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秋水

秋水(しゅうすい)は、太平洋戦争中に日本陸軍と日本海軍が共同で開発を進めたロケットエンジンの局地戦闘機である。ドイツ空軍のメッサーシュミット Me163の資料を基に設計を始めたが、試作機で終わった。正式名称は試製秋水。海軍の略符号はJ8M、陸軍のキ番号はキ200である。「十九試局地戦闘機」と称されることもあるが、1943年(昭和18年)の兵器名称付与標準の改訂に伴い、1944年(昭和19年)には年式を冠称した機体開発は行われなくなっていた。計画初期には「Me163」の名で呼ばれていた。秋水の名称は、岡野勝敏海軍少尉の『秋水(利剣)三尺露を払う』という短歌に由来する。1944年12月、飛行試験成功後の搭乗員・開発者交えた宴会で横須賀海軍航空隊百里派遣隊から短歌が提出され、満場一致で「Me163」から変更された。この名称は陸軍、海軍の戦闘機の命名規則には沿っていない(軍用機の命名規則を参照)。第二次世界大戦中、日本とドイツの技術交流は、独ソ戦によってシベリア鉄道ルートが閉ざされ、英米との開戦により水上船舶ルートも困難になってしまった。両国の人的交流、物的交流は、インド洋を経由した潜水艦輸送に限定されるようになった(遣独潜水艦作戦)。日本から技術供与できるものは少なく、アジア各地の天然資源である生ゴム、錫、タングステンなどの戦略物資をドイツに輸送する見返りとして、ドイツはジェットエンジン、ロケットエンジン、原子爆弾などの新兵器の技術情報を日本に供与した。1944年4月、日本海軍の伊号第二九潜水艦は ロケット戦闘機 Me163Bと ジェット戦闘機メッサーシュミット Me262の資料を積んでドイツ占領下フランス・ロリアンを出発し、7月14日、日本占領下のシンガポールに到着したものの、シンガポール出港後バシー海峡でアメリカ海軍のガトー級潜水艦「ソーフィッシュ」(USS Sawfish, SS-276) に撃沈されてしまった。しかし、伊29潜に便乗した巌谷英一海軍技術中佐がシンガポールから零式輸送機に乗り換え、空路で日本へ向かっていたために「噴射機関」資料の完全な損失は避けられた。だが、もたらされた資料は本機のコピー元である Me163B の機体外形3面図と、ロケット燃料の成分表と取扱説明書、ロケット燃料噴射弁の試験速報、巌谷中佐の実況見分調書のみであった。そのため、資料不足から設計そのものを完全にコピーすることはできなかった。第二次世界大戦末期、高度1万メートル以上を飛来するアメリカ軍のB-29の邀撃に、高々度用の過給機を装備していない、在来の日本軍レシプロ戦闘機では高度を維持することすら困難で、邀撃しても1撃から2撃を行うのが限度であった。レシプロ戦闘機と異なり、ロケット戦闘機は酸化剤と燃料を全て内部に搭載し、酸素を外気に求めなかった。したがって高高度の希薄な大気に影響されないエンジン特性を持つ。そこで、邀撃機としてB-29の飛行高度まで加速度的に達し、1撃から2撃をかけるだけならば、数分の飛行時間しかないロケット戦闘機でも「局地的な防衛には十分に有効」との判断が下され、陸軍、海軍、民間の三者の共同によって開発が急がれた。手に入ったMe163の設計資料が不十分であるため、日本の技術で補完する必要があった。Me163B の機首部に見られる発電用プロペラを廃し、無線装置とその蓄電池搭載のために機首部は延長されており、内部の桁構造やキャノピーなども日本独自の設計となる。主翼も木製になり左右が10 cm程度ずつ延長されている。機体の特徴である無尾翼はすでに東京帝国大学航空研究所で木村秀政研究員が同様の機体の設計を手がけており、またロケットエンジンの研究は昭和15年より陸軍航空技術研究所で開始されていた。この陸軍のロケット研究は後に三菱重工によってイ号一型甲無線誘導弾、乙の液体ロケットエンジン「特呂一号」に発展している。さらに巌谷資料が届く以前より三菱重工長崎兵器製作所においては酸素魚雷に次ぐ魚雷の駆動力として回天二型向けに高濃度過酸化水素と水加ヒドラジンの化学反応による駆動の研究が完成段階にあり、同じ化学反応を利用したロケットエンジンの研究も進められていた。秋水が開発されるにあたり、セクショナリズムの弊害が目立っていた日本軍で陸海軍共同の製作体制を構えたことは画期的な事であった。官民合同研究会席上、機体の製作を海軍主導で、国産ロケットエンジンの開発を陸軍が主導で行うこととなった。これは陸軍で「特呂二号」、海軍で「KR-10」と呼称された。しかしここに来て三菱は無尾翼機の開発経験がなく、前記の通り外見図も簡単な3面図のみだったため翼形を決定できなかった。そのため三菱は依頼当初「開発は不可能である」と返答した。しかし海軍航空技術廠が翼形の割り出しや基本的な空力データの算出を急きょ行った。苦肉の策ではあったが量産工場と研究機関が連携を取れた数少ない例である。機体の設計は基本となるデータが入手できたため経験で開発を進められた。しかしロケットエンジンという未知のエンジンの開発にレシプロエンジンでつちかった技術はほとんど役に立たなかった。当初の予定では、エンジンは機体の完成と同時期に 2 基が完成しているはずであったが、12月初めの機体完成の時点で試作機の製図作業が済んでいたにもかかわらず、飛行の可能な完成機については具体的な目処すら立ってはいなかった。さらに同年12月には東海地区を東南海地震が襲い、アメリカ軍のB-29による爆撃も開始された。地震によりエンジン開発を行っていた三菱航空機名古屋発動機研究所が壊滅し、研究員は資料をもって横須賀市追浜の空技廠に移動して作業を続けることとなった。秋水に搭載されるエンジン「特呂二号」は Me163 に搭載されていたヴァルター機関「HKW-109/509A型」のコピーとなるはずであったが、機体と同じようにエンジンの資料も簡単なものだった。そのため手持ちの資料を参考に自主開発するよりなかった。燃料は燃料概念図を参考にし、濃度 80 % の過酸化水素を酸化剤に、[メタノール 57 % / 水加ヒドラジン 37 % / 水 13 %] の混合液を化学反応させるというシステムである。日本は前者を甲液、後者を乙液と呼んだ(ドイツはT液とC液)。また安定剤兼反応促進剤として甲液にはオキシキノリンとピロリン酸ソーダを、乙液に銅シアン化カリウムが加えられた。これらの燃料は人体を溶解してしまう劇薬で、特に甲液の高濃度過酸化水素は無色透明のうえ異物混入時の爆発の危険性と有機物に対する強い腐食性があり、秋水の整備は長袖、長ズボンで行わなければならなかった。かなり簡単に言えば、甲液の供給する酸素により燃料である乙液を燃焼させるシステムであるが、このロケットの構造はとても複雑で、甲乙の液を単に反応させれば良いというものではなく、酸化剤(甲)と燃料(乙)の配合をはじめ、デリケートなセッティングが必要だった。基本的な構造を理解していても燃料噴出弁の調整をミリ単位でも間違えば出力が上がらなかった。なお、乙液の配合については、理化学研究所の女性化学者加藤セチ博士の「水が足りない」というアドバイスを参考にしており、第二次世界大戦中に日本の航空機開発に女性が参加した希有な事例となっている。全木製の軽滑空機MXY8「秋草」が1944年12月26日に、海軍三一二航空隊の犬塚大尉によって滑空飛行テストを行った。当初は着陸に成功するだけで「万歳」の声があがる有様だったが、滑空機としてのテストは順調に回を重ね、操舵感覚は良好で機体設計そのものに問題なしとの評価を受けた。実験後の宴会では、国民の士気を高めるために重滑空機の塗装をオレンジではなく真紅にすることが提案され、実現した。1945年1月8日にはエンジンと武装が外された状態の実機と同じ状態の「秋水重滑空機」が、やはり犬塚大尉の手によって試飛行を行った。312空司令柴田武雄大佐が新興宗教(お光教)に傾倒していたことも開発に大きな影響を与えた。1945年4月11日空技廠会議で柴田は「神のお告げにより秋水の初飛行を4月22日横須賀地区で行う」と発言し当時の技術者らを茫然とさせる。その後もお光教のお告げとして柴田が秋水試験飛行を厚木基地から追浜基地に変更させた際は、三菱の技師らから狭いので危険と指摘があったが、狭いのなら機体を軽くせよと命じる。加えて神のお告げで1.5トンの機体が500キロにまでさせられた。また、突然燃料を少量にし、エンジンの持続時間を2分でいいと決め、エンジン完成を待ち7分持続できるまで待つべきとする技師らの意見は黙殺された。設計資料を入手してから約1年の1945年(昭和20年)7月7日、横須賀海軍航空隊追浜飛行場で秋水は試飛行を迎えた。陸海軍共同開発機とはいえ「メーカーとのロケットエンジン共同平行開発」「実験・実施部隊創設」を進めていた海軍が陸軍に先んじ試飛行をおこなうこととなった。当初は4月12日に強度試験機「零号機」による試飛行も検討されたがロケットエンジンが間に合わず、幾多の試行錯誤を経て3分間の全力運転が達成された後の試飛行となった。テストパイロットは犬塚豊彦大尉(海軍兵学校七十期)。神奈川県足柄山中の「空技廠山北実験場」から横須賀市追浜の夏島に掘られた横穴式格納庫内に運ばれたKR-10(特呂二号)は、実施部隊である三一二空整備分隊長廣瀬行二大尉(海軍機関学校五十二期)と、特呂二号に関しての特別講義を受けた上等下士官たちによって秋水に組み込み整備された。試飛行当日、全面オレンジ色の試作機カラーで垂直尾翼に白い縁取りの日の丸を描いた秋水は飛行場に引き出された。ここで、整備分隊士によって車輪投下実験が入念に行われ確実に作動することが確認された。午後1時には上級将校も列席。だが午後2時に予定された発進はエンジンがかからず再整備のために遅れた。翌日延期も検討されたが、犬塚の決心は固く、試運転は続行された。午後4時55分、滑走を開始。翼を持ったまま10メートルほど秋水と一緒に走って廣瀬大尉は手を離した。滑走距離220メートルで離陸、成功を確認した三一二空山下政雄飛行長が合図の白旗をあげた。高度10メートルで車輪投下、しかし連動しているはずの尾輪が上がらず(収納されたという証言もある)、機体は角度45度で急上昇に移った。「試飛行成功か」と思われた瞬間、高度350mほどのところで突然尾部から噴出する炎が黒煙となった。異音とともにエンジンが停止。エンジン停止後余力で150メートルほど上昇した。廣瀬大尉の指示により東京湾には本牧あたりまで救助艇が用意されていたものの、不時着水せずに右旋回、滑走路への帰投コースをとり始めた。エンジン再起動が二度試みられるも果たせず、甲液の非常投棄が始まった。しかし非常投棄はなかなか進まず、第三旋回時点の高度は充分に高かったが、その後の沈下速度がはやく高度を失った。残留甲液による爆発を懸念したのか、犬塚大尉は沢山の見学者が見守る滑走路を避け脇の埋め立て地への不時着を目指した。それが第四旋回の遅れとなり失速気味となりながら滑走路手前の施設部の建物を越そうと機首上げ、右翼端が監視塔に接触。そのまま追浜飛行場に隣接していた鷹取川で反跳し、飛行場西端に不時着大破した。残留甲液によるもうもうたる白煙が発生したが、消防車による放水と同時に整備分隊士が犬塚大尉を操縦席から救出した。意識のあった犬塚大尉はすぐさま鉈切山の防空壕へ運ばれたが、頭蓋底骨折のため翌未明、殉職した。事故の原因は燃料タンクの構造上の問題であった。秋水は発進後仰角を大きく取って急上昇する。しかし燃料の取り出し口はタンクの前方に取り付けてあった。試験当日は燃料をタンクの1/3しか積まなかったため、上昇する際に燃料がタンクから吸い出せなくなり、エンジンがストールを起こしたと結論付けられた(本機原型のMe163も、飛行中燃料供給に支障が出ることがあった)。またエンジン不調のため長時間試運転が続けられ、燃料が不足していた可能性も搭乗員達の間で指摘されていた。ただちに試作二号機の製作が始められたが、肝心のエンジンが試験中に爆発して失われて頓挫。開発陣の中には「秋水は、昭和二十一年になっても実験段階どまりだったろう」と評するものもいる。生産2号機が陸軍のキ200として、千葉県柏飛行場の飛行第七〇戦隊へ運搬され、荒蒔義次少佐はロケットエンジンを使う前にまず重滑空機で飛行特性をつかむ試験を行っていた。ロケットエンジンを搭載すれば飛行可能となる状態が維持されたまま終戦を迎えた。秋水の開発は終戦の日まで続けられたが、ふたたび動力飛行を行うことは無かった。秋水は試作機製造と平行して量産型の図面化も進行していた。秋水量産計画は安来工場などもあわせ日立製作所中心の5工場で製造し東京周辺の飛行場に1945年3月に155 機、1945年9月に1,300 機、1946年3月に3,600 機を実戦配備するという無茶な計画で、当時の日本の工業力では夢の話だった。仮に量産化が行われ実戦配備されても、航続距離が短い秋水は自機が発進した飛行場上空しか防衛できない上、Me163B がそうであったように滑空中を敵戦闘機に撃墜されたと予想される。航続距離の短さから、迎撃は敵機が行動範囲内に進入した後の待ち伏せ的な戦術が主流となるが、この方法はレーダー施設などの索敵施設との連携が鍵であり、当時の日本にはとても望めるものではなかった。実際に実戦配備が行われたとしても秋水の出番は皆無、もしくは事故続出で戦闘以上の被害を出していたと想像される。さらに燃料というべき甲液、乙液は一回の飛行で2 トンあまりを消費する上、生産設備はB-29の本土空襲により必要量を満たすだけの生産量を確保できなくなっていた。たとえ、新規に工場を作ったとしても空襲により早晩破壊されるのは明白だった。秋水は特攻兵器として開発されたものではない。しかし、312空では、秋水の速度が速すぎるために機銃の照準が困難と分かり、柴田武雄司令のもと山下政雄飛行長の提案でB-29編隊中で爆弾自爆する特攻戦法が採用された。多数の士官らの会議において秋水の機首に3号爆弾2発搭載でまとまっていたが、数日後の会議で山下飛行長から「秋水の機首に600キロ爆弾を搭載して敵編隊の中でボタンを押して自爆する戦法をとる」と特攻の決定が申し渡された。1945年6月に土浦航空隊で14期甲飛を中心に800名の秋水要員(秋田分遣隊)編成。15日渡邊孝次郎少佐が秋水による特攻要員訓練であることを明かす。312空、362空、322空が秋水の特攻部隊として予定されていた。林安仁陸軍中尉は「上昇時と下降時に一撃づつかけるだけですが、空戦をやってみたかった」という。荒蒔義次陸軍少佐は「こんな(空戦時間が)4分じゃつまらない」「秋水だけは怖かった」「飛行を開始したら特兵隊のパイロットが次々死んでいく予感があった」という。有滝孝之助陸軍大尉は「伝習教育が終わったら火竜でやりましょう」と話していた。装備予定の部隊搭乗員の訓練部隊戦後日本軍機の技術調査をすべくアメリカ軍に持ち去られた3機のうち1機が、ほぼ完全な形でアメリカ・カリフォルニア州のプレーンズ オブ フェイム()航空博物館に、同じく旧日本軍(海軍)の局地戦闘機である雷電と共に展示されている。また、1961年(昭和36年)6月に神奈川県の日本飛行機杉田工場の拡張工事の際に土中より発見された機体がある。発見後、1963年(昭和38年)2月より航空自衛隊岐阜基地にて保管されていたが、1997年(平成9年)11月に三菱重工業へと譲渡され、残された1,611枚の設計図に基づいて2001年(平成13年)12月に復元された。この機体は、現在愛知県小牧市の名古屋航空宇宙システム製作所史料室に展示されている。以下は連合国などで後世に伝えられる本機の関連計画機だが、日本軍側の記録にはそのような機体の開発計画は存在しない。

出典:wikipedia

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