隆の里 俊英(たかのさと としひで、1952年(昭和27年)9月29日 - 2011年(平成23年)11月7日)は、青森県南津軽郡浪岡町(現在の青森市)出身で二子山部屋所属の元大相撲力士、第59代横綱。本名は高谷 俊英(たかや としひで)。現役時代は身長181cm、体重158kg。得意手は、右四つ、寄り、吊り、上手投げ。引退後は年寄・鳴戸を襲名。鳴戸部屋師匠として稀勢の里、若の里、隆乃若ら7人の関取を育成した。血液型はO型。二子山親方が、故郷の青森県に来て大鰐で下山勝則(後の若三杉、2代若乃花)をスカウトした後タクシーに乗ると、運転手が「親方、浪岡にも大きいのがいますよ」と言うので紹介を頼んだ。これが高谷俊英、後の隆の里だった。当初は高校入学直後で足を怪我していたため固辞したが東京見物を口実に連れ出されその間に身辺に根回しをされてしまい観念した。偶然のことから二子山親方に勧誘された高谷は、浪岡高校(柔道に励んでいた)を中退して二子山部屋に入門することを決める。後に横綱に昇進する下山少年と高谷少年が、二子山親方に連れられ、夜行列車に乗って一緒に上京したことになる。親方らは二人が途中駅で下車し引き返さないように終点上野駅の一つ前の駅まで一晩中寝ずに見張り、その駅を出発してようやく安心して眠ったという。1968年(昭和43年)7月場所で初土俵を踏む。未成年の取的時代から酒好きであり、しばしば稽古を抜け出して酒を一気飲みする、稽古の後にビールを3本飲み、ちゃんこと一緒にウイスキーを飲むという半ば酒に溺れた食生活を行っていた。これら暴飲暴食が祟り、幕下だった1972年(昭和47年)に、糖尿病を患った。食事に厳しい制限が課せられ「いっぱい食っていっぱい稽古して」という力士が強くなるための条件を半分失ってしまった。幸いにも稽古するなとは言われておらず、むしろ稽古を増やすことで病状が快方に向かうので人一倍稽古をした。糖尿病を隠す力士も多い中、病気を周囲にきちんと公表し、後援者などとの酒の席でも「病気のためにあまり飲めません」と説明していたらしい。本人はインタビューで「相撲でつとまらなくて中途半端な状態で田舎に帰ったら、周囲から何を言われるか分からない。だから頑張った」と当時を説明している。また二子山親方夫妻も幕下力士としては異例の糖尿病治療用メニューを認めるなど治療に全面的に協力していた事も大きかった。持病を公表し、さらに親方が治療に協力していることが周知されたために、後援者にも協力的な者が多かったとも伝わる。糖尿病に効くと言われれば薬や民間療法も試すなど治療のためなら正に何でもしたが、失敗も少なくはなかった。ある時野菜ジュースを作っていた際、同部屋の兄弟子である貴ノ花に「みんなで酒飲んでる時に君だけ野菜ジュースか」と言われた事があり、「漢方薬博士」というあだ名も贈られていた。もちろんこれは弟弟子に対する愛情表現である。糖尿病を患ってからは成績が振るわず、同期生の若三杉(下山)に水をあけられたが、若三杉は「同部屋のライバルは誰ですか?」と聞かれれば、たとえ失笑されても常に「隆ノ里です(「の」の字は当時は片仮名)」と答えていたことも励みになった。若三杉が横綱・若乃花になって以降も、インタビューなどでは「隆の里は俺より強いですよ」とたびたび答えている。当時の隆の里は「稽古場大関(横綱)」と呼ばれ、関係者の間では実力者であることが認識されていた。十両東3枚目だった1975年(昭和50年)1月場所には珍しいヌケヌケを記録している。初日に勝ってのヌケヌケであったため8勝7敗の勝ち越しだった(後述)。1975年5月場所新入幕。当時から怪力による吊り寄りの強さがあったが、突き押し相撲には弱く、相手を捕まえられないまま土俵を割ってしまう場面も多かった。糖尿病の影響で血糖値が不安定なのも影響していたようだ。また身体が柔軟性に欠け、柔道時代の癖もあって、どちらかというと取り口は不器用な方だった。この点、身体の柔らかさからくる懐の深さを武器にしていた若三杉とは対照的である。実力は十分ながら精神面で弱いと評されたこともあり、大舞台でなかなか実力を発揮できない部分もあったと言われている。大関候補として期待がかかっていた1981年(昭和56年)7月には『糖尿病に勝った!』(立風書房。のち学習研究社に合併)という本を出している。入幕してすぐには幕内に定着できず、十両との往復を繰り返した。その間に、同部屋の若三杉や怪童と呼ばれた北の湖など、いわゆる花のニッパチ組(昭和28年・1953年生まれ)に先を越されてしまう(隆の里は昭和27年生まれ)。1979年(昭和54年)5月場所に4度目の入幕。翌7月場所で四股名を「隆ノ里」から「隆の里」に改名し、以後は幕内に定着する。1980年(昭和55年)頃から糖尿病が快方に向かい成績が向上。師匠・二子山親方がよき理解者となり治療に協力したのが大きかったという。隆の里は、1970年代の相撲界では異端視されていた筋力トレーニングなどの科学的トレーニングを、早くから積極的に行っていた。一部で「頑迷」と語られる二子山も、隆の里が科学的トレーニングばかり行うのではなく相撲本来の稽古も熱心だったことから、独自のトレーニング方法を認めていたと言われる。千代の富士や琴風、朝汐、同部屋の太寿山などと並んで大関候補と呼ばれるようになった。とはいえ精神面の弱さからか成績が安定せず、優勝争いにも顔を出す程の大勝ちもあるが大事な場所で2桁勝利に届かず大関昇進に幾度か失敗し、千代の富士や琴風に先を越される結果になった。その後苦労のかいあって三役で三場所合計33勝を挙げ、1982年(昭和57年)1月場所後に当時最スローの82場所、29歳3か月の年齢で大関に昇進した。同年9月場所には15戦全勝で初優勝を果たした。最初の綱とりは10勝5敗で失敗するが、翌場所から成績が上昇し1983年(昭和58年)7月場所で14勝1敗で2度目の優勝を果たし、場所後に当時30歳11か月の高齢ながら第59代横綱にようやく昇進を果たす。横綱昇進伝達式では「節制に努め努力精進致します」と、糖尿病を抱える身であり治療のために様々な工夫を重ねていることを公言する隆の里ならではの口上を述べた。なお横綱土俵入りの型は、当時から後継者が少ない「不知火型」を選んだ。糖尿病の苦しみに耐えながら時間をかけて横綱に上り詰めた姿から、新聞は当時の人気ドラマ『おしん』(NHK連続テレビ小説)になぞらえ「おしん横綱誕生」とその昇進を伝えた。隆の里は身体が硬いせいか立合いがやや腰高なため、突き押し相撲や差したらいっぺんに出てくる速攻相撲(琴風など:後述)はやや苦手にしていた。しかし持ち前の怪力を生かし、右四つがっぷりに組み止めてしまえば、どんな強敵もほぼ確実に仕留めるだけの力を持っていた。右四つ両廻しを引き付けて吊り寄りで攻めるというのが得意な取り口だった。千代の富士(隆の里とは同時に十両に昇進している)は隆の里を大の苦手にしていた。千代の富士いわく「右の相四つだけどがっぷりになると力負けする、何をやっても全部読まれて裏目に出る」という程のものだったといい、場所中に支度部屋や廊下で隆の里とすれ違う際、顔も見たくない気分だったという。隆の里は「千代の富士に1回勝てば白星3個分の価値がある」として攻略のため、千代の富士の相撲をビデオテープに録画、何度も繰り返し再生し、千代の富士の弱点を徹底研究していたと言われる。その結果ビデオテープが擦り切れたり、ビデオデッキが壊れ修理に出すと擦り減ったヘッドを見た店員に「どうやったらこんな壊れ方するの?」と言われたり、隆の里がビデオばかり見ているので遊びに来た友人が呆れ果てて帰ってしまう、というほどだった。千代の富士には対戦成績で16勝12敗(十両でも3度の対戦がありこれを含むなら18勝13敗)。さらに、千代の富士の横綱昇進後に限れば11勝6敗と圧倒した。千代の富士が平幕の頃から横綱だった北の湖を除けば、隆の里がただ1人歴然とした差で勝ち越しており、1981年7月場所から1982年9月場所まで8連勝した。この頃の両者の相撲は立ち合いは千代の富士が前ミツを取り攻勢に出るのだが、隆の里が持ち前の怪力と後にウルフスペシャルと言われた投げに対しては外掛けで我慢し、長い相撲に持ち込んで徐々に千代の富士の体を起こしてがっぷり右四つに持ち込んで寄る、吊る、投げるという言わば必勝パターンを確立していた。さらに、1983年7月場所から1984年(昭和59年)1月場所まで、4場所続けて千代の富士と優勝をかけて千秋楽相星決戦を行ない、3勝1敗という成績を残し、この間に隆の里は横綱昇進を果たしている。隆の里は優勝決定戦を1度も経験していないが、もし千代の富士対隆の里という決定戦があれば、千代の富士の決定戦無敗はなかったかもしれない。対千代の富士戦では多くの熱戦があったが、1981年9月場所では、横綱に昇進したばかりの新横綱千代の富士と2日目に対戦が組まれた。たまたま隆の里は体調不良で、病院から直接国技館に場所入りして対戦。互いにがっぷり四つになり、しばらく土俵中央で胸が合っていたところ、突然隆の里が強烈な上手投げで一瞬で千代の富士を横転させるという展開になった。千代の富士は場所前から痛めていた足首を負傷し、翌日から休場を余儀なくされる。病院から場所入りした隆の里が、千代の富士を病院送りにするという皮肉な結果となった。千代の富士は翌場所やっと復活したものの、隆の里は対千代の富士戦で更に6連勝を重ね、横綱を全く寄せ付けぬ強さを発揮した。横綱昇進前には「史上最強の大関」という呼び方をされることもあった。なお1982年前後、隆の里、千代の富士、琴風の横綱・大関陣は三すくみの関係にあった。隆の里は千代の富士に強く、千代の富士は琴風に強く、琴風は隆の里に強いのである。千代の富士戦に8連勝したのと同時期の1981年9月場所から1982年7月場所にかけて琴風戦では6連敗を喫するなど、隆の里は長く琴風を苦手にしていた。しかし、横綱昇進の時期には琴風を圧倒するようになっていた(1983年1月場所までの琴風戦は4勝17敗、1983年3月場所以後の同対戦は9勝1敗)。1983年9月場所は、千秋楽結びの一番において14戦全勝の横綱同士の相星決戦で千代の富士を倒して、新横綱で15戦全勝優勝を果たした。新横綱の全勝優勝は1938年(昭和13年)1月場所の双葉山以来実に45年ぶり、15日制定着後は史上初の快挙である。横綱同士の楽日全勝対決は1960年(昭和35年)3月場所の初代若乃花-栃錦、1963年(昭和38年)9月場所の柏戸-大鵬、1964年(昭和39年)3月場所の大鵬-柏戸、そしてこの一番まで4度を数えるがこれを最後に25年以上も出ていない(大関が参加した楽日全勝対決は2012年7月場所の白鵬-日馬富士で実現)。1983年11月場所は千代の富士との13勝1敗同士の相星決戦となり、惜しくも敗れて3連覇(結果から言えば4連覇)は逃したが、同1983年において自身唯一の年間最多勝を受賞した。翌1984年1月場所でも4場所連続で千代の富士との相星決戦となり、13勝2敗で4度目の優勝を果たしたが、これが隆の里の最後の幕内優勝となった。昇進時の「おしん横綱」のほか、僧帽筋が大きく盛り上がった筋骨隆々の体型から「ポパイ」というあだ名もあった。腕力には絶対の自信を持ち、「江戸の雷電と戦ってみたかった」とも話している。一時期は「千代隆(ちよたか)時代」の到来を期待する声もあったが、1984年3月場所以降は体力の衰えや故障が重なり、成績が徐々に下降する。1984年9月場所11日目、入幕2場所目ながら最後まで優勝を争い「黒船来襲」と恐れられた、前頭6枚目の小錦との初対戦では、強烈な小錦の押し出しに土俵外まで吹っ飛んでしまった。その後1984年11月場所から1985年(昭和60年)5月場所まで、肘の怪我悪化により手術を受けるなどで、4場所連続休場に(途中休場2場所・全休2場所)。再起を挑んだ1985年7月場所で10勝を挙げて一度は復活するが、これが隆の里の千秋楽まで皆勤出場した最後の本場所となった。翌9月場所は初日から2連敗を喫し3日目から途中休場。11月場所は4日目、関脇北尾(のち双羽黒)を攻めきることが出来ず逆転負け、1勝3敗となったこの時点で新聞各社は引退を疑わなかったが、現役続投で5日目から又も途中休場に。進退を掛けて臨んだ1986年(昭和61年)1月場所でも本来の力は回復せず、同場所初日に保志(のち北勝海)との取組では肩透かしで敗れたのを最後に、同場所限りで現役引退(当時の年齢33歳3か月)を表明。横綱在位は15場所(約2年半)だった。このように引退時期が遅れたのは本人の引退する意思にもかかわらず、師匠・二子山の許しが出なかったからと言われる。その師匠も最後に了解したときは、涙を流していたらしい。優勝4回は横綱としてはあまり多くはないが、うち2回が全勝であった。最盛期の1983年3月場所~1984年1月場所の6場所では優勝3回+次点3回で80勝10敗、短期間ながらライバルを圧し最強と見られた点、決まったら必勝の得意な型(右四つがっぷり)をもっていた点、時間をかけて出世した点などは、横綱・三重ノ海と共通する。ただし、大関時代前半には角番を繰り返し大関陥落も経験、2桁勝利がなかなか挙げられず「大関失格」と言われた時期もあった三重ノ海に対し、大関時代の隆の里は1場所を除いて全て10勝以上と終始安定していた点が異なる。期間の長短はともかく、ライバルが不在がちの千代の富士に対抗した唯一の横綱、という評価も多く、また九重親方(元横綱・北の富士)も隆の里の引退時、「千代の富士が今日あるのは、ライバルとしてここまでした、という隆の里の功績も大きい」という賛辞を贈った。引退後は年寄・鳴戸を襲名して、二子山部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、1989年(平成元年)2月1日付で力櫻ら6人の内弟子を連れて二子山部屋から分家独立して鳴戸部屋を創設した。若くして糖尿病にかかった影響で出世が遅れ、衰えが早かったが、親方としての手腕は闘病経験が存分に活かされていた。大相撲解説では分析力は角界随一と呼ばれるほど相撲知識が豊富であり、弟子を指導する時も他の親方のように頭ごなしに叱り飛ばすような指導方法は取らず、全員に分かるまで諭すというやり方をとった。本場所中のここぞという勝負どころでは長時間にわたって作戦を細かく授ける周到さも見られた。弟子を勧誘する際も一部の親方のように好条件やはったりで釣らず誠実に勧誘するのが方針であったという。一方では弟子に対する管理が厳しかった一面もあり、「独身者の預金通帳を女将に預けさせ、通帳の使用は許可制」、「弟子が5年間に20人以上引退した時期もある」などという一面も報道されたことがある。自身の現役時代の経験から弟子の指導に食育を積極的に取り入れており、食品や料理への造詣も深かった。毎日のちゃんこも自身が納得するまで何度も力士達に作り直させていたほどこだわりが強く、うどんもラーメンも、麺から力士たちが打つほどであった。NHKの料理番組「きょうの料理」の講師(魚料理)を務めたほか、2003年(平成15年)12月には著書『親方はちゃんこ番』(ポプラ社 ISBN 978-4591078167)を上梓している。引退後は審判委員を長く続けていたが、当時の現役年寄で千代の富士以前の横綱経験者が全て理事もしくは役員待遇委員なのに対し、隆の里は北の湖や千代の富士より年上にもかかわらず、役員待遇ではなかった。二所ノ関一門に横綱・大関経験者が多過ぎることや、横綱時代の実績の差も原因と見られる。学生相撲出身者を一切採用せず、いわゆる"中卒叩き上げ"力士を数多く入門させ、若の里、隆乃若、稀勢の里の3力士を関脇へ昇進させる等、合計7人の関取を育てた手腕が評価されている。その一方で、近年では珍しく出稽古を禁じていることに関しては他の親方から疑問を呈されていた。2009年(平成21年)3月23日の理事長懇談会の席で、武蔵川理事長(横綱・三重ノ海)は「稀勢の里は出稽古に行かないと成長しない」という旨の発言をし、九重広報部長(横綱・千代の富士)もこれに同調した。これに対し鳴戸はという主張で反論している。双方の意見に対し、元横綱・大鵬の納谷幸喜(当時既に協会を停年退職)は自身の連載で、大鵬が関脇の頃若羽黒のもとへ出稽古したことや初代若乃花に巡業で稽古してもらったこと、横綱になってからは清國・玉の海・北の富士が稽古にきたことを引き合いに出し、武蔵川理事長らを支持した。2009年3月場所後、若の里の負傷により稀勢の里は同部屋の関取との稽古が不可能になった。このため鳴戸は特例として同年4月24日に伊勢ヶ濱部屋への出稽古を認めた。稀勢の里によれば「23日に日馬富士が来てくれたから、今度はこちらから行け」と命じられたという。この稽古以降は、2010年5月1日の二所ノ関一門の連合稽古まで出稽古は行われなかった。。2010年(平成22年)1月場所後に行われる日本相撲協会理事選に立候補する意思を示していたが、一門の緊急会合で対立候補となる貴乃花親方を支持する多くの親方(その中には同期入門の間垣親方(元2代若乃花)が含まれていた)が事実上破門させられたことを受け、立候補を断念した。大相撲八百長問題を受けて自由競争方式で新弟子を獲得することに対して「派閥や癒着が生まれ、それが八百長を生む温床になりかねない」「環境の良さなどを口説き文句にスカウトするため入門後に厳しく指導できないケースがある」と指摘し、大学や高校で実績を挙げた入門希望者の所属部屋を獲得希望する部屋による抽選で決める「新弟子ドラフト」制度を提言したが、同年11月に急死したこともありこれは実現されなかった。2011年(平成23年)11月6日、朝は稽古場に姿を現していたが、夜になり体調不良を訴え、39度の高熱があったため、夫人と鳴戸部屋付きの西岩親方(元幕内・隆の鶴)、幕内・若の里に付き添われ、杖をつきながら自力で歩き、福岡市の福岡輝栄会病院に車で向かうとそのまま緊急入院。喘息などの治療をしていたが、午後9時ごろに容態が急変し集中治療室に移された。関脇・稀勢の里が病院に駆けつけた際には意識不明の状態であった。翌11月7日午前9時51分、入院先の病院で家族に看取られながら急性呼吸不全のため死去した。九州場所後の稀勢の里の大関昇進を見ないままの無念の死だった。没後すぐの部屋関係者の証言によれば鳴戸は稀勢の里大関昇進の使者を迎えるために紋付羽織袴を新調したばかりで、まだ1度しか袖を通していなかったそうである。鳴戸の死によりそのままでは鳴戸部屋所属者全員が11月場所に出場不能となるため、西岩が急遽名跡を鳴戸に変更して部屋を継承することが11月8日の緊急理事会にて承認された。直後の11月場所で稀勢の里は10勝5敗と際どい成績だった(直前3場所の合計成績は32勝13敗、大関昇進の目安となる合計33勝に1勝足りなかった)が場所後大関昇進が決定、鳴戸の遺影の前で伝達式が行なわれた。晩年の鳴戸は現役時代より体重が30kg以上も増え、少々歩くと呼吸が荒くなることもあり、又本場所中に入院し、場所中の監察委員の業務を休んだこともあった。2000年ごろから心臓疾患があり、心臓発作時に服用する薬を常備するほどであった。睡眠時無呼吸症候群も併発したほか喘息に苦しんでおり、放駒理事長(当時)によると、最後は肺炎も起こしていたという。鳴戸の主治医によると両脚に蜂窩織炎もあり、40度の高熱を出すこともあった。部屋の力士たちは朝稽古中に師匠の訃報を知らされた。16時25分、病院にて部屋の若い弟子が白い布で師匠の姿を隠し、目を涙でにじませた稀勢の里、若の里、高安が180kgほどある師匠の亡骸を2分ほどかけて搬送車に乗せた。当日夕方から福岡市の香椎典礼会館で急遽部屋主催のお別れの会が行われ、鳴戸部屋所属力士や相撲協会関係者が列席した。その後遺体は19時間かけ、翌8日夕方に千葉県松戸市の鳴戸部屋に無言の帰宅をした。葬儀及び告別式は11日午前9時30分より松戸市の斎場にて行われ、夫人が喪主を務めた。尚、戒名は隆昌院忍岳俊道居士。横綱経験者だが理事経験がないため、両国国技館での協会葬は行われず、12月14日、二所ノ関一門による一門葬が千葉県松戸市内の鳴戸部屋で行われた。11月8日には『週刊新潮』2011年11月3日号及び11月10日号の報道による鳴戸部屋での弟子暴行疑惑と十両・隆の山へのインスリン注射疑惑に関する緊急理事会を開催、鳴戸への処分が検討される予定であった。当日の臨時理事会では、西岩の年寄・鳴戸襲名、鳴戸部屋の継承が承認された。隆の山へインスリンを投与問題では、隆の山が鳴戸の糖尿病治療のため処方されたインスリンを自ら注射したことを認めた。インスリンは世界アンチ・ドーピング機関の禁止薬物に指定されているが、日本相撲協会の規定では禁止されておらず、本人が体重増量目的で師匠の了解を得ていたと説明。稀勢の里による師匠の暴行幇助疑惑は、親方の方を向かせるために力士をつかんだためと報告された。二人は聞き取り調査の際に放駒理事長から注意を受けた。鳴戸の弟子暴行疑惑に関しては、鳴戸が2006年に弟子を角材などで殴打したと認めていたが、鳴戸本人の急死により調査は打ち切りとなった。相撲協会は鳴戸部屋に再発防止を命じ、各部屋にも通達を出すとした。しかし、監督官庁である文部科学省の中川正春文科相は、閣議後に「調査に影響が出ると思うが、相撲界全体で暴力沙汰の話が出てこないように正常化することが大事だ」述べた。相撲協会は後日、文科省に調査報告書を提出するが、中川文科相は「相撲協会には調査と報告を求めていた。引き続き調査をしてもらう」と真相究明を求めている。また、九州場所の際の恒例である、歴代横綱が参集して会食する『横綱会』はこの一連の事態を受けて中止された。ところが2012年9月10日、2011年10月下旬に問題となった鳴戸や他の力士からの暴行や行司からのセクハラを受けた問題に際し、鳴戸部屋に所属していた18歳と22歳の元力士が、行司と鳴戸遺族に対し2200万円の損害賠償要求を千葉地裁松戸支部に提訴した。第1回口頭弁論は10月29日。裁判は2013年12月に部屋の名称が田子ノ浦部屋へと改称されて以降も続いていたが、2014年5月16日に千葉地裁松戸支部は原告の請求を棄却している。
出典:wikipedia
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