鈴鹿御前(すずかごぜん)は、室町時代の紀行文『耕雲紀行』や御伽草子『田村の草子』などの物語に登場する伝説上の女性。立烏帽子(たてえぼし)、鈴鹿権現、鈴鹿姫ともいう。伝承によって、女盗賊、天女、鬼女であったりとその正体や描写は様々であるが、室町時代以降の伝承はそのほとんどが坂上田村麻呂の鬼退治譚と関連している。平安時代から盗賊が横行し、鬼の棲家として伝えられる三重・滋賀県境の鈴鹿山に棲んでいたとされる。盗賊として描かれる際には立烏帽子と呼ばれることが多い。鈴鹿山の立烏帽子の名は、承久の乱前後に成立したと見られる『保元物語』にあらわれる。そこでは、伊賀の武士山田是行の祖父行季が立烏帽子を捕縛したとされる。また『弘長元年(1261年)公卿勅使記』では、鈴鹿山のうち凶徒の立つところとして西山口を挙げ、「昔立烏帽子在所ノ辺也。件ノ立烏帽子崇神社者、鈴鹿姫坐。路頭之北辺也」と注す。ここでは盗賊の名が立烏帽子であり、鈴鹿姫はその崇敬した社の女神として現れる。そして立烏帽子を女性とする描写も、鎌倉時代の文献にははっきりとした形では残っていない。この盗賊立烏帽子と鈴鹿姫が同一視され、田村将軍の英雄譚に組み込まれるのは室町時代と考えられる。14世紀に成立する『太平記』巻三十二において、鬼切の伝来について田村将軍が鈴鹿ノ御前と剣合したという記述が見られる。応永25年(1418年)の足利義持の伊勢参宮に随行した花山院長親の著になる『耕雲紀行』では、当時の鈴鹿山の様子が記されている。その昔勇を誇った鈴鹿姫が国を煩わし、田村丸によって討伐されたが、そのさい身に着けていた立烏帽子を山に投げ上げた。これが石となって残り、今では麓に社を建て巫女が祀るという。鈴鹿姫を祀る社は、坂下宿の片山神社にあたると考えられている。南北朝時代以後、鈴鹿山の麓にある坂下では伊勢参宮の盛行を受けて宿場が整備され、往来の増加する中で、旅人を守護する存在として鈴鹿姫=立烏帽子が認識されるようになっていく。鈴鹿姫への信仰は江戸時代まで続き、延享3年(1746年)の明細帳(徳川林政史研究所蔵)では坂下宿の氏神を鈴鹿大明神とし、幕府代官や伊勢亀山藩主の寄進を受けている。当時さまざまな説が流布していたらしく、万治2年(1659年)ごろの成立とされる『東海道名所記』では、鈴鹿御前が「天せう太神(天照大神)の御母」と言いならわされていたことを記している。現在一般に流布する鈴鹿御前の伝説は、その多くを室町時代後期に成立した『鈴鹿の草子』『田村の草子』や、江戸時代に東北地方で盛んであった奥浄瑠璃『田村三代記』の諸本に負っている。鈴鹿御前は都への年貢・御物を奪い取る盗賊として登場し、田村の将軍俊宗が討伐を命じられる。ところが2人は夫婦仲になってしまい、娘まで儲ける。紆余曲折を経るが、俊宗の武勇と鈴鹿御前の神通力 によって悪事の高丸や大嶽丸といった鬼神は退治され、鈴鹿は天命により25歳で死ぬものの、俊宗が冥土へ乗り込んで奪い返し、2人は幸せに暮らす、というのが大筋である。ただし、写本や刊本はそれぞれに本文に異同が見られ、鈴鹿御前の位置づけも異なる。室町時代後期の古写本では、鈴鹿山中にある金銀で飾られた御殿に住む、16~18歳の美貌の天人とされる。十二単に袴を踏みしだく優美な女房姿だが、田村の将軍俊宗が剣を投げるや少しもあわてず、立烏帽子を目深に被り鎧を着けた姿に変化し、厳物造りの太刀をぬいて投げ合わせる武勇の持ち主である。俊宗を相手に剣合わせして一歩も引かず、御所を守る十万余騎の官兵に誰何もさせずに通り抜ける神通力、さらには大とうれん・しょうとうれん・けんみょうれんの三振りの宝剣を操り、「あくじのたか丸」や「大たけ」の討伐でも俊宗を導くなど、田村将軍をしのぐ存在感を示す。また、情と勅命との板挟みとなった俊宗の裏切りに、その立場を思いやりあえて犠牲になることを決意したり、娘の小りんに対して細やかな愛情を見せるなど、情愛の深い献身的な女性として描写されている。いっぽう流布本『田村の草子』の祖本となる寛永ごろの古活字本では、鈴鹿山で往来を妨げたのは鬼神大たけ丸となっており、鈴鹿御前は山麓に住む天女とされる。立烏帽子の盗賊・武装のイメージは薄れ、烏帽子は着けず、玉の簪をさし水干に緋袴という出で立ちである。鈴鹿御前は俊宗と契りを交わし、言い寄る大たけ丸から大とうれん・小とうれんの剣を騙し取ってその討伐に力を貸す。『鈴鹿の草子』とその底流を同じくする『田村三代記』は、語り物の特色として多くの異本が存在するが、鈴鹿御前に関する筋書きはおおむね同様である。ただし、『鈴鹿の草子』に見られる登場人物の微妙な心理や葛藤の描写は省かれ、鬼神退治の活劇を主とする内容となっている。鈴鹿御前の名は「立烏帽子」とのみ呼ばれ、その出自も天竺より鈴鹿山に降臨した第四天魔王の娘とする。日本を魔国とするための同盟者を求めて奥州の大嶽丸に求婚するが返事はなく、やがて田村将軍利仁と夫婦となり、共に高丸や大嶽丸を退治する。鈴鹿御前=立烏帽子にまつわる物語は、その舞台となった土地に浸透し、鈴鹿山周辺の鏡岩・旧田村社・片山神社・土山の田村神社などの伝承に足跡を残し、また東北地方においても『田村三代記』の影響を受けて各地の社寺縁起や本地譚に取り入れられた。御伽草子『田村の草子』には「大通連・小通連、二つの劍を抜き出して、そもそも此劍と申は、天竺真方國にて、阿修羅王、日本の佛法盛ん也、急ぎまだうに引入よとの御使ひに、某眷族共をくして參る時、此三つの劍を給はる事、後代までの面目」と記述があり、阿修羅から大嶽丸に「大通連(大とうれん)」「小通連(小とうれん)」「顕明連(けんみょうれん)」の三振りが贈られたのち、鈴鹿御前の手に渡ったという。『田村三代記』では大通連は文殊菩薩の智慧の剣(または化身)とされ、小通連は普賢菩薩の慈悲の剣(または化身)とされる。顕明連については、近江の湖の蛇の尾より取られた刀とされ、朝日にあてれば三千大千世界を見通すことが出来るという。渡辺本『田村三代記』によれば、田村将軍の得た大通連・小通連は、やがて田村に暇乞いして天に登り黒金と化した。これを用いて箱根山の小鍛冶があざ丸・しし丸・友切丸の三振りの太刀を打ったという。また『鈴鹿の草子』では大通連は三尺一寸の厳物造りの太刀である。鬼神を討ち果たしたのち天命を悟った鈴鹿御前は、大とうれん・小とうれんを俊宗に贈り、けんみょうれんを娘小りんに遺したとある。
出典:wikipedia
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