黒潮(くろしお/くろしほ)は、日本海軍の駆逐艦。一等駆逐艦「黒潮」は陽炎型駆逐艦の3番艦。竣工直後は第二水雷戦隊麾下の第16駆逐隊、続いて第15駆逐隊に所属して、フィリピン攻略戦、蘭印作戦(スラバヤ沖海戦)、ガダルカナル島攻防戦(鼠輸送、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦、ルンガ沖夜戦)等に参加。本艦は1943年(昭和18年)5月8日、コロンバンガラ島への輸送作戦中に触雷し、第15駆逐隊の姉妹艦2隻(陽炎、親潮)と同時に沈没した。「黒潮」の艦名は海上自衛隊の潜水艦として継承され、ガトー級潜水艦「くろしお(旧名ミンゴ)」、うずしお型潜水艦「くろしお」、おやしお型潜水艦「くろしお」が就役した。陽炎型駆逐艦3番艦「黒潮」は仮称19号艦として藤永田造船所で1937年(昭和12年)8月31日に起工。同年12月9日、藤永田造船所で陽炎型6番艦「夏潮」が起工される。1938年(昭和13年)4月15日、日本海軍は舞鶴海軍工廠で建造中の駆逐艦を『陽炎』、浦賀船渠の同型駆逐艦を『不知火』、藤永田造船所の本艦を『黒潮』、東京石川島造船所の測天型敷設艇2番艇を「白神」と命名する。同日附で艦艇類別等級表に『陽炎型駆逐艦』が新設され、3隻(陽炎、不知火、黒潮)は同型に類別された。同年10月25日、「黒潮」は進水。1939年(昭和14年)2月23日、藤永田造船所で「夏潮」が進水。本艦と同時に艤装工事が進められる。同年4月11日、藤永田造船所で陽炎型11番艦「浦風」が起工。10月16日、日本海軍は吹雪型駆逐艦22番艦「響」駆逐艦長岡本次郎少佐を黒潮艤装員長に任命する(後任の響艦長は、白露型4番艦「夕立」艦長岡三知夫少佐)。10月22日、藤永田造船所に設置した黒潮艤装員事務所は事務を開始する。1940年(昭和15年)1月20日、佐世保海軍工廠で陽炎型8番艦「雪風」が竣工、呉へ回航される。「雪風」竣工から一週間遅れた1月27日、陽炎型3番艦「黒潮」は竣工。岡本中佐も黒潮駆逐艦長(初代)に任命される。藤永田造船所に設置されていた黒潮艤装員事務所を撤去。同日附で日本海軍は、陽炎型2隻(雪風、黒潮)により第16駆逐隊(司令島崎利雄大佐)を編制。初代司令駆逐艦は「雪風」。2月15日、神戸川崎造船所で陽炎型7番艦「初風」が竣工。同日附で第16駆逐隊に編入され、呉に移動する。2月24日、「黒潮」も大阪から呉に回航。第16駆逐隊は3隻(黒潮、初風、雪風)を揃えた。第二艦隊・第二水雷戦隊に所属。10月11日、第16駆逐隊3隻(初風《司令駆逐艦》、雪風、黒潮)は紀元二千六百年記念行事に伴う紀元二千六百年特別観艦式に参加する。同駆逐隊は、第三戦隊、第七戦隊、第八戦隊、第8駆逐隊、第18駆逐隊と共に第三列に配置されていた。10月26日に陽炎型9番艦「天津風」が、12月15日に陽炎型10番艦「時津風」が竣工して漸次第16駆逐隊に編入されると、「黒潮」は11月15日附で第15駆逐隊に転出した。第15駆逐隊は8月31日附で、陽炎型3隻(4番艦親潮、5番艦早潮、6番艦夏潮)によって編制されていた。黒潮編入時の第15駆逐隊司令は植田弘之介大佐、本艦の編入で定数4隻を揃えた。同日附で岡本中佐(黒潮艦長)は海軍水雷学校教官へ転任、吹雪型8番艦「白雲」艦長前川新一郎中佐が、黒潮駆逐艦長(二代目)に任命される。第15駆逐隊も第二艦隊・第二水雷戦隊所属となる。1941年(昭和16年)6月18日、第15駆逐隊司令は植田大佐から佐藤寅治郎大佐(前職、第4駆逐隊《嵐、野分、萩風、舞風》司令)に交代した(植田は9月20日より日本丸監督官)。6月23日、連合艦隊の第16回応用訓練が終了した午後6時頃、日向灘で同型艦「夏潮」(15駆僚艦)、朝潮型駆逐艦8番艦「峯雲」(第9駆逐隊)、本艦の多重衝突事故が発生。「黒潮」は後進をかけた「峯雲」に追突し、艦首部分に損傷を受けた。修理は呉工廠において約1ヶ月間かけて行われた。7月26日、修理完了。9月10日、前川中佐(黒潮艦長)は海軍兵学校副官に補職。日本海軍は、睦月型駆逐艦6番艦「水無月」艦長、古鷹型重巡洋艦2番艦「加古」水雷長、峯風型駆逐艦12番艦「帆風」艦長等を歴任し、当時は吹雪型13番艦「朝霧」艦長だった宇垣環中佐を黒潮駆逐艦長(三代目)に任命する。9月15日、第二水雷戦隊司令官五藤存知少将は第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)司令官へ転任(翌年10月、サボ島沖海戦で青葉大破時に戦死)、後任の二水戦司令官は第六潜水戦隊司令官田中頼三少将となった。1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦時、「黒潮」は引続き同型艦3隻(親潮、早潮、夏潮)と共に第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦/「神通」)・第15駆逐隊(司令官佐藤寅治郎大佐)に所属、比島部隊(指揮官高橋伊望中将/第三艦隊司令長官)の指揮下にあった。第二水雷戦隊の麾下駆逐隊には、陽炎型編制の駆逐隊が15駆のほかに2つ所属していた。第16駆逐隊(初風、天津風、時津風、雪風)と第18駆逐隊(陽炎、不知火、《朝潮型駆逐艦:霞、霰》)である。このうち第18駆逐隊は第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将:旗艦阿武隈)の指揮下にあって南雲機動部隊警戒隊として真珠湾攻撃に参加しており、第二水雷戦隊本隊とは別行動であった。開戦と同時に第15駆逐隊はダバオ、ホロ攻略作戦に参加した。1942年(昭和17年)1月4日、メナド攻略作戦に参加し、以降、ケンダリー攻略作戦、アンボン攻略作戦、マカッサル攻略作戦に参加。一連の任務に従事中の2月8日、マカッサル沖で輸送船団護衛中の第15駆逐隊(夏潮、親潮、黒潮)は米潜水艦「」に襲撃される。「黒潮」は、魚雷が命中して航行不能となった「夏潮」の曳航を行うも、2月9日朝になり浸水が進み「夏潮」は沈没した。同艦は陽炎型はじめての喪失艦となる。第15駆逐隊は司令駆逐艦を「親潮」に変更し、しばらく陽炎型3隻(黒潮、親潮、早潮)編制で行動を続ける(夏潮は2月28日附で第15駆逐隊より除籍)。以後、クーパン攻略作戦、ジャワ南方機動作戦に参加。3月15日、スラウェシ島スターリング湾を出港し、日本本土まで空母「加賀」(前月、パラオ入港時に座礁して艦底を損傷中)を護衛した。3月22日、佐世保に到着。4月17日、呉を出撃。フィリピン方面へ進出中の4月18日夕刻、第15駆逐隊はドーリットル空襲に遭遇。「黒潮」は宮崎県都井岬沖でB-25爆撃機に対して主砲10発と機銃31発を発射したが、戦果は無かった。一連の空襲に対処したあと、15駆はフィリピン、カガヤン攻略作戦に参加。5月10日、第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)はマニラを出港し、内地帰投中の翔鶴型航空母艦1番艦「翔鶴」(同艦は5月8日の珊瑚海海戦で大破、損傷中)及び同行駆逐艦2隻(夕暮、漣)と合流、5月17日呉軍港に到着した。6月上旬のミッドウェー海戦における第二水雷戦隊は、攻略部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)指揮下にあって、輸送船団の護衛に従事した。6月20日、桂島泊地(瀬戸内海)に戻る。7月16日、呉を出撃してB作戦に参加。ペナン沖で対潜警戒活動を実施。7月5日、アリューシャン方面作戦に従事中の二水戦・第18駆逐隊3隻(不知火、霞、霰)は、米潜水艦グロウラー("USS Growler, SS-215")に雷撃され、大損害を蒙った(霰沈没、不知火と霞大破航行不能)。第18駆逐隊司令宮坂義登大佐は更迭される(後日、予備役に編入)。7月15日、陽炎型1番艦「陽炎」は第18駆逐隊から第15駆逐隊に編入され、15駆は再び陽炎型4隻(黒潮、親潮、早潮、陽炎)を揃えた。第18駆逐隊は8月15日附で解隊された。1942年(昭和17年)8月7日以降、ガダルカナル島の戦いがはじまると、第15駆逐隊および第二水雷戦隊もソロモン諸島に投入される。ガダルカナル島への駆逐艦輸送作戦『鼠輸送』に10回従事した。10月、二水戦はヘンダーソン基地艦砲射撃、南太平洋海戦に参加。11月10日、黒潮駆逐艦長は宇垣環中佐から竹内一中佐に交代(竹内は11月6日まで吹雪型24番艦「電」艦長)。直後の第三次ソロモン海戦では、輸送船団の護衛部隊として参加する。11月21日、陽炎型5番艦「早潮」(第15駆逐隊)は単艦で第十八戦隊の指揮下に入り、駆逐艦5隻(春雨、白露、電、磯波、早潮)によるパプアニューギニアラエ輸送作戦に投入される。11月24日夜、「早潮」は空襲を受けて大破して沈没(白露による砲撃処分)。第15駆逐隊は3隻編制(親潮、黒潮、陽炎)になった。11月30日、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(駆逐艦「長波」座乗)が指揮する第二水雷戦隊(第31駆逐隊《高波、長波、巻波》、第15駆逐隊《親潮、黒潮、陽炎》、第24駆逐隊《江風、涼風》)はルンガ沖夜戦で勝利を収めるが、夕雲型6番艦「高波」(第31駆逐隊司令清水利夫大佐戦死)を喪失した。15駆2隻(親潮《残魚雷0本》、黒潮《残魚雷2本》)は田中司令官より航行不能となった「高波」救援命令を受けたが、救助活動開始寸前で米艦が接近してきたため、救援を中止して避退した。第二水雷戦隊は引続き、ガダルカナル島へのドラム缶輸送に従事。12月26日、第15駆逐隊司令は佐藤寅治郎大佐から牟田口格郎大佐に交代(佐藤大佐は、翌年2月より二水戦旗艦神通艦長。コロンバンガラ島沖海戦で戦死)。12月29日附で第二水雷戦隊司令官も田中頼三少将から小柳冨次少将(前職、金剛型戦艦1番艦「金剛」艦長)に交代。この後、田中少将は陸上部隊勤務となり、二度と海上で指揮を執ることはなかった。1943年(昭和18年)1月以降も第15駆逐隊は引き続きガダルカナル島輸送作戦を始め、各方面の作戦に参加。1月2日の第五次ガ島輸送作戦(親潮、黒潮、陽炎、長波、巻波、江風、涼風、電、荒潮)では駆逐艦「涼風」(第24駆逐隊)が空襲により中破。1月10日の第六次ガ島輸送作戦では、小柳司令官が「黒潮」に座乗して指揮をとり、一時期的に「黒潮」が第二水雷戦隊旗艦となる。この作戦では駆逐艦8隻(黒潮、巻波、江風、嵐、大潮、荒潮、初風、時津風)が参加して、第16駆逐隊の姉妹艦「初風」が米軍魚雷艇の雷撃を受け大破している。11日以降、「黒潮」はトラック泊地で待機し、第二水雷戦隊各艦もトラック泊地に集結していった。1月23日、修理を終えた軽巡「神通」がトラックに到着する。同時期、第十戦隊司令官に任命された小柳少将は第二水雷戦隊司令官職を離れ、後任の二水戦司令官は伊崎俊二少将となる。また二水戦から長良型軽巡洋艦2番艦「五十鈴」(第三次ソロモン海戦で損傷)が外れ、二水戦旗艦は同隊に復帰した「神通」に変更された。2月上旬、「黒潮」はガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)に従事する。第二次作戦と第三次作戦で、姉妹艦「舞風」(第4駆逐隊)・「磯風」(第17駆逐隊)がそれぞれ損傷したが、「黒潮」は第二次作戦で至近弾により多少被害を受けた程度であった。作戦終了後、「黒潮」は輸送船と衝突した白露型駆逐艦9番艦「江風」(第24駆逐隊)を曳航してショートランド泊地からラバウルに向かう。2月15日にトラック帰投後、僚艦「陽炎」と共に空母「隼鷹」を護衛する事になった。2月15日、隼鷹隊(隼鷹、黒潮、陽炎)は第三戦隊(金剛、榛名)、空母「冲鷹」、水上機母艦「日進」、重巡2隻(鳥海、利根)、護衛駆逐艦(時雨、大波、嵐)と共にトラック泊地を出港するが、トラック陸上基地に展開中の「隼鷹」航空隊を悪天候のため収容することが出来ず、3隻のみトラック泊地に留まった。2月16日、3隻は隼鷹航空隊を収容するとトラックを発ち、21日に呉へ到着した。以後、呉工廠で修理に従事する。2月23日附で黒潮駆逐艦長は、竹内中佐から、白露型1番艦「白露」艦長や同型「海風」艦長等を歴任した杉谷永秀中佐に交代した。1943年(昭和18年)4月2日、15駆2隻(黒潮、親潮)は横須賀に到着。4月4日、駆逐艦4隻(黒潮、親潮、漣、響)は、大鷹型航空母艦2隻(大鷹、冲鷹)と高雄型重巡洋艦3番艦「鳥海」を護衛して横須賀を出発、トラックまで護衛した。同時期、ムンダやコロンバンガラ島の部隊が栄養不良などのために戦力が低下していたため部隊の補充交代が実施されることになり、4月29日から5月8日にかけて駆逐艦による6回のコロンバンガラ輸送が行われることになった。第15駆逐隊もこの任務に投入され、4月26日にラバウルへ移動した。「黒潮」は4月29日の第一回、5月3日の第三回と参加したが、毎回同じ航路を取ったため5月6日にアメリカの機雷敷設艦ブリーズ、プレーブル、ギャンブルがブラケット水道に機雷を敷設した。5月7日17時、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)はブインから第五回の輸送に出発した。3隻は前回同様ファーガスン水道、ブラケット水道を通って5月8日1時ごろにコロンバンガラ島ビラ沖に入泊し、搭載人員、物資を下ろして帰還者を乗せると3時10分ごろに出港した。3時49分、アウェイ島北西約0.6海里で「親潮」が触雷。それを潜水艦の雷撃と考えた2隻(黒潮、陽炎)は爆雷を投下したが、4時11分ごろに今度は「陽炎」が触雷し、5時6分に「黒潮」も触雷して瞬時に沈没した。損傷した「親潮」と「陽炎」も、米軍機の空襲を受け沈没した。「黒潮」では83名の戦死者が出た。救助に向かっていた第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐指揮下の駆逐艦2隻(萩風、海風)は速報を受けて遭難現場に到着したが、生存者より3隻沈没の報告を受けて引き返した。6月1日、杉谷中佐は黒潮駆逐艦長の職務を解かれた(後日、杉谷は秋月型駆逐艦3番艦「涼月」駆逐艦長等を歴任)。6月20日、陽炎型3隻(黒潮、親潮、陽炎)は帝国駆逐艦籍より除籍。全滅した第15駆逐隊も同日附で解隊された。陽炎型駆逐艦の名称も「不知火型駆逐艦」に改定され、3隻は不知火型駆逐艦籍からも削除された。
出典:wikipedia
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