水尾神社(みおじんじゃ/みをじんじゃ)は、滋賀県高島市拝戸(はいど)にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。神紋は「菊」。祭神は次の2柱。祭神に関しては、かつて猿田彦命(河南社)・天鈿女命(河北社)の2柱とする説があったが、三尾君の祖神を祀る神社であるとして現在は磐衝別命・比咩神の2柱が祭神に定められている。水尾神社は、かつて水尾川を隔てた河南社(こうなみしゃ、南本殿)・河北社(こうほくしゃ、北本殿)の二社から成ったが、現在は河南社の一社から成る。社伝では、磐衝別命は猿田彦命の天成神道を学ぶために猿田彦命を祀る当地に来住したという。そして、朝夕に猿田彦命を祀る三尾大明神(高島市永田の長田神社)を遙拝したのでこの地は「拝所(のち拝戸<はいど>)」と称され、その住居跡は「拝所御所」と称されたと伝える。磐衝別命は当地で亡くなったため、その子・磐城別王は磐衝別命を三尾山に埋葬し、磐衝別命を祀る社として「河南社(現在社)」を創建したという。続いて社伝によると、応神天皇の第十一皇子・速総別王も天成神道を学ぶため当地に来住し、その4世孫である彦主人王は、磐城別王5世孫の振姫を妃に迎えた。そして振姫は水尾神社の拝殿を産所として、天迹部王(あまあとべ)・男迹部王(おとあとべ)・太迹部王(おおあとべ:第26代継体天皇を指す)の3子を同時に出産したという。その出産時、彦主人王は仮社を建てて安産を祈ったといい、のち天迹部王がその仮社跡に両親を祀る三重生大明神(みえなり-)を創建したのが「河北社」の始まりで、その後同社は比咩神(振姫)のみを祀るようになったと伝える。この河北社は昭和46年(1971年)に倒壊したため、現在は河南社(現在地)に遷座している。文献の初見は『新抄格勅符抄』で、天平神護元年(765年)に近江国の「三尾神」に対して13戸の神戸(神社付属の民戸)が給されている。その後、いずれも「三尾神」に対して延暦3年(784年)に従五位下、貞観5年(863年)に従四位下の神階が授けられた記事が見える。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では近江国高島郡に「水尾神社二座 並名神大 月次新嘗」として、二座が名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。弘安3年(1280年)に禅智院が開かれると同院は水尾神社の別当寺となったという。その後は振るわず社勢は衰微した。明治維新後、明治15年(1882年)に近代社格制度において郷社に列し、大正4年(1915年)に県社に列格した。本殿は一間社流造。本殿前には中門を挟んで拝殿が建てられている。拝殿は入母屋造。また境内には平成8年(1996年)に和風庭園の「水尾庭園」が完成した。そのほか、境内裏手の山中には6世紀の群集墳(拝戸古墳群)が残っており、うち皇子塚は三尾君祖の墳墓であると伝える。水尾神社に関係する神社として、滋賀県大津市の園城寺近くに地主神の三尾神社がある。『輿地志略』によると、同社は霊材に乗って高島郡三尾崎から大津に流れ着いた3神を祀るという。このことから、水尾神社との関連が指摘されるとともに、史料に見える「近江国三尾神」がこちらを指す可能性の指摘がある。所在地交通アクセス注釈原典出典
出典:wikipedia
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