平田 鉄胤(ひらた かねたね、1799年12月31日(寛政11年12月6日) - 1880年(明治13年)10月25日)は、江戸時代後期の日本の国学者。伊予国(愛媛県)出身。新谷藩主・加藤泰理家来・碧川衛門八の長子で篤眞(あつま)と称す。文政7年(1824年)1月15日、国学者平田篤胤の養子となり、篤胤の娘おてう(後に織瀬と改名した)と結婚し、名を篤実(あつさね)、通称内蔵助(くらのすけ)のちに大角(だいがく)と改め、篤胤の後継者となる。明治元年(1868年)、神祇官判事に任じられ、明治天皇の侍講となり、ついで大學大博士に進み、大教正となる。著書に『大壑君御一代略記』『祝詞正訓』『毀誉相半書本教道統傳』『児の手かしハ』その他がある。篤胤が生前に残した多額の借財をすべて返済し、ひたすら古道の普及と顕彰に努めた。享年82。鐵胤の人物は温厚・学者肌・学問一筋の勉学家であり、人と競わず緻密で物事をおろそかにせず、生一本の人であった。8歳にして手習いを始め、10歳には書を学び素読を習い、15歳で元服、20歳頃には和学を学び、その師の指導により古今集に親しみ、やがて本居宣長の存在を読書によって知り国学に関心を抱くようになった。文政3年(1820年)夏に、篤胤の『霊能真柱』『古史成文』『古史徴』その他に目を通し国学を志した。平田門下に連なる事を希望し、正式に入門することになる。古道普及の為に東奔西走しては門人の拡張や復古神道の教義普及に努め、父であり師でもある篤胤の遺教を普く宣布した。また鐵胤は篤胤の死後、放漫な家政を整理し莫大な借金の返済を成し遂げたのみならず、平田家の財を築き上げるに至った。その蔭には、銕胤の妻である篤胤の娘、織瀬こと千枝子の内助の功があったと言う。実弟の好尚も、文政5年(1822年)5月15日に兄の影響により16歳のとき氣吹舎(平田塾)に入門している。兄同様弟も求道の念篤く学問好きで後に師の遺著『大道或問』を編集して上梓し、安政2年(1855年)には自ら神代巻を大要した『稽古要略』『神武沿革考』を著している。また「三神山餘考」や「大道或問」など師の著作の序文も記しているが、篤胤門下平田塾に於ける高弟の一人でもある。篤胤の未完の古史伝は、28巻までできあがり、29巻・30巻の一部は書きかけで、それ以降は手付かずの状態であった。当初銕胤は学統を継承する篤胤長男の延胤による古史伝の完成を所望していたが、明治5年(1872年)1月24日に延胤は45歳で逝去した。銕胤は平田門下とも縁のある大洲の矢野玄道に白羽の矢をたてた。最初は鄭重に断った玄道であったが、三顧の礼を尽くす銕胤の熱意に、ついに承諾する事となる。その原因の一つは、篤胤から不思議な知らせを夢で受け取ったからだと言われている。その依頼文書簡は次のような文面であった。当初、玄道は東京において古史伝の草稿に取り掛かる予定でいたが、神道本局からの教典編集の依頼や種々の著述、篤胤の遺書の校訂などもあり、京都で執筆することに改める。この時期重病に罹り、古史伝の続行は思うように捗らなかったようだが、古史伝の第29巻上・中・下並びに第30巻の4冊を完成させている。明治12年(1879年)に皇室制度やその他に関する調査も一段落した。そんな折に重病だった銕胤が古史伝の完成を願いつつ逝去した。玄道は深く感じ入る事もあって意を決し、ようやく7、8年をかけて、成文百六十四段(第37巻)までの註釈をほどこし、篤胤の念願であった古史伝を明治19年(1886年)9月に遂に完結させた。以後も古史成文の学習を続けて頂く様に、畏友角田忠行や門弟の木野戸勝隆を始めとして弟子達がお願いしたが、聞き入れず、郷里の大洲の地に帰郷し、翌年の5月19日に逝去する。篤胤は若い頃より、この世界が幽顕一如で構成されていると考え、その本質をなんとか解明する事が出来ないものかと常日頃から思案し「霊能真柱」「古史成文」「仙境異聞」「古今妖魅考」他数多の本の中に次々に書き表して証明しようとした。文化3年(1806年)頃に江戸市中に冥府と往き来できると言う天狗少年仙童寅吉が出現し、後に知人を介して本人から直接異境の有様や幽事の秘め事などを聞き質した結果、幽界冥府が厳然と実在し、大なり小なり深く現界に影響を及ぼしている有様に気づき、篤胤自らが常日頃考えていた幽顕の理念と符節融合する事を悟り、幽顕一如を再確信すると共に敬神の念を更に深めて古道を敷衍し実践して行く事となる。篤胤が気吹屋として最初に入門の弟子を迎えたのは文化元年で、以後陸続と門人は増えていった。特に文化から文政年間にかけては、俊英な弟子達が出揃った。中でも出羽国の佐藤信淵、駿府の柴崎直古・新庄道雄、山城国の六人部是香、上野国の生田万、下総国の宮負定雄・宮内嘉長・芦澤洞栄、そして平田鐵胤など。彼らは篤胤の八家の学問を吸収するとともに、篤胤同様に死後の世界の存在に深く関心を抱いており、夫々の弟子達がさらにその研究を敷衍し、各人が独自の解釈に於ける幽冥観の認識を持ち、其々の立場から幽冥思想を展開して敷衍して行く事となる。中でも山城の向日神社神官・六人部是香が篤胤の幽顕弁を敷衍し講説した産土信仰や顕幽順考の論は幽冥の神秘を穿つ貴重な論考として知られている。篤胤の提唱する古道に於ける幽顕の弁や神仙思想とは、古来から日本に伝播した玄学(神仙道)の事であり、仏教に顕密があるように、神道と神仙道とは実は密接なる物心一如の如き相関関係にある、と篤胤は考えた。その古道学とは、日本古来の神代思想と中国の老荘道家の思想を融合した皇国伝来の独自な神仙道の思想である。この日本古来から連綿と伝わるはずの教義を広める為に、山城の是香は篤胤の理論を更に敷衍して、郷里の地で私塾を開き活躍することとなるが、是香同様にその学才を高く評価した篤胤が娘の養子にと嘱望していた生田万は儚くも夭折してしまった。この前後の時期は篤胤にとって最も厳しい試練の時節でもあり、最愛の妻織瀬を亡くし、息子二人も夭折した。悲しみ覚めやらぬ妻への思慕と日々の生活苦に喘ぎ苦悶した篤胤ではあったが、やがて一陽来復し、周囲の忠告を受け容れて門人の富豪・山崎篤利の養女りよ(お里勢)と再婚し後妻として迎える。この時節には暗雲もしずかに去り往きて、伊予から春秋に富む二人の兄弟が篤胤の元に入門した。後になって碧川兄弟の兄の方を娘おてう(千枝改名して織瀬)が見初めて、篤胤も同意し嗣子として平田家に入り婿する事を許可される。やがて平田学を継承する鐵胤の誕生である。25歳で婿入りした鐵胤は、篤胤亡き後に借財や負債をすべて返済し、平田宗家伝来の復古神道の道を守り更に進展させた。本来学者肌で研究熱心な勉学家あったが、自著を書き著すゆとりがなかったと言われている。父篤胤の幽冥・死後の世界の研究は、失われて埋没され、そして封印された古代信仰の雛形を元の姿に復元させる為の学問であり、其の為に古道の道に足を踏み入れて幽冥の存在を立証しようと試みていたものだが、鐵胤もまた、文政3年(1820年)頃に知友屋代弘賢を通じ下谷長者町の博学の好事家山崎美成を介在して、仙童寅吉の姿形を目の当たりに見て、父篤胤が唱える幽冥界の実在を確認し、以後は自らも寸暇を惜しみ、不可解な奇譚の情報やその他の幽冥関連の資料類の蒐集に没頭する事になる。玄学に関する資料を含め、篤胤が蒐集した書籍や文書草稿や書簡類、物品、刷り物、軸物は膨大な数に上った。篤胤逝去の後は、鐵胤の所持するところとなる。その平田家に秘蔵されていた篤胤関係文書は、明治の初期頃に修史局に没収されて留め置かれていた。後にこの関係文書は差し戻されて、以後は平田宗家にひっそりと秘蔵されていたのである。門弟の井上頼囶や久保季玆は、平田家門外不出の文書を検したらしい。学統四代目継承者平田盛胤の養父が延胤であり、延胤の養父が鐡胤である。宗家に大切に秘蔵されていた平田文書は、東京代々木の平田神社が所蔵していたが、平成14年~16年にかけて、篤胤の関係文書は千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館が所蔵する処となる。近年歴史博物館より、「平田篤胤関係資料目録」宮地正人編「平田国学の再検討(一)(二)(三)」を研究報告としてまとめられ公表している。平田家には廿五部秘書というものがあり、外書に対する内書として厳重に区別されていた。この他見厳禁の書籍類は、天文や易学・密教などを除くと大半が道家玄学の書であり、仙境異聞附再生記聞なども含まれていた。仙童寅吉と邂逅した篤胤は、年来の疑念も晴れた。やがて寅吉少年を幽冥から啓導されている、岩間山の山人・杉山僧正なる異人に興味を抱き信仰を重ねていく間に、道家の玄学思想に魅せられて、我が国に伝来する古道の思想と道家玄学の思想を折衷した神仙道の教義をうち立て、弟子達にこの秘教密儀的な秘儀として伝授することとなる。その教義の奥伝として、一部の熱心な道士に道家尊崇の五岳真形図を伝授していた。この五岳図については、平成16年に出版された米田勝安・荒俣宏編 平凡社 別冊太陽 平田篤胤の中で一部写真公開されている。又篤胤の神仙研究と題して未公開の幽境の絵図類も公開している。篤胤の神仙道・玄学研究に関する論考は、玉川大学の小林健三著『平田神道の研究』の中で詳しく論じられている。嘉永の時代に、紀州若山在住の若い町医者島田幸安は、その城下町で「神力睹薬調合所」を開き、彼の神通力と神の導きによる薬の調合は実に霊験あらたかで、和歌山市中ではかなりの評判を呼んでいた。紀州藩の下級藩士参澤宗哲は天保11年8月10日本居内遠の紹介によって、鐡胤の主宰する平田門に入門しているが、宗哲は地元の住民達の噂話を伝聞することによって幸安の存在を知る事になる。宗哲は師である平田篤胤が、30年前に調べあげた仙童寅吉事件のことが深く記憶の底にあった。縁あって幸安の話を知人の同心組頭茨木某より更に詳細に伝え聞くや感ずる処もあって、早速若山の島田幸安の寓居に訪ねて行き正式に入門の誓詞を提出して直接教えを乞う事になる。師である幸安の話によると、嘉永4年頃に夢中に枕元に立った老人に導かれて九州の赤山(霧島山)に連れて行かれそこで、その老人は清浄利仙君と名乗る仙人を紹介した。利仙君は仁徳天皇時代の人で、少名彦の神の導きで仙界に入り、齢は千五百歳との事であり、その導きを受けている神様の風貌から妻帯されている妻の名前まで聞かされる。参澤は奇想天外な話を聞かされ、驚きを隠せなかった。早速この情報を江戸の平田宗家に文に認めて伝達した。父からの薫陶により、玄学には特に興味を抱いていた銕胤が、この情報に飛びつかない筈はない。嘉永6年9月6日正式に入門の手続きを幸安宛てに提出している。また三度の飯よりも神秘好きな房総の宮負定雄も安政元年12月9日に香取郡から和歌山の島田の元へ訪れているが、既に幸安は消息を絶っていた。この日を境に、嘉永年間に入門した愛弟子の参澤宗哲と紀州で邂逅し意気投合、安政6年に貞雄が死ぬまでの五年間、相互の交流や互いの自著や情報を交換したりして交遊関係を続けている。幸安の生業は当世風に言えば、患者の病に応じて治療を施し皇漢薬の調剤をする町医者の事である。複雑な悩みを抱える相談者には、自らの鎮魂に依り神懸りして託宣を述べ、神霊界に鎮まる東海司大神仙様からの御幽導によって、人の前世や行く末などを的確に予言したり、処世の大道を諭す、スビリチュアル・カウンセリングのようなものを行っていたようである。ある時期を境として突然幸安は消息不明となる。一説によると、生きながらにして異界へ出入したと言う。生前に師幸安からの口授を聞き書きした、宗哲の『神界物語』は全20巻にも及ぶが、この神界の有様を記録した内容の一部が物議をかもす事となり、安政末年の間に於いて平田宗家との間に軋轢が生じた。銕胤は全平田門下に対して、参澤宗哲の著書を焚書し以後流布させないように指示した。そして参澤を平田門から破門したのだ。一説によると一部の平田門下のものが、参澤の力説する神仙思想に魅せられて彼の主催する塾に入門したり、参澤を崇めるようになったからだとも言われているが詳細は藪の中であります。よってこの神界物語の版本は市場にでる事はなく、出ても数巻の写本でのみ伝わっていると聞く。
出典:wikipedia
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