ビセンテ・デ・ラ・クルーズ・パディーヤ(Vicente de la Cruz Padilla , 1977年9月27日 - )は、ニカラグア・チナンデガ県チナンデガ出身のプロ野球選手(投手)。現在はフリーエージェント。8月24日に、アマチュアFAでアリゾナ・ダイヤモンドバックスと契約。6月29日にメジャーデビューを果たす。5試合に登板して防御率16.87と結果を残す事が出来なかったが、貴重な経験を積んだ年になった。はリリーフ投手として27試合に登板。防御率2.31と好投を見せる。2000年7月26日にカート・シリングとのトレードで、オマー・ダール、ネルソン・フィゲロア、トラビス・リーと共にフィラデルフィア・フィリーズへ移籍。フィリーズでは28試合に登板し、防御率5.34と結果を残す事が出来なかった。もリリーフ投手として登板し、防御率4.24と、やや復調した。は開幕から先発ローテーションに定着。32試合に登板し、14勝を挙げた。2月5日にフィリーズと1年契約に合意。シーズンは先発投手としてフル回転し、2年連続となる防御率3.00台と14勝を記録した。オフに、地元ニカラグアで乗っていた車が追突事故を起こし、同乗者の1人が死亡。パディーヤ自身も骨折を負った。1月30日にフィリーズと1年契約に合意。5月29日に肘の故障で15日間の故障者リスト入りし、8月10日に復帰した。この年は怪我の影響もあり、20試合の登板にとどまった。も前年からの肘痛が完治せず、3月30日に15日間の故障者リスト入りした。4月19日に復帰。27試合に登板したものの、2年連続で2桁勝利を逃した。2005年12月12日にトレードでテキサス・レンジャーズへ移籍した。1月28日にレンジャーズと1年契約に合意。シーズンは先発ローテーションに定着。8月15日のロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム戦で危険球を投じたため、8月17日にMLBが5試合の出場停止処分を発表した。防御率は4.00台だったが、勝利と奪三振で自己ベストの数値を記録した。10月30日にFAとなったが、12月9日にレンジャーズと3年契約に合意した。もレンジャーズの先発の軸となったが、9月18日のオークランド・アスレチックス戦でニック・スウィッシャーに投じた球が死球となり、それが原因で乱闘騒ぎを起こし、9月18日に7試合の出場停止処分を受けた。は防御率は4.00点台だったが、チームトップの14勝を記録。8月7日にDFAとなり、8月17日に放出された。2009年8月19日にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んだ。8月26日にメジャーへ復帰した。11月6日にFAとなった。1月21日にドジャースと再契約した。右前腕の故障で4月23日から欠場し、6月19日に復帰。8月19日から首の故障で戦列を離れた。11月1日にFAとなったが、12月9日にドジャースと再契約した。3月31日に右腕の故障で、15日間の故障者リスト入りした。4月22日に復帰。5月18日に前腕を故障し、5月19日に再び故障者リスト入りした。9月6日に60日間の故障者リストへ異動し、そのままシーズンを終えた。この年は9試合の登板に終わった。10月30日にFAとなった。1月16日、ボストン・レッドソックスとマイナー契約を結んだ。4月4日にメジャー契約を結んだ。この年は56試合に登板し、4勝1敗1セーブ、防御率4.50だった。10月29日にFAとなった。1月30日、福岡ソフトバンクホークスと1年契約を結んだ。年俸は290万ドル(約2億6400万円)プラス出来高払いの総額325万ドル(約2億9600万円)。背番号は42。NPB史上デビッド・グリーンに次ぐ2人目のニカラグア出身選手である。10月15日、球団から退団が発表された。7月にはパンアメリカン競技大会にニカラグア代表で出場。150km/h前後の速球(フォーシーム、シンカー)・スライダー・チェンジアップ・スプリットなど多彩な変化球を持つ。また、80km/h前後のスローカーブも投げる。内角を厳しく攻めていわゆるビーンボールを投げる「ヘッドハンター」と疑われており、2006年にはリーグ最多の17与死球を記録している。
出典:wikipedia
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