鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)11月3日 - 1949年(昭和24年)12月23日)は、日本の哲学者、海軍軍人。最終階級は海軍機関中尉。大日本言論報国会の事務局長として国粋主義思想運動をリードし、戦後はA級戦犯容疑者として逮捕された。妻はポーランド系ドイツ人で教育者の鹿子木コルネリアである(後に両者は離婚)鹿子木コルネリア、息子にベルリンオリンピックに出場したバスケットボール選手、鹿子木健日子がいる。「プラトン哲学の研究」で文学博士(東京帝大)。熊本藩士族の家系として東京府に生まれる。旧制東京府立第一中学校から海軍予備校を経て、1904年に海軍機関学校を卒業し、「八雲」乗組みとして日本海海戦を戦った。海軍機関中尉で病を得て予備役を経て退役。敵兵を救助したことで上官の叱責を受けたことも海軍を退いた理由の一つである。その後は哲学を専攻し、1906年(明治39年)9月 京都帝国大学文科大学哲学科選科入学にしたが、この時代に近衛文麿を知り関係を深める。また慶應義塾大学教授を経て、1907年よりアメリカ・ドイツに留学。1926年に九州帝国大学教授・同法文学部長、1927年にはベルリン大学客員教授となる。戦争中は徳富蘇峰が会長を勤める大日本言論報国会の専務理事、事務局長を務め、国粋主義思想を広めた。徳富蘆花の短編「梅一輪」(『みみずのたはこと』所収)に海軍士官葛城勝郎として登場する。1945年11月、A級戦犯容疑者として逮捕され巣鴨プリズンに収容される。のち公職追放指定を受けた。鹿子木は慶應義塾大学山岳部の初代部長で、1918年日本人で初めてヒマラヤに入り、ダージリンからを越えタルン氷河("Talung glacier" )からカンチェンジュンガを目指した。この記録は、『ヒマラヤ行』(政教社、1920年)という著作として残され、世界山岳全集に収録されている他、日本の登山文学の古典のひとつに数えられている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。