大國主神社(おおくにぬしじんじゃ)は滋賀県高島市新旭町饗庭に鎮座する神社である。明治維新までは、「高嶋今宮」「今宮山王宮」と称した。通称、「五十川神社(いかがわじんじゃ)」。旧社格は村社。保延4年、木津荘が山門千僧供領になった際、日吉大社から総鎮守として勧請された。同荘内に鎮座する式内社波爾布神社を『古宮』と称したことに対して『今宮』と呼ばれた。天授6年(1380年)8月18日に高島郡田井村竹ノ花から遷座されたという記録があり、応永29年(1422年)の『木津荘検注帳』には、上山の麓にあった旧御旅所の位置に『今宮』と記載がある。年代不詳の『木津荘引田帳』では、現在地での鎮座に記載されている。応永15年に上郷と下郷の間に諍いが生じ、本社と日吉二宮神社に二分された。また、永正8年(1511年)の『御宮年中行事』によると、4月初申日に本神社の例祭(上の御前)、4月初酉日に二宮権現(日吉二宮神社)の例祭(下の御前)が上郷(田井・五十川・上野・米井・辻澤・森)と下郷(深溝・霜降・針江・小池・山形)の共同で行われていたとされる。ただし、享保5年(1720年)の『村明細帳』にはこの祭礼の記事がないことから、江戸時代半ばまでには別個の祭として行われるようになっていたことが分かる。本社に伝わる『永正8年御宮年中行事』(1511年)、『宝永3年御宮年中行事』(1706年)および『元文3年御宮年中行事覚え日記』(1738年)から、年間の祭礼は簡素化されつつも、明治初年までほぼ変わらず行われていた。往古より社家(中村氏)のほか宮座が存在した。神職と宮年寄(一番尉から十一番尉という11名)が祭事に携わっていた。明治2年(1869年)に差別撤廃のため宮座は廃止され、以来社家と宮総代により祭事が営まれている。延宝年間に甲府宰相(徳川綱重)より東西32間南北143間の土地が寄進された。また、大正8年(1919年)、饗庭野演習場を視察中の北白川宮が立ち寄り、参拝している。勧請以来「今宮山王権現」と号していたが、慶応4年(1868年)3月に現社号に改められた。政府の1村1社政策により、明治43年(1910年)7月に白雲神社、上山愛宕神社、五處宮の3社を合祀した。
出典:wikipedia
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