ムラカ(マレーシア語:Melaka、ジャウィ:ملقة)またはマラッカ(英語:Malacca)は、マレーシアの港湾都市。マレー半島西海岸南部に位置し、東西交通の要衝マラッカ海峡に面する、ムラカ州(マラッカ州)の州都である。スマトラ島のパレンバンにいたシュリーヴィジャヤ王国の最後の王子が、1396年頃マラッカ王国を建国した。彼はパレンバンを統治していたマジャパヒト王国の内乱()に乗じて独立を企てたが失敗、テマセック(シンガポール)に逃亡。王を殺し、王座に着いたがタイに追われ、ジョホールからマラッカへ退避。国を建国する。名前の由来は、木の下で休んでいたところ小鹿が猟犬を蹴飛ばすところを目撃、休んでいた木の名前を取った、と言う説が一般的。1405年には明の永楽帝より命を受け、遠くアフリカ大陸まで大遠征を行った海軍大将鄭和の艦隊も、マラッカ(満剌加)に初寄港している。マラッカ王朝は朝貢貿易を通じ明国との同盟を強固し、北の大国シャム、南のサムドラ・パサイ王国からの脅威を牽制していた。マラッカ王国は1414年頃イスラム化し、香辛料貿易における重要な東西中継港として繁栄を極めた。1511年、ポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケが征服し、東南アジアにおけるポルトガル海上帝国の拠点とした。ポルトガル時代には要塞(サンチャゴ砦)やキリスト教会(セントポールチャーチ)が建設され、司令官が常駐していた。イエズス会のフランシスコ・ザビエルはここから東アジア布教に出発している。1521年、ポルトガル領マラッカからサムドラ・パサイ王国に侵攻し、滅亡させた。1641年、オランダ東インド会社がジョホールのスルターンの援助を得て、マラッカを占領した。オランダの東南アジアにおける拠点はジャワ島のバタヴィアであったので、はマレー半島で産する錫などを輸出する地方港に転落した。1824年の英蘭協約で、スマトラ島のイギリス植民地アチェ王国と交換にイギリスに譲渡された。その際、マラッカ海峡より西側はオランダ領、東側は英国領と定められた。1826年、イギリスのトーマス・ラッフルズはペナンやシンガポールとともに英領海峡植民地を成立させたが、近代港シンガポールの台頭が著しく、マラッカの港湾機能は衰退した。1941年1月15日から1945年8月15日の太平洋戦争終了まで旧日本軍に占領され日本に統治された。終戦後の1945年、イギリスが再び海峡植民地としたが、独立の機運が高まり、1948年にイギリス保護領下でマラヤ連邦が成立、1957年8月31日に完全独立を遂げる。これに先立ち1956年2月20日、トゥンク・アブドゥル・ラーマン・マラヤ連邦首相がマラヤ連邦の独立宣言を行ったのは、このマラッカである。1989年4月15日、マラッカは "Historical City"「歴史の都市」として市制の承認を受けた。これを記念し毎年4月15日はマラッカ州で休日に指定されている。港湾都市として発達を遂げたマレーシア最古の都マラッカは現在、観光都市として年間600万人(2007年)を超える国内外からの観光客が訪れている。2008年にはジョージタウンとともに、歴史的な街並みがユネスコの世界遺産に登録された。なおクアラルンプール国際空港からもバスが運行されており、便数が少ないもののKL市内を経由するのと比べ約半分の時間で移動できる。また、空港リムジンサービスの利用が便利。海の交通の要所となっており、日々多くの貨物船が行き交う。
出典:wikipedia
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