平山 菊二 (ひらやま きくじ、1918年9月23日 - 1998年5月28日)は、日本のプロ野球選手(左翼手)。ホームラン性の打球を、外野フェンスによじ登ってキャッチするのを得意としていたことから「塀際の魔術師」と呼ばれた。山口県下関出身。実家は商家である。下関商業学校(現在の下関市立下関商業高等学校)時代は遊撃手だった。1学年下に後にチームメイトとなる矢野純一、2学年下に藤本英雄(のち巨人)がいた。卒業後、広島鉄道局でプレーするが、内野ではその強肩を生かせないとの理由で、杉田屋守監督によって外野手へコンバートされた。1936年に発生した二・二六事件では、菊二の義兄・田中勝も関与し、7月に死刑判決を受けた。この時、巨人軍への入団が決まっており、最後の面会の日に義兄からも激励を受けた。に東京巨人軍に入団。3年目のに七番左翼手のレギュラーポジションを獲得して、打率.307と打撃成績3位の成績を挙げると、翌には六番を打って全試合出場を果たすなど、川上哲治、千葉茂らとともに巨人軍第一期黄金時代の中心選手となった。に応召し、ビルマ戦線に出兵。終戦後のに巨人に復帰して、すぐに116試合に出場して左翼手のレギュラーとなる。の東西対抗戦では南海ホークスの飯田徳治が放った柵越えと思われた打球を外野フェンスによじ登って捕球し、大和球士から塀際の魔術師の異名を命名されている。この年から三番・青田昇、四番・川上哲治に次ぐ五番に入ってクリーンナップを打ち、打率.272(18位)に自己最高の11本塁打の成績を挙げると、翌は主将を務めて監督・三原脩を助ける傍ら、引き続き五番を打って打率.273の成績を残し、巨人の戦後初優勝に貢献した。しかし、巨人軍の内紛ともいえる「幻の連判状事件」に巻き込まれ、同年オフに退団。翌に郷里・下関を本拠地とする新規参入球団・大洋ホエールズに移籍。初代キャプテンに任命され、ここでも三番・大沢清、四番・藤井勇に次いで五番を打ち、打率.274、74打点、35盗塁(リーグ5位)を挙げるなど中心選手として活躍する。に足の故障でわずか3試合の出場に終わると、安居玉一・岩本義行・青田昇らの移籍入団もあって出場機会が減り、チームが松竹ロビンスと合併して、大洋松竹ロビンスとなったをもって引退した。引退後は大洋でからにかけてコーチを務めたほか、スカウト部長、球団常務を歴任。大洋の後身・横浜ベイスターズが38年ぶりに優勝したに亡くなったが、優勝の瞬間を見届けることはできなかった。1948年11月26日の東西対抗戦第4試合(後楽園球場)、7回二死後、投手・川崎徳次、打者・飯田徳治の場面で、飯田が左翼ポールぎりぎりに入る本塁打性の大飛球を打ち上げたところ、左翼を守っていた平山が、右手を外野フェンスに掛け反動を利用してジャンプし、左手のグラブを観客席の方に大きく突き出して捕球し、アウトにする。このプレーを球場で見ていた大和球士によって「塀際の魔術師」と命名された。平山にとっては偶然生まれたプレーだったが、このニックネームによって平山の外野守備が大きくクローズアップされたことで、平山はこの言葉に名前負けしないように、いつでも同じプレーができるように猛練習を繰り返したという。塀際の魔術師の異名を取る以前から、外野守備には定評があった。打撃の方は腕力に乏しく迫力はなかったが、抜け目のない打撃に徹し、戦後はクリーンナップに入って五番打者を務めた。左中間に打球を抜かれると、グラブは邪魔とばかりに放り投げて打球を追いかけることがしばしばあった。グラブを持たずに素手で打球を追いかける姿はユーモラスだったという。若い頃から風格があり、チームメイトからは「おっさん」と呼ばれ親しまれた。就寝前に枕元にチェリー缶を置いて煙草の煙を吐いているところは、まるで隠居おやじのようであった。また、お人好しの恩情家で、若い選手からも慕われた。酒豪であり、同郷の藤本英雄と二人で飲むと30分で一升瓶が空になってしまうほどであった。に巨人軍に入団した呉波が春のキャンプ地の草薙でチームに合流し宿舎に行ったところ、前歯が三本欠けた年上らしき人が出てきたため、大先輩と思った呉は最敬礼して台湾から持参したパイナップルを土産として差し出した。しかし、この「大先輩」は実は同期入団の平山であったという。1955年4月30日に川上哲治の運転する乗用車に同乗中事故に遭い、右目の下を6cmも切る裂傷を負った事がある。
出典:wikipedia
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