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ベンジャミン・ディズレーリ

初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(, 、1804年12月21日 - 1881年4月19日)は、イギリスの政治家、小説家、貴族。ユダヤ人でありながら保守党内で上り詰めることに成功し、ダービー伯爵退任後に代わって保守党首となり、2期にわたって首相(在任:1868年、1874年 - 1880年)を務めた。庶民院の過半数を得られていなかった第一次内閣は短命の選挙管理内閣に終わったが、庶民院の過半数を制していた第二次内閣は「トーリー・デモクラシー(Tory democracy)」と呼ばれる一連の社会政策の内政と帝国主義の外交を行って活躍した。自由党のウィリアム・グラッドストンと並んでヴィクトリア朝の政党政治を代表する人物である。また、小説家としても活躍した。野党期の1881年に死去し、以降ソールズベリー侯爵が代わって保守党を指導していく。作家の息子としてロンドンに生まれる。イタリアからの移民のセファルディム系ユダヤ人の家系だった。13歳の時にイングランド国教会に改宗した。15歳の時に学校を退学になり、17歳の頃から弁護士事務所で働くようになった。しかし弁護士事務所の仕事に関心が持てず、南米鉱山株の投機や新聞発行に手を出すも失敗して破産した。さらに処女作の小説『』を出版して評判になるも激しい批判を集めた。その後しばらく南欧や近東を旅行したが、1832年にイギリスへ帰国。帰国後も小説を執筆する一方でしばしば庶民院議員選挙に出馬するようになり、四度の落選を経て、1837年ので初当選を果たす。保守党に所属していたが、サー・ロバート・ピール准男爵内閣に入閣できなかったことに反発して、党内反執行部小グループ「」を結成・主導、また小説『』や『』を執筆してピール批判を行った。1846年にピールが穀物法を廃止して穀物自由貿易を行おうとすると、その反対運動を主導してピール内閣倒閣と保守党分裂をもたらした。党分裂で党幹部が軒並みピール派へ移ったことで党内の有力者として台頭するようになり、1849年からは実質的なとなり(1851年に正式に就任)。1852年2月に保守党党首ダービー伯爵の内閣が誕生すると、その大蔵大臣に任じられた。その後も1858年(第二次ダービー伯爵内閣)、1866年~1868年(第三次ダービー伯爵内閣)とダービー伯爵内閣が誕生するたびに大蔵大臣に任じられた。いずれも少数与党政権なので、出来たことは多くなかったが、第三次ダービー伯爵内閣では庶民院院内総務として選挙法改正を主導し、自由党急進派に譲歩に譲歩を重ねた結果、第二次選挙法改正を達成した。1868年にダービー伯爵が病気で退任すると、保守党ナンバー・ツーのディズレーリが継承する形で保守党党首、首相に就任した。第一次ディズレーリ内閣は少数与党政権だったので、腐敗行為防止法案や公開死刑廃止法案など超党派的法案のみ可決させた。同年ので保守党が敗れた結果、自由党党首ウィリアム・グラッドストンに首相職を譲って退任することとなった。これは総選挙の敗北を直接の理由にして首相が退任した最初の事例であり、議会制民主主義の確立のうえで重要な先例となった。以降5年ほど野党党首に甘んじ、グラッドストン政権の弱腰外交を批判した。その間、小説『』を出版してベストセラーになっている。1874年ので保守党が過半数を超える議席を獲得した結果、首相職に返り咲いた。安定多数政権だった第二次ディズレーリ内閣は強力な政権運営が可能だった。そのため、労働者住宅改善法制定による労働者の住宅状況の改善、公衆衛生法制定による都市の衛生化、強制立ち退きされた小作人への補償制度の制定、労働組合の強化など「トーリー・デモクラシー」と呼ばれる多くの改革を行う事が出来た。外交面では積極的な帝国主義政策を遂行し、1875年にはスエズ運河を買収してエジプトの半植民地化に先鞭をつけた。また1876年には"Empress(女帝、皇后)"の称号を欲しがるヴィクトリア女王の意を汲んで、彼女をインド女帝に即位させた。また1877年から1878年の露土戦争ではロシア帝国の地中海進出を防ぐため、国内の反オスマン=トルコ帝国世論を抑えて親トルコ的中立の立場をとった。同戦争の戦後処理会議ベルリン会議においてロシア衛星国大ブルガリア公国を分割させてロシアの地中海進出を防ぎ、かつトルコからキプロス島の割譲を受け、地中海におけるイギリスの覇権を確固たるものとした。南部アフリカでは1877年にトランスヴァール共和国を併合し、ついで1879年にはズールー族との戦争に勝利した。1879年には中央アジアへの侵攻を強めるロシアの先手を打って第二次アフガニスタン戦争を開始して勝利した。グラッドストンとは対照的にヴィクトリア女王と非常に親密な関係にあり、1876年には女王からビーコンズフィールド伯爵の爵位を与えられた。1880年ので自由党が勝利した結果、グラッドストンが首相に返り咲き、ディズレーリは退任した。退任後に小説『』を出版したが、1881年3月から体調を悪化させ、4月19日にロンドンで病死した。ディズレーリの死後、保守党は貴族院をソールズベリー侯爵が、庶民院をサー・スタッフォード・ノースコート准男爵が指導していく。1804年12月21日、イギリス首都ロンドンに生まれた。父はイタリア系セファルディム・ユダヤ人で著名な作家。母は同じくセファルディム系ユダヤ人のマリア(旧姓バーセイビー)。父母ともに裕福であり、そのおかげで貴公子的な生活環境の中で育った。姉にサラがいる。また後に弟としてナフタライ、ラルフ、ジェームズが生まれている。祖父の名前と同じ「ベンジャミン」と名付けられた。ディズレーリの祖父は1730年に教皇領フェラーラ近郊のチェントに生まれたが、1748年にイギリスへ移住し、結婚を通じて株仲買人として成功し、1816年に死去した際には3万5000ポンドというかなりの額の遺産を残した人物である。ディズレーリ本人によるとディズレーリ家の先祖はもともとスペインのユダヤ人だったが、1492年にカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世による異端審問・によって国を追われ、イタリアのヴェネツィアに移住したという。そこでディズレーリと改名し、商人として成功したという。そして18世紀中頃にディズレーリの曾祖父アイザックが長男をヴェネツィアに残して銀行業を継がせ、次男ベンジャミン(祖父)をイギリスへ移住させたというという経緯であるという。しかしやらの研究によるとこの話は疑わしいという。ディズレーリの家系がスペインから出ていることやディズレーリの大伯父がヴェネツィアで銀行業をしているという証拠は資料からは見つけられないという。ディズレーリの一族とヴェネツィアとの関わりについて確認できる事実は父アイザックに姉妹が二人いて、その二人が中年の時にヴェネツィア・ゲットーに移住していることだけであるという。そもそも祖父ベンジャミンがデ・イズレーリ( D'Israeli)を名乗るまで彼の家系の姓はイズレーリ (Israeli)であった。イズレーリとは「イスラエル」のことだが、これはスペイン語系ではなくアラビア語系である(スペイン語では「イスラエリタ」)。そのためセシル・ロスは、イズレーリ家はレバント(地中海東岸地域)からイタリアへ移民したユダヤ人家系であろうと推測している。ちなみに「デ(D)」というのは恐らくセファルディム系ユダヤ人の洗礼名によく使われたアラム語のDiの略だと考えられる。またディズレーリは、祖父ベンジャミンの最初の妻レベッカの旧姓がラーラだったことを利用して、スペインの名門家と縁続きだと言い張っていたが、レベッカの実家ラーラ家はポルトガル系であって、スペイン系の名門家ラーラ家と特に関係はない。またそもそもディズレーリの父アイザックは後妻の子供であるから、ディズレーリとレベッカに血の繋がりはなかった。セファルディム系ユダヤ人社会では、スペイン系やポルトガル系のユダヤ人を最も「貴種」と看做すことが多かった。ディズレーリが家系を捏造してまでスペイン系であることにこだわっていたのはそのためであると考えられる。一方母方の祖母の実家カードソ家はまさにそのスペイン系ユダヤ人であり、1492年以降の異端審問でスペインを追われイタリアへ逃れ、17世紀末にイギリスへ移住した家柄であった。しかしディズレーリは母親嫌いから母の家系にほとんど関心を持たず、この事実を知らなかったようである。ディズレーリの伝記作家は「ディズレーリがこの事実を知っていたなら、別の筋書きの家系を創っただろう」と推測している。いずれにしてもディズレーリは自らが「貴種」であるという自負心が強く、そのため強い貴族意識を持っていた。ディズレーリはイズリントンにあった女子学校に通い、その後、非国教徒が校長を務めるの学校に通い、13歳まで在学した。この学校での同級生によるとディズレーリはサージェスというもう一人のユダヤ教徒の生徒とともに礼拝に参加しなかったという。またユダヤ教のラビが週に一度やってきてディズレーリにヘブライ語を教えていたという。子供の頃から気位が高かったディズレーリは、しばしばユダヤ人ということで教師からも学友からも滑稽な目で見られていることに傷付いていた。またディズレーリは、学校内で唯一同じユダヤ教徒であるサージェスを自分より劣っていると見下しており、そのような人間と友達付き合いをして、同レベルだと思われたくなかったという。非ユダヤ教徒の生徒たちもディズレーリほど頭の回転は速いわけではなかったが、ディズレーリは彼らと友達付き合いする方を好んだ。イギリスは19世紀初頭から「寛容の国」であり、反ユダヤ主義も大陸ヨーロッパ諸国と比べると比較的弱かった。とはいえ1829年までイングランド国教会の信徒以外にはイギリスの公職の道が開かれていなかった。1829年にカトリックや非国教徒など他のキリスト教徒にも公職への道が開かれたが、ユダヤ教徒は1858年まで公職に就けなかった(この撤廃にはディズレーリが尽力した)。ただしイングランド国教会の信徒になればユダヤ人であっても問題なく公務に就任でき、人種としてユダヤ人を排除する規定ではなかった。ディズレーリの父アイザックはユダヤの歴史に誇りを持ち、ユダヤ教会にお布施を収めていたが、ヴォルテール主義者であったから宗教にさほど関心がなかった。ユダヤ教の儀式にもほとんど出席しなかった。それでもアイザックがユダヤ教会に籍を置いていたのは父親に倣って、また父親を喜ばせるためであった。だがアイザックは1813年にユダヤ教のベービス・マークス集会の長に選出された。これを拒否するとユダヤ教の掟で40ポンドの罰金が科された。彼はこれに反発し、役職を務めることも罰金を支払うことも拒否した。その後も3年ほど父に配慮してユダヤ教会に籍を置いていたが、1816年の父の死去を機に、1817年3月にアイザックはユダヤ教会の籍を離れた。母はユダヤ教嫌いであり、夫の離籍を機に実家バーセイビー家ごと全員で離籍している。アイザックはユダヤ教会離籍後、何の宗教にも入信しなかったが、アイザックの親友である弁護士・考古学者が子供たちは将来のためにイングランド国教会に入籍させた方がいいと勧めたのでその通りにすることにした。こうしてディズレーリは13歳で地区のにおいて洗礼を受けることとなった。ディズレーリは改宗とともに転校することになった。アイザックはディズレーリを名門イートン校に通わせたがっていたが、改宗したばかりのユダヤ人が歓迎されるとは思えず、結局非国教徒ユニテリアン派の牧師が運営していたの学校に入学した。この学校には裕福な中産階級の子供が多く、ラテン語やギリシア語でディズレーリは他の生徒らに後れを取っていたが、文章の創造力にかけてはディズレーリの右に出る者はいなかったという。スポーツにも熱心に打ち込み、やがて学友たちのリーダー的存在となっていった。しかしこのことでディズレーリが来る前から学校を仕切っていた復習監督生たちに目を付けられたという。彼らはディズレーリにユダヤ臭をかぎつけて馬鹿にした。ある時、ディズレーリとすれ違った復習監督生のグループがディズレーリを嘲って口笛を吹いたという。それに対してディズレーリは振り返って彼らに「今、口笛を吹いた者は前に出たまえ」と述べたという。復習監督生の一番年長の者が前に出てきて「外国人に引きずりまわされるのはもうウンザリなんだよ」と言い放ったという。ディズレーリはその男に顔面パンチを食らわせ、殴り合いとなった。ディズレーリは小柄で力も貧弱だったが、軽やかな足さばきで合理的に戦い、年長の復習監督生をボコボコにして血塗れ状態にしたという。校長コーガン牧師はディズレーリを煙たがるようになり、アイザックになるべく早く御子息を引き取ってほしいと依頼した。こうしてディズレーリは1819年か1820年(15歳)にはハイアム・ヒルの学校を去ることになった。他の学校や大学に行ってもユダヤ人に対する差別と偏見から逃れられるとは思えず、結局ディズレーリはこの後1年ほど自宅の父の書斎や書庫で古典を読み漁って過ごした。ヴォルテール主義者である父アイザックは息子が古典の世界にどっぷりと浸かって神秘主義的になっていくのを懸念していた。実際的な仕事をさせようと弁護士事務所で働くようディズレーリを説得するようになった。しかし上昇志向が強いディズレーリは弁護士を「法文とダジャレで過ごし、うまくいけば晩年に痛風と准男爵の称号がもらえるという程度の職業」と看做しており、こんな仕事に就いたら偉人にはなれないと思っていた。しかしアイザックは「慌てて偉人になろうとしてはいけない」「弁護士事務所という人間を知るうえで最適な観察場所を経ることは、何の道も閉ざすものではない」と熱心に説得し、最終的にディズレーリはその説得に折れた。1821年、17歳の時に街のフレデリック広場にあった4人の弁護士の共同事務所で勤務した。しかしすぐにこの仕事に飽き始めた。後年ディズレーリは弁護士事務所の勤務時代について、弁護士の仕事自体は何の役にも立たなかったが、この仕事を通じて執筆力が高まり、また多くの人間と知り合って人間の様々な本性を知ることができたのは財産になったと評している。1824年7月末にはベルギーとライン地方を旅行した。ディズレーリの回顧録によるとこの旅行でライン川下りをしている時に弁護士を目指すのを止める決意をしたという。1824年11月にリンカーン法曹院の入学許可が下りたが、この頃にはディズレーリは法曹になる意思を無くしていた。弁護士事務所を辞めた後、ディズレーリは定職をもたなかったが、父アイザックの友人である出版業者の手伝いをしたり、書評をしたりするようになった。「上流階級の人間になるには血筋か金か才能が必要」と考えていたディズレーリは、さらに南米の鉱山の投機に手を出すようになった。当時、南米諸国(メキシコ、ボリビア、ペルー、ブラジルなど)ではスペインやポルトガルからの独立運動が盛んになっており、南米の鉱山株が高騰していた。南米の鉱山採掘権をイギリス産業界が獲得するのを支援すべく、イギリス外相ジョージ・カニングが独立運動を支援していた。ディズレーリも弁護士事務所をやめる数ヶ月前に弁護士事務所の顧客が南米の鉱山の投機で儲けているのを見ていたため、投機に関心を持っていた。弁護士事務所の書記仲間とともに南米鉱山投機を始めた。はじめディズレーリは高騰ぶりが異常と見て、下げの方向で投機していた。しかし1824年クリスマスに南米諸国の独立が承認されたことで鉱山株がさらに高騰。これによりディズレーリも上げの方向の投機に切り替えた。しかし南米鉱山株は1825年1月に最高値に達して、その後は低下し始めた。これによってディズレーリも大損し、6月には7000ポンドもの借金を抱えていた。この間という投機家が南米鉱山に対する信用を取り戻そうとパンフレットの出版を計画し、その執筆をディズレーリに依頼してきた。ディズレーリはこれを引き受け、いくつかのパンフレットを書き、南米鉱山株投機に疑問を投げかける政治家を批判しつつ、鉱山会社の宣伝を行った。しかし結局同年10月末に南米鉱山株が暴落しはじめ、12月までにシティは大混乱に陥った。ディズレーリもこの時に破産した。ディズレーリが鉱山投機してた頃、ジョン・マレーは『クオタリーレビュー』誌で成功を収め、ついで日刊紙を出版しようと考えていた。ディズレーリもこの企画に参加し、出資金の四分の一をディズレーリが出すことを契約した(残りは二分の一がジョン・マレー、四分の一がパウルズ)。ディズレーリはサー・ウォルター・スコットの娘婿であるに主筆をしてもらおうと、スコットランド・エジンバラまで彼を誘いに行った。そのためにロックハートを庶民院議員にしようという計画案まで立てた。新聞の名称はディズレーリが決め、『』と名付けた。しかし前述した1825年10月末の南米鉱山株の暴落に伴う破産によってディズレーリは出資金を出せる見込みがなくなったので、計画から外されることとなった。結局マレー一人の出資で『リプレゼンタティブ』紙が発刊されたが、大して売れず、1826年7月29日号を最後に廃刊している。『リプレゼンタティブ』紙の仕事を失った後、文筆で生計を立てる決意をし、1826年前半頃に『』を著した。この小説は1826年4月に出版業者によって匿名で出版された。ディズレーリ自身をモデルにしたと思われる野望に燃える主人公ヴィヴィアンが、ジャーナリストから庶民院議員となり政界で中枢の地位を得る物語である。当時のイギリスではこうした上流階級を描いた匿名小説が流行っていた。作者は誰か、登場人物たちは誰をモデルにしているのか、などを推理して楽しませ、そしてその小説が評判になったら適当な時期に作者を公表するという手法である。『ヴィヴィアン・グレイ』は賛否両論ながら評判となり、社交界でも話題になった。だがやがて作者が社交界に入ったこともない21歳の若者だと判明した時、激しい批判と嘲笑に晒された。「貴族でもない癖に貴族かのように滑稽に気取っている」、「(ディズレーリは)急いで世の中から消え、忘れ去られた方が幸せである」などという厳しい評論がなされた。またマレーは作中登場するカラバス侯爵(高い地位にあるが、単純で頭の悪い飲んだっくれの人物で、ヴィヴィアンはこの男を操って政党を作らせ首相にすることで権力を得ようとする)が自分をモデルにしていると感じ、ディズレーリへの怒りを露わにした。この頃のマレーはディズレーリに騙されて『リプレゼンタティブ』紙の事業をやらされたと思っていたので怒りは尚更であった。マレーは保守党の政治家たちに強い影響力を持つ人物だったから、後にディズレーリが保守党の政治家としてやっていくうえでマレーとの不和は苦労する材料となる。また保守党所属議員からもディズレーリが保守主義者ではない証拠としてこの小説の様々な部分が引用されることになる。ディズレーリ当人も後年『ヴィヴィアン・グレイ』を大いに恥じ、「若気の至り」「青臭い失敗作」と語り、1853年の全集に載せることにも強く抵抗したが、結局大幅に書き換えることを条件に掲載を許している。非難の嵐から逃げるようにディズレーリはフランス・イタリアの諸都市の旅行に出た。パリ、ディジョンを経てジュネーブを訪れた。ディズレーリはバイロンに憧れていたが、ジュネーブではバイロンのボートマンであるモーリスと親交を深めることができた。さらにボローニャ、フィレンツェ、ピサ、ラ・スペツィア、ジェノバ、トゥーロン、リヨンを訪問した。その後パリを経由してイギリスへ帰国した。2か月ほどの旅行だったが、イギリス国内ではいまだに『ヴィヴィアン・グレイ』批判の余韻が残っていた。しかし金銭に困っていたディズレーリは、1826年秋に『ヴィヴィアン・グレイ』第二部を執筆し、再びコルバーンが出版した。『ヴィヴィアン・グレイ』第二部を執筆後、神経衰弱を起こして倒れた。この後3年にわたって体調が悪いままで、その間法律の勉強に戻った。1828年には1825年春季学期以来、ほとんど通っていなかったリンカーン法曹院に通うようになった。もっとも法律の勉強には興味をもてなかったらしく、1831年に退学している。この間の1828年に『ポパニラ(Popanilla)』という小説を執筆して公刊し、功利主義者や穀物法、植民地支配を批判した。しかしこの小説はほとんど評判にならなかった。1829年末頃に健康を回復し始めたディズレーリは再び長期旅行の計画を立てた。その資金を稼ぐために『若き公爵(The Young Duke)』の執筆を開始し、1830年3月までには完成させて原稿をコルバーンに送った。この本はディズレーリが近東旅行中の1831年4月に出版された。相変わらず貴族の言葉遣いや作法が分かっていない部分や現実離れした部分もあったものの、『ヴィヴィアン・グレイ』よりは出来が良く、大衆受けする内容であったので批評家もまずまずの評価を下した。もっともディズレーリは気に入らなかったらしく、1853年の全集では『ヴィヴィアン・グレイ』に次いで手直しされているのがこの小説だった。この頃ディズレーリの父アイザックを尊敬する小説家エドワード・ブルワー=リットンと知り合い、親しく付き合うようになった(彼はディズレーリの『ヴィヴィアン・グレイ』にも影響を受けて『ペラム』という小説を書いていた)。二人は小説家としてお互いに影響しあった。1830年5月末、姉サラの婚約者メラディスとともにロンドンから船出して英領ジブラルタルへ向かった。スペインのアンダルシア州を旅行した後、8月末にマルタ島を訪問した。オスマン=トルコ帝国領アルバニアからイオニア海各地を旅行しながら、12月、オスマン=トルコから独立したばかりのギリシャ・アテネに到着した。そこからオスマン=トルコ首都コンスタンティノープル(イスタンブール)へ向かい、1831年1月まで滞在した後、聖地エルサレムを訪問した。さらに3月にはアレクサンドリアに到着し、トルコからの独立運動に揺れるエジプトを旅行した。ディズレーリは南欧や近東の西欧と異なった異国風の雰囲気に惹かれ、多くの影響を受けた。特にエルサレム訪問はユダヤ人としてのアイデンティティを再認識するきっかけとなった。また、この旅行中からディズレーリは「デ・イズレーリ」という外国人風の姓を「ディズレーリ」と綴るようになった。しかしカイロ滞在中の1831年7月、同行者メラディスが天然痘により病死したため、ディズレーリも急遽帰国の途に付いた。この帰路の船中でディズレーリは2本の小説(ユダヤ人について描いた『アルロイ(Alroy)』と文学の道へ進むか政治の道を進むか悩む若い詩人を描いた『コンタリーニ・フレミング(Contarini Fleming)』)を書いている。12月末にイギリスに帰国した。ディズレーリが帰国した時期の1830年代初頭、イギリス国民の関心は政治にあった。産業革命による工業化した社会に対応した政治変革を行うことが緊急の課題となっていたためである。1830年には保守政党トーリー党の政権が倒れ、自由主義政党ホイッグ党の政権であるグレイ伯爵内閣が誕生し、選挙法改革をはじめとした政治改革がおこなわれることとなった。彼の友人ブルワー=リットンもで当選を果たしてに所属する庶民院議員になっていた。リットンの縁故でディズレーリも社交界に出席できるようになった。ディズレーリは『リプレゼンタティブ』紙の発刊に携わっていた頃から政界進出に関心があり、リットンを手本に自分も庶民院議員になりたいと思うようになった。ディズレーリの父アイザックはトーリー党支持者であり、ディズレーリ本人もトーリー党に好感を持っていたが、当時トーリー党は世論から激しく嫌われており、選挙に勝利できる見込みはなかった。そのため友人リットンと同じく急進派に接近した。グレイ伯爵政権によって1832年6月7日に「腐敗選挙区」の削減や選挙権の中産階級への拡大を柱とする第一次選挙法改正が行われると、ディズレーリは庶民院議員選挙への出馬を決意し、ハイ・ウィカムで選挙活動を開始した。ディズレーリはリットンの伝手でや合同法廃止によるアイルランド独立を目指す指導者ダニエル・オコンネルら進歩派の推薦状をもらった。しかしこの頃ウィカム選挙区選出の議員が別の選挙区に立候補するため議員辞職し、それに伴う補欠選挙がウィカム選挙区で行われることとなったため、ディズレーリはまず旧選挙法のもとで出馬することになった。リットンはウィカム選挙区にディズレーリの対立候補が立たないよう骨折りしてくれたが、結局ホイッグ党が首相グレイ伯爵の息子を対立候補として擁立してきた。一方この選挙区で勝つ見込みがなかったトーリー党は、父親が熱心なトーリー党員であるディズレーリの出馬を歓迎していた。ディズレーリはこの補欠選挙で「私は1ペニーも公金を受けたことがない。また1滴たりともプランタジネット朝の血は流れていない。自分は庶民の中から湧き出た存在であり、それゆえに少数の者の幸福より大多数の幸福を選ぶ」と急進派らしい演説をした。しかし旧選挙法のもとでのウィカム選挙区は典型的な「腐敗選挙区」であり、有権者は32名しかいなかった。このうち20票をグレイ大佐が獲得し、対するディズレーリは12票しかとれず落選した。1832年12月に庶民院が解散され、新選挙法のもとでのが行われた。新選挙法のもとでのウィカム選挙区の有権者数は298名だった。ディズレーリは引き続き急進派の立場をとって、「イギリス国民は、比類なき大帝国の中に生きている。この帝国は父祖の努力によって築き上げられたものだ。しかし今、この帝国が危機を迎えようとしている事を英国民は自覚せねばならない。ホイッグだのトーリーだの党派争いをしてる時ではない。この二つの党は名前と主張こそ違えど、国民を欺いているという点では同類だ。今こそ国家を破滅から救う大国民政党を創るために結束しよう」と演説した。公約として秘密投票や議員任期3年制の導入、「知識税」(紙税)反対、均衡財政、低所得者の生活改善などを掲げた。彼はこれらを改革としてではなく「旧来の制度に戻す」という復古の立場で主張した。そのため後年の保守党の党首としての立場と矛盾することにはならなかった。補欠選挙に続いてこの選挙でもトーリー党はウィカム選挙区には候補を立てず、ディズレーリに好意的な中立の立場をとっていた(彼らはホイッグ党の候補を落とすためには自分たちの主張と正反対の急進派を支持することさえ平気でした)。そのためホイッグ党支持者を中心に「似非急進派」「偽装トーリー」として批判されることもあったディズレーリだが、彼は「私は我が国の良い制度を全て残すという面においては保守派であり、悪い制度は全て改廃するという面においては急進派なのだ」「偽装トーリーとは政権についている時のホイッグ党のことである」と反論した。しかし結局ディズレーリはこの選挙区に出馬した三人の候補の中で最下位の得票しか得られず、落選した。1834年秋にホイッグ党の政権が倒れ、12月に庶民院が解散されて1835年1月にとなった。ディズレーリはこの選挙に保守党(トーリー党が改名)での出馬を考え、保守党幹部と接触したが、結局保守党からの出馬はならず、再び急進派の無所属候補としてウィカム選挙区から出馬した。リンドハースト男爵の骨折りで保守党から500ポンドの資金援助受けての出馬となったが、結局前回と同様に三人の候補の中で最低の得票しか得られず、落選した。この選挙後の1835年1月17日にリンドハースト男爵主催の晩餐に出席し、そこで後のライバルであるウィリアム・グラッドストンと初めて出会った。グラッドストンはすでに1832年の総選挙で当選を果たしており、この頃には25歳にして第一大蔵卿(首相)を補佐してあらゆる政府の事務に参与する下級大蔵卿()の職位に就いていた。ディズレーリはその日の日記の中でグラッドストンへの嫉妬を露わにしている。一方グラッドストンのその日の日記にはディズレーリについて何も書かれておらず、後世にディズレーリとの初めての出会いを質問された時にグラッドストンは「異様な服装以外には何の印象も受けなかった」と語っている。三度の落選を経てディズレーリは無所属には限界があると悟った。1835年1月に保守党党首ウェリントン公爵に手紙を送り、「今の私は取るに足らない者です。しかし私は貴方の党のために全てを差し出すつもりです。どうか私を戦列にお加えください」と懇願した。公爵の計らいでディズレーリは保守党の紳士クラブに名を連ねることを許された。さらに同年トーントン選挙区選出の議員の辞職に伴う補欠選挙に保守党はディズレーリを党公認候補として出馬させることにした。これまで党派に所属しないと言いながら結局保守党の候補になったディズレーリは変節者として激しい批判を受けた。またこの選挙戦中、ディズレーリがオコンネルを扇動者・反逆者として批判したという報道がなされ、オコンネルはかつて推薦状を書いてやった若造の裏切りに激怒し、激しいディズレーリ批判を行った。これに対してディズレーリは名誉を傷つけられたとして決闘を申し込んだが、オコンネルは昔決闘で人を殺めたことがあり、二度と決闘しないという誓いを立てていたため躊躇った。結局そうこうしてるうちに警察が介入してディズレーリは果たし状を取り下げる羽目になった。ただこの件はディズレーリにとって売名にはなった。この頃のディズレーリの日記にも「オコンネルとの喧嘩のおかげで名前を売ることができた」と書かれている。しかし結局トーントン選挙区補欠選挙の結果は落選であった。選挙活動と並行してディズレーリは小説家としても活発に活動した。近東旅行からの帰国の船の中で書いた『コンタリーニ・フレミング』を1832年5月、『アルロイ』を1833年3月に出版した。さらにその後『イスカンダーの興隆(The Rise of Iskander)』、『天国のイクシオン(Ixion in Heaven)』、『地獄の結婚(The Infernal Marriage)』などを続々と出版した。また、メルバーン子爵やホイッグ党政権を批判した『ランニミード書簡』、イギリス憲政について論じた『イギリス憲政擁護論』『ホイッグ主義の精神』など政治論文も多数著した。だがいずれも大した儲けにはならなかった。しかもこの頃ディズレーリは社交界の女性ヘンリエッタと交際するようになっており、その交際費、また選挙活動の費用で支出が増えていた。生活費に困るようになり、友人オースチンから借金をしている。さらにオースチンが止めるのも聞かず、スウェーデン公債の販売に関する事業に携わって失敗し、多額の借金を背負った。1836年から1837年はとりわけディズレーリが自堕落な生活を送っていた時期である。借金取りから追われる日々を送り、何度も金の無心に来るディズレーリにオースチンも我慢の限界に達した。オースチンは繰り返し返済の催促をし、一度は返済しないなら法的手段に訴えると脅しさえした。1836年夏から秋にかけて恋愛小説『ヘンリエッタ・テンプル(Henrietta Temple)』を書きあげ、10月に出版され、『ヴィヴィアン・グレイ』に並ぶ金銭的成功を収めた。しかしこれだけでは借金返済できなかったので、1837年5月にさらに『ヴェネチア(Venetia)』を出版したが、これは『ヘンリエッタ・テンプル』ほど売れなかった。1837年6月に国王ウィリアム4世が崩御し、18歳の姪ヴィクトリアが女王に即位した。彼女が開催した最初の枢密院会議に出席すべくケンジントン宮殿を訪問した枢密顧問官リンドハースト男爵にディズレーリはお伴として同行した。枢密院会議を終えたリンドハースト男爵は、一人の少女が聖職者・将官・政治家たちの群衆の真ん中を悠然と歩いていき玉座に座る光景、イギリス中で最も権威ある男たちが一人の少女に騎士の誓いを捧げる光景をディズレーリに話してやった。ディズレーリはその光景を思い描いて憧れを抱き、今の自分では望むべくもないが、いつの日か自分も女王の前に膝まづいてその手にキスをして騎士の忠誠を捧げたいと願ったという。当時の慣例で新女王の即位に伴って議会が解散され、1837年7月にが行われることとなった。この選挙でディズレーリは保守党候補の当選が比較的容易なメイドストン選挙区からの出馬を許された。この選挙区は2議席を選出し、しかもホイッグ党が候補者を立てていなかった。急進派の候補が出馬していたが、保守党は2議席とも取れると踏んでおり、とディズレーリの二人を候補として擁立したのだった。7月27日の選挙の結果、メイドストン選挙区はディズレーリとルイスが当選を果たした。ディズレーリは5年間に5度選挙に出馬したすえに、ようやく庶民院議員の地位を得たのであった。選挙後、ホイッグ党の首相メルバーン子爵はアイルランド選出議員の支持を取り付けて政権を維持しようとするだろうと予想された。そのため、1837年12月7日、アイルランド選出議員の代表者オコンネルの演説後に議場の演壇に立ったディズレーリは、オコンネル批判のを行った。これにアイルランド選出議員が激しく反発し、ディズレーリの演説は嘲笑とヤジに包まれた。ディズレーリが何か話すたびに議場から笑いが起こる有様だった。保守党党首ロバート・ピールさえも声援を送りながらも笑いをこらえていたという。ディズレーリは怒りを抑えきれず、「いつの日か、皆さんが私の言葉に耳を傾ける日が来るでしょう」と大声で叫んで演壇を去った。しかしこれを見たアイルランド選出議員シェイルは「ディズレーリがアイルランド選出議員から妨害を受けずに演説していたら、あの演説は失敗だっただろう。ディズレーリの演説は失敗したのではなく押しつぶされたのだ。私の初演説はみんなが清聴してくれたがゆえに失敗だったと言える。つまり私は軽蔑をもって、ディズレーリは悪意をもって迎えられたという事だ。」と語ってディズレーリ演説を評価している。1838年3月14日、ディズレーリと同じ選挙区選出のウィンダム・ルイス議員が突然死した。ディズレーリは悲しみの淵に沈む彼の妻のところへ通って彼女を励ました。メアリー・アンナは、デボンシャーで農業を営む中産階級のエバンズ家に生まれ、1815年にウェールズの旧家出身で製鉄所の経営者であるウィンダム・ルイス(1820年から庶民院議員)との結婚を通じて上流階級に顔を出すようになった女性である。しかし彼女は子供が出来ないまま夫と死別することとなり、夫の残した終身年金を受けるようになった。当時メアリー・アンナは45歳でディズレーリより12歳年上だった。ディズレーリは彼女との関係を深めて7月末には結婚を申し込んでいるが、メアリーは夫の一周忌が過ぎるまで返事は待ってほしいと回答した。ディズレーリは当時借金で首が回らなかったから、彼女の終身年金を手に入れて借金を返済するのが狙いだと噂されたが、それだけが狙いだったのかどうかは定かではない。ディズレーリが熱心に彼女に送った手紙は強い愛を感じさせるものであり、一周忌が過ぎると彼女も結婚に応じた。二人は8月28日にので挙式した。ディズレーリもメアリーも配偶者に対して献身的だった。そのため二人の夫婦仲は非常によかった。後の政敵ウィリアム・グラッドストンもディズレーリ夫妻の夫婦仲を「模範的」と評している。ディズレーリが後に書く小説『シビル(Sybil)』は妻に捧げるという形式をとっているが、その中の献辞で妻について「優しい声でいつも私を励まし、また執筆にあたって最も厳しい批評家として様々な教示をしてくれた、完璧な妻に」と書いている。デール・カーネギーは著書「人を動かす」において、幸福な結婚についてのエピソードとしてディズレーリ夫妻の「私がおまえと一緒になったのは、結局、財産が目当てだったのだ」「そうね。でも、もう一度結婚をやり直すとしたら、今度は愛を目当てにやはりわたしと結婚なさるでしょう」というやりとりを紹介している。ディズレーリの初期の議員活動は注目される物が少なく、不明な点も多いが、チャーティズム運動を支援していた議員の一人だったことは判明している。イギリスでは、産業革命による工業化・都市化の進展によって1820年代から1830年代にかけて労働者階級が形成されるようになった。しかし当時のイギリスには労働者のナショナル・ミニマムを保障するような制度がほとんど何も存在しなかった。そのため労働者運動が盛んになり、「劣等処遇の原則」を盛り込もうとするに反対する運動と工場法改正による10時間労働の法文化を求める運動が拡大してイングランド北部を中心にチャーティズム運動が形成されるようになった。1838年5月にはによって「人民憲章」が提唱され、チャーティズム運動の旗印となった。チャーティズム運動は、人民憲章支持の署名を国民から集めて、1839年7月に議会に請願するという形で進展していった。しかし保守党とホイッグ党の二大政党はそろって12万人の署名が入ったこの請願を拒否した。「改革の父」と呼ばれたジョン・ラッセル卿さえもがチャーティストを法廷で告発した。一方ディズレーリはチャーティズム運動を支援していた。庶民院の議員の中ではほとんど彼のみがチャーティストに理解を示していたといってよい。チャーティスト達の議会への請願があるとディズレーリは自党の救貧法改正賛成の立場を批判し、またチャーティズム運動を取り締まるためのバーミンガム警察への予算増額にも反対した。この予算増額に反対したのはディズレーリを含めて3議員だけであり、下手をすると保守党からの公認を取り消されかねない危険を冒しての行動だった。1839年11月にウェールズ・ニューポートで炭鉱夫の反乱が発生するとチャーティスト指導者が続々と官憲に逮捕されたが、これに対してもディズレーリは4人の議員とともにチャーティスト指導者弾圧に反対する運動を行った。ディズレーリは決してチャーティストの主義主張に賛同していたわけではない。しかしジョン・ラッセル卿のような改革者までがチャーティストを攻撃している姿を奇異に感じており、それに反発したのである。ディズレーリは庶民院の演説で「イギリスのような貴族主義の国では反逆者さえも成功するには貴族的でなければならないことをチャーティスト達は思い知ることになるでしょう。(略) イギリスでは同じ改革者でもジャック・某の場合は絞首刑に処せられ、ジョン・某卿の場合は国務大臣になるのです」と皮肉っている。チャーティズムに理解を示した態度からもわかるように、ディズレーリはこの時点もこの後も保守党正統派というわけではなかった。保守党急進派、もしくは中道左派ともいうべき保守党内では特殊な政治的立場にいたのである。一方でディズレーリは保守党党首サー・ロバート・ピールに対する追従は欠かさず、タイムズ紙に寄稿してはピールを称え続けた。メルバーン子爵を寵愛するヴィクトリア女王がピールが提案した寝室女官の新人事に文句をつけてピールの組閣を阻止した寝室女官事件でも、ディズレーリは「マダム、それはなりません」という文を書いて女王を批判し、ピールの対応を称賛している。ホイッグ党の首相メルバーン子爵はヴィクトリア女王の寵愛のみで政権を維持していたが、すでに死に体であった。1841年5月に内閣不信任案が一票差で可決され、となった。この選挙でディズレーリはシュルズベリー選挙区に鞍替えした。選挙戦中にディズレーリは買収容疑をかけられたため、苦しい選挙戦となったが、なんとか再選を果たした。しかし買収容疑の追及は選挙後もしばらく受けた。選挙の結果、保守党がホイッグ党から第一党の座を奪い取ったが、メルバーン子爵はなおも政権を維持するつもりだった。それを阻止すべく、保守党内では庶民院議長再選に反対すべきとの意見が出されたが、ピールら党執行部はその路線は退けた(これによって庶民院議長の不偏不党性が確立された)。だが党内にはなおもそれを主張し続ける者があり、彼らは『タイムズ』紙に「ピシータカス」という偽名でその意見を掲載し始めた。この「ピシータカス」がディズレーリだという疑惑が広まった。ディズレーリはその噂を否定しているが、この件で保守党執行部から忠誠を疑われるようになった。ヴィクトリア女王はピールを毛嫌いしていたが、彼女の夫アルバートはピールを高く評価しており、彼がヴィクトリアを説得した結果、1841年8月30日にピールに大命降下があった。ディズレーリはピール内閣に入閣できるものと思っていたが、お呼びはかからなかった。次々と閣僚ポストが埋まっていくのに焦ったディズレーリは、ピールに自分を見捨てないよう懇願する手紙を送ったが、ピールからの返事はそっけなかった。そもそもピールも有力議員の顔を立てなければならないのであるから、全ての閣僚人事を自由にできるわけではなかった。結局ピール内閣は閣僚のほとんどが第1次ピール内閣(1834年~1835年)の時と同じ顔触れであり、新規閣僚は4人だけだった。ディズレーリは入閣できなかった。ピールから嫌われているわけではなかったが、保守党上層部の中には彼を胡散臭がる者は多かった。もっともディズレーリが入閣できなかったのはこの当時の保守党内政治力学を考えれば順当なことであり、入閣はディズレーリの高望みであった。入閣できなかったディズレーリは徐々にピールに批判的になっていった。とはいってもすぐにそうなったわけではない。院内幹事長からも「採決において政府法案に賛成しそうな与党議員」と見られていた。この立場をとり続けていれば、いつか閣僚になれたかもしれないが、ディズレーリはそんな悠長に待つ気にはなれなかった。党内反ピール派の若手議員ジョン・マナーズ卿、、の三人とともに党内反執行部グループ「」を結成した。ディズレーリを除く三人はケンブリッジ大学出身者であり、に影響を受けていた。オックスフォード運動とは自由主義化の風潮に抵抗して宗教改革以前の「純粋で腐敗のない宗教」を復活させることを目的とする運動である。これを宗教から政治に転用しようとしたものが「ヤング・イングランド」であり、一口にいえば封建主義時代に戻ろうという復古主義運動であった。こうした思想の者には紋切り型なピールよりディズレーリの機知にとんだ演説の方が魅力的に感じられた。とりわけ少年時代から顔見知りだったスマイズとディズレーリの相性が良かったが、コックランはディズレーリに野心性を見てとって警戒していたという。またディズレーリはカトリックに対して同情的であったものの、イングランド国教会の歴史的偉大さを確信しており、オックスフォード運動が主張するようなイングランド国教会をカトリック化するという案には慎重であった。そのため宗教に一家言あるマナーズ卿としばしば宗教論争となり、シニカルなスマイズを面白がらせていたという。スマイズは「ディズレーリの穏健なオックスフォード主義は、ナポレオンが若干イスラム教に傾斜していたのに似ている」と評しているマナーズ卿(の次男)とスマイズ(の長男)は貴族出身者であった。ディズレーリはコンプレックスがあったのか、二人に「イギリス貴族などというものは存在しない」と語りだしたことがあった。ディズレーリ曰く「今残っているイギリス貴族は5家を除いて、すべて最近になって称号を手に入れた者たち」であり、「真に長い歴史を持つ唯一の血筋はディズレーリ家」だという。スマイズはこれを笑って聞き、マナーズ卿は生来の真面目さで傾聴していたという。「ヤング・イングランド」の存在は1843年には公然の存在となり、4人は議場でも固まって座っていた。彼らは自分たちの所属する保守党の方針に反してでも「復古主義」「民衆的保守主義」の信念を貫く投票を行った。内務大臣サー・ジェームズ・グラハム准男爵は1843年8月に「ヤング・イングランドについていえば、その人形を操っているのはディズレーリである。彼が一番有能だ。」と書いている。自由貿易論者であるピール首相は1844年6月、外国産砂糖を植民地産砂糖と同じレベルの関税に引き下げる法案を通そうとした。これに反対を公言したのは「ヤング・イングランド」など一握りだけであったが、内心で反発する親植民地派は保守党内に少なくなく、彼らは「ヤングイングランド」の活動に好感を寄せるようになった。ディズレーリが「私は某大臣から48時間以内に態度を変えろと脅迫されたが、そのつもりはない」と演説すると議場から大きな拍手が起こっている。しかし結局、スタンリー卿(後のダービー伯爵)の巧みな演説のおかげで議会の状況はピール政権側に好転し、20票差で法案は可決された。この頃にはピールに深い信頼を寄せるようになっていたヴィクトリア女王も激しい怒りを感じたらしく、叔父ベルギー王レオポルドに宛てた手紙の中で「ヤング・イングランド」を「若い狂人の群れ」と評して批判している。またラトランド公爵とストラングフォード子爵に対して息子をしっかり監督するよう命じている。しかしディズレーリはお構いなしに1844年5月にピールを批判した政治風刺小説『』を出版し、その翌年5月には続編『』を出版した。『カニングスビー』は公爵の孫カニングスビーの政治生活や社交界生活を描くことで政府の方針や政党の主義主張、王権や貴族の衰微の原因などについて分析・批評した小説である。この小説が出版されてからイギリスで政治小説が流行るようになった。『シビル』では労働者やチャーティストの悲惨な生活を描き出し、富裕層と貧困層は階級の上下というよりも、もはや二つの国民に分断されている状態であると皮肉り、格差社会の弊害を説いた。この『シビル』の執筆によってディズレーリは自分の本来の世界観に立ち返ったといい、それがきっかけで1845年代にピール批判を一層強めることになったという。さらに1847年にはこの二作の続編として『タンクレッド(Tancred)』を出版しているが(これ以降20年以上小説を出版しなかった)、これはピール失脚後に書かれた物であり、ユダヤ教について語った小説である。キリスト教国の改造にはユダヤ教の教えを導入すべきであることを暗示した小説だった。1845年夏にアイルランドでジャガイモ飢饉が発生した。当時の一般的なアイルランド家庭はパンを買う余裕がなく、ジャガイモを主食にしており、アイルランドの食糧事情は危機的状態となった。ピール首相はただちに穀物法に定められている穀物関税を廃し、安い小麦を国外から買い入れられるようにしてパンの値段を下げなければならないと考えた。しかし地主が多く所属する保守党内の抵抗勢力から激しい抵抗を受けた。閣内も分裂状態となり、ピール首相は保護貿易主義者のスタンリー卿やバクルー公爵を説得できず、一度総辞職したが、ヴィクトリア女王が後任を見つけられなかったので、再度ピールに大命降下があり、保護貿易主義者のみを除いた以前と同じ顔触れの内閣を発足させた。ピールは再び穀物法を廃止しようとしたが、やはり保守党内の抵抗勢力の激しい反発に遭った。ディズレーリはこの保守党内の空気を利用してピール批判の急先鋒に立った。彼は「穀物の自由貿易はイギリス農家を壊滅させる。また自由貿易にしたところで穀物の価格は下がりはしない」という持論を展開した。さらに議会の礼節を無視した罵倒さえ行い、これにピールの弟が激怒し、ディズレーリに決闘を申し込み、またピール本人もかつてディズレーリが閣僚ポストを懇願してきた手紙を公開してやろうかと考えたほどだった。ディズレーリが全精力を注いで行ったピール批判演説によって、ピールは保守党内からイギリス農業を壊滅させようとしている党の裏切り者というレッテルを貼られるようになっていった。さらに保護貿易主義派のジョージ・ベンティンク卿(ポートランド公爵の次男)と連携して保守党内の造反議員を増やしていった。結局ピールは保守党庶民院議員の三分の二以上の造反に遭いながらも野党であるホイッグ党と急進派の支持のおかげで穀物法を廃止することができた。ディズレーリとベンティンク卿はピールを追い詰めるため、アイルランド強圧法案を否決させることにした。当時、政府がこのような治安法案で敗北した場合、総辞職か解散総選挙しか道はなかったが、党執行部は議席を落とすことを恐れているので解散総選挙はできないとベンティンク卿は見ていた。ちなみにベンティンク卿はこの法案について第一読会で賛成票を投じていたが、適当な理由をでっちあげて反対に回ることにした。二人にとってはもはや政策よりピールを潰すという政局の方が大切だった。この法案には穀物法の時ほど党内造反者を作ることは期待できなかったが、それでも70名ほどの造反者を出させることに成功した。そしてこの法案に反対するホイッグ党や急進派と協力して、1846年6月25日の採決で73票差でこの法案を潰す事に成功した。これを受けてピール内閣は6月29日に総辞職を余儀なくされた。ピール元首相以下、保守党内の自由貿易派議員112名は保守党を離党してピール派を結成した。閣僚や政務次官経験者など党の実務経験者はすべてこちらへ流れていった(後のディズレーリの宿敵ウィリアム・グラッドストンもその一人)。そもそも当時の保守党は貴族や地主の倅ばかりであり、家の力で議員になった者が多く、そこから実務経験者まで抜けてしまうとなると残るのは無能ばかりであった。そこにディズレーリが自由貿易批判、保護貿易万歳論を煽ったわけだから、保守党が単なる復古的農本主義団体と化していくことは避けられなかった。国民は保守党の統治能力を疑うようになり、この政党を政権につけたら革命を誘発しかねないという懸念さえ持つようになった。保守党はこの後30年にわたって国民から倦厭され続け、少数党の立場から抜け出せなかった(その間もしばしば保守党が政権に付くことがあったのは野党が分裂していたからである)。これについてディズレーリの伝記作家ブレイク男爵は「ディズレーリとベンティンクはピールを攻撃してるつもりで保守党を破滅させた」と評した。ピール内閣総辞職後、ヴィクトリア女王は新たな保守党党首スタンリー卿に首相の大命を与えようとしたが、彼は党の実務経験者がすべてピール派に移っていたことから組閣は不可能と判断してホイッグ党とピール派に連立政権を作らせるよう奏上した。こうしてホイッグ党のジョン・ラッセル卿に大命降下があり、ラッセル卿内閣が成立した。発足当初のラッセル卿内閣はホイッグ党とピール派の連立を基盤としていたが、この両勢力は自由貿易以外に共通点がなく、政権はすぐに行き詰り、1847年6月にはとなった。すでに知名度の高い議員になっていたディズレーリは、この選挙でバッキンガムシャー選挙区に鞍替えしたが、圧勝して再選を果たしている。しかし総選挙全体の結果は改選前とほとんど変わらないものだった。結局ラッセル内閣は議会の支持基盤が不安定なまま、しかし保守党が分裂しているために政権を維持できるという状態で政権運営を続けることになった。保守党の分裂で党有力者が軒並みピール派へ移ったことはディズレーリにとっては党内で枢要な地位を固めるチャンスであった。ディズレーリが保守党指導者に上り詰めるためには「反抗期の青年議員」を卒業して「威厳ある保守政治家」にならねばならなかった。まず変化したのは服装だった。これまでのディズレーリの悪趣味なカラフルな服装は、落ち着いた雰囲気の紳士的な服装に変わった。また保守党内で出世するためにはどうしても大邸宅に住む地主になる必要があったので、大富豪ポートランド公爵の息子であるベンティンク卿とその弟卿から資金援助を受けて、1846年ににを購入した。しかし厄介な問題も発生していた。先の総選挙でユダヤ教徒の銀行家ライオネル・ド・ロスチャイルドがホイッグ党の議員として当選していたが、彼はキリスト教徒としての宣誓を行えないため、議員になることができなかった。これについて首相ラッセル卿がユダヤ教徒の公民権停止の撤廃を審議すべきとする動議を議会に提出した。これに対してディズレーリとベンティンク卿をのぞくピールを失脚させた保守党議員らがいっせいに反発したのである。ちなみにベンティンク卿は動議賛成に回ってくれたが、彼もユダヤ人に好意を持っていたわけではなく、ディズレーリとの友情からそうしただけであった。ディズレーリがただひたすらに保守党指導者を目指そうと思うなら、批判と孤立を避けるためにこの動議の採決に欠席するという手段もあった(どっちにしてもホイッグ党や急進派、保守党内穏健派の賛成で動議は可決される見通しだった)。だがディズレーリにとってこれはアイデンティティに関わる問題であり、ユダヤ人同胞が不当な扱いを受けている時に隠れて見て見ぬふりをすることはできなかった。ディズレーリは演壇に立ち、『タンクレッド』の中で示した「ユダヤ教とキリスト教は兄弟である」という信念を改めて開示し、また「ユダヤ人は本来保守的な民族なのにこんな扱いばかり受けるからいつも革命政党の方に追いやられ、その高い知能でそうした政党の指導者になるのだ。これは保守党にとって大変な損失だ」と演説し、動議に賛成票を投じた。ディズレーリに従ってピールを失脚させた議員らは誰もこの演説に拍手しようとしなかった。評価したのはむしろホイッグ党であり、首相ラッセル卿は「仲間が嫌う理論をあんなふうに擁護するのは大変勇気がいることだ」と感心している。病を患っていたベンティンク卿は上記動議に反発する者たちを抑えるため、党庶民院院内総務を辞職した。1848年2月10日、その後任にグランビー卿(ディズレーリの盟友ジョン・マナーズ卿の兄)が就任したが、彼は自分がその器ではないと自覚しており、3月4日には辞職した。その後しばらく保守党庶民院院内総務職は空席になっ

出典:wikipedia

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