蒲池貞久を家臣にしている。主君・隆信の跡を継いだ龍造寺政家は、豊臣秀吉の九州平定による国割りにより、肥前7郡の所領を安堵されたものの筑後の所領を没収された。そのため柳川城は立花宗茂の与力、三池鎮実に給され、家晴は所領を失った。家晴は大坂への帰途にあった秀吉を追い、下関の赤間関にて嘆願した結果、九州平定に参陣しなかった肥前高来郡伊佐早領主・西郷信尚の所領を没収して与えられることが決せられた。家晴は自軍の2,500騎、政家よりの援軍1,000騎を併せた軍勢で伊佐早を攻め、西郷信尚を居城の高城城から島原に追って所領とし、地名の字を諫早に改めた。龍造寺氏の領国の実権を握った鍋島氏と龍造寺隆信の孫・高房の相克における幕府からの呼び出しに際しては龍造寺信周、龍造寺長信(一説には息子の多久安順)と共に上京し、鍋島氏への権力移譲を容認した。以後、家督を継いだ嫡子の直孝より龍造寺の名を憚り諫早へと改姓し、幕末まで龍造寺四家の一つとして存続した。

出典:wikipedia

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