森本 稀哲(もりもと ひちょり、1981年1月31日 - )は、東京都荒川区出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。在日韓国人の父親と日本人(済州島出身)の母親を持つ。帝京高校では3年生の時に主将、遊撃手として第80回全国高等学校野球選手権大会に出場。3回戦の浜田高校戦で、8回表に和田毅からバックスクリーンへの同点本塁打を放つも敗退した。高校通算34本塁打。1998年のドラフトで日本ハムファイターズに4位で指名され、入団。当初は内野手(三塁手)だったが、外野手に転向した。2年目のに一軍初出場・初本塁打を記録。主に守備・代走要員で起用される。、監督に就任したトレイ・ヒルマンに「バーニー・ウィリアムスの再来」と評され、1番・中堅手で初めて開幕スタメン起用される。4月だけで4本塁打を打つが、その後は打撃が伸び悩み、移籍してきた坪井智哉にポジションを奪われ、守備・代走要員にとどまった。しかし、には打撃が向上し、初の100試合出場で打率.264、7本塁打を記録した。は開幕スタメンの坪井の離脱などもあり4月下旬頃から1番・左翼手に定着し、自身初の規定打席に到達し、本塁打・打率ともに自身過去最高を記録。パシフィック・リーグ最多得点を記録し、ゴールデングラブ賞を初受賞した。7月、オールスターゲームに初出場して第2戦で本盗に成功した(2004年の同僚・SHINJO(新庄剛志)以来史上3人目)。10月、日本シリーズに初出場して当シリーズ最高打率を記録し、優秀選手賞を受賞した。、前年限りで引退した新庄の意向で同選手が着用していた背番号1を継承し、主に新庄が就いていた中堅手に定着。シーズン終盤まで片岡易之(西武ライオンズ)と盗塁王のタイトルを争うなど(結果は片岡が盗塁王)、不動の1番打者として全イニング出場を果たし、2年連続のリーグ最多得点と初の打率3割を記録。24試合連続安打はリーグ歴代6位タイ、球団では大下弘と並び最多タイ記録。右打者であるが、内野安打の数も稲葉篤紀に次ぐリーグ2位を記録。最多得票でゴールデングラブ賞と、初のベストナインを受賞。補殺数は両リーグ1位の15個を記録した。5月25日の読売ジャイアンツ戦で、西村健太朗から死球を受けて左手小指を骨折(全治5週間)。2006年から続いていたフルイニング出場も途絶えた。後半戦はケガの影響から不振に喘ぎ、自身最低の打撃成績となった。3年連続となるゴールデングラブ賞を受賞。5月19日に新庄剛志経営でアスリートのマネジメント等を業務とする株式会社レハサフとマネジメント契約を締結し、一定期間契約していた。は糸井嘉男に中堅手を奪われ、左翼手としての出場が多くなり、スタメン落ちも増え出場機会が激減。同年5月、出場登録日数が8年に達し、国内移籍が可能となるFA権を取得。オールスター戦明けには出場機会も増えていたが、8月6日の西武戦でジョン・ワズディンから死球を受け、左手小指を骨折。107試合に出場したが規定打席に到達せず、打率も.247に終わった。田中賢介が1番に定着して2番に回り、リーグ最多の43犠打を記録し、成功率10割を誇ったが、巨人と対戦した日本シリーズでは何度もバント失敗を繰り返し、2併殺と不振だった。この年はFA権を行使せず残留し、記者会見で「どんな条件を出されても残留するつもりだった。他チームでプレーする理由がまったくない」と語った。7月14日の西武戦の初回、犠打を試みた際に野上亮磨から死球を受け退場。右手薬指を骨折し、翌日に登録を抹消された。これで3年続けて死球により骨折したが、それでも2年連続リーグ最多の55犠打を記録し、打率も.272と持ち直した。同年オフにFA権を行使し、横浜ベイスターズへ移籍。12月11日に正式契約。同日に横浜中華街の媽祖廟で入団会見が行われた。背番号は5に決定。、6番・中堅手で開幕スタメン出場。5月1日に扁桃腺炎のため登録を抹消された。その後復帰したが、7月6日の広島東洋カープ戦で上野弘文との投打戦に自打球を当て左足を負傷。左足脛骨近位骨挫傷と診断され8日に再び登録を抹消され、一軍復帰は10月となった。復帰後も若手主体で起用する監督の方針もありスタメン出場は限られ、成績面でも結果を残せなかった。、2年連続で開幕スタメンとなるが、アレックス・ラミレスの加入、荒波翔の飛躍もあり、5月以降はスタメン機会が減少。代打、代走、守備固めでの途中起用が多くなった。最終的には108試合に出場し、スーパーサブとしてチームを支えた。9月に左手有鈎骨を骨折し、28日に登録抹消されシーズンを終える。、この年は出場機会に恵まれず、シーズンのほとんどが二軍でのプレーとなり、10月4日に球団から戦力外通告を受けた。シーズン最終戦の10月8日の対阪神タイガース戦(横浜スタジアム)で2番・右翼手で先発出場し、2打数無安打で4回の守備から退いた。その後埼玉西武ライオンズの秋季キャンプにテスト生として参加し、2013年11月19日に同球団への入団内定が発表され、12月4日に正式に契約したことが発表された。、開幕一軍入りし、3月29日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で移籍後初出場。開幕前の秋季キャンプで一塁手の練習をしており、実際4月12日の対日本ハム戦で一塁手として出場した。一軍の試合で一塁の守備に就いたのはプロ初である。最終的に、一塁手としての出場機会が外野手としてのそれを上回った。同年は99試合に出場し、打率は.252と一定の成績は残した。も開幕一軍入りは果たしたが11試合で11打数無安打と結果を残せず二軍落ちとなり、このシーズンを限りに現役引退を決断、9月21日に会見を行った。9月27日に引退試合(対楽天、西武プリンスドーム)が行われ、8回表の守備から7番・右翼手として途中出場する。試合にチームが勝利したため最後の攻撃となった8回裏は1番打者から始まるが、ベンチで起こった「ひちょりさんに回せ」の合言葉のもと、二死で打席が回る。涙を流しながら入った現役最終打席で三塁ゴロを記録する。セレモニーで流されたビデオメッセージには同僚に加え、日本ハム時代の元同僚・新庄剛志、稲葉篤紀もコメントを寄せており、その後グラウンドへ現れた稲葉からも花束を贈られる。スピーチでは打席を回してくれたチームメイトへ涙ながらに感謝の意を表す。11月27日付で、日本野球機構(NPB)から任意引退選手として公示された。経営学を学ぶ目的で、コンサルティングなどの事業を展開する東京都内の一般企業へ入社。2016年1月からは、日本ハム時代のチームメイト・金村曉の後任扱いで、『みんなのテレビ』(北海道文化放送)の月曜コメンテーターを務める。さらに、同年のプロ野球シーズンからは、同局に加えてSTVラジオ・北海道テレビ放送・北海道放送・CBCラジオ・テレビ東京(BSジャパン)・テレビ北海道・TVQ九州放送・テレビ神奈川・文化放送(ゲスト)・GAORA・スポナビライブ横浜DeNA戦の野球解説者としても活動する。真面目で、とにかく明るい性格とスキンヘッドが特徴。「ひちょり」という名前は、「稀哲」の韓国語での発音「ヒチョル」から取って父が命名した(「稀哲」という名に決めた理由は不明)。プロ入り当時、一部の選手名鑑には「ひちょり」でなく「ひろより」「ひちより」と誤った振り仮名を振っているものや、「稀哲」を「秘哲」と誤植しているものがあった。初等教育は韓国学校で、本人も「在日としての民族意識は強かったです」と話している。プロ入り後の2007年11月に日本へ帰化している。小学生の時、汎発性円形脱毛症にかかった。これは髪の毛などの体毛全てが、突然、抜け落ちて生えなくなってしまう病気で、現在はほぼ克服しているが、「当時の苦労を忘れないように」「同じ病気で苦しむ人に勇気を与えるために」と、毎日自分で剃刀を当ててスキンヘッドにし続けている。中学生まではサッカーもやっていて、中学生時代に東京ヴェルディの入団テストを受験したことがある。自身のイメージカラーを日本ハム時代は緑、横浜への移籍後は黄に定め、リストバンド等の色に用いている。横浜移籍時に黄へ変更した理由は、チームの青いユニフォームに映える色にしたかったからという。鯖(特に塩焼き)が嫌い。これは高校時代、監督から「もっと体力をつけろ」と食事を増やされ、食べ過ぎによる嘔吐を起こした時の食べ物が鯖の塩焼きだったというトラウマによるもの。日本ハム時代の先輩の新庄剛志と師弟関係を築いている。2004年からの新庄の日本ハム入団が決まった頃、森本はコーチ等の指導にもあまり耳を傾けておらず伸び悩んでいた。森本は同ポジションのスター選手が入団することに対し「なんで新庄来るんだよ」と思っていたが、新庄から打撃や守備を毎日根気強く教わり、「初めて自分のためを思って言ってくれている」と感じて慕いだしたと語る。新庄の現役最終出場となる2006年の日本シリーズ第5戦で日本一を決めるレフトフライのウイニングボールを掴んだ森本は、マウンド方向へではなく打球を追ってきている中堅手・新庄の方へ向かい走り出し、両者は左中間で抱擁しあった。その試合後に新庄は「背番号1をひちょりにつけてもらいたい」と発言し、翌年より「1」を受け継いだ。出身の帝京高校野球部の先輩であるとんねるず・石橋貴明と交遊があり、正月特番『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル』(テレビ朝日系)に「チーム石橋」の一員として2007年、2009年 - 2011年と続けて出演している。2007年はチームパラダイス(新庄、森本、川崎宗則)として石橋と対戦し、2009年からは石橋とチームを組んでいた。2012年に前年の本業の打率が.187と不調であったためチーム石橋を戦力外通告されていたが、2014年には「チーム帝京高校」として出演している。実家は東京都荒川区西日暮里の焼肉店「絵理花」。野球ファンも多く集まる人気店だったが、建物の老朽化と両親の体力的な問題のため、2013年10月限りで閉店している。2012年3月8日にモデルの悠美と結婚。2014年7月26日に第1子となる女児が誕生する。新庄剛志の影響もありファンサービスとして、他の選手も交えて様々なパフォーマンスを披露している。また、2シーズン以上を通じて新庄が本塁打時の談話にて独特の打法名を付けていたのを倣い「〜ホームラン!」、適時打の場合は「〜ヒッツ!」と付けている。外野守備では日本ハム時代に左翼手として、中堅・SHINJO、右翼・稲葉篤紀との外野陣を2005年に10数試合、SHINJOの現役最終2006年には1年を通して形成し、3人揃って2006年度ゴールデングラブ賞を受賞した(同一チーム選手での同賞の外野手部門独占は・阪急ブレーブス以来、史上2回目)。中堅のSHINJOとは「左中間への深い打球を捕球→体勢が悪い時は相手にトス→トスを受けた方が補殺を狙う」という連携を時折行った。
出典:wikipedia
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